日本では8月上旬に「戦争を振り返る」企画が新聞やテレビで行われる。3週間近く経ってしまったが、その中で是非紹介したかった言葉がある。それは東京新聞8月14日に掲載された元プロ野球選手、杉下茂(94歳)のインタビュー記事である。杉下茂と言われても、僕の世代だと現役当時の活躍は知らず、かろうじて名前を覚えている程度だ。戦争体験のことは全く知らなかったが、胸に迫る言葉の深さに驚いたのである。
(杉下茂氏)
インタビュー内容に入る前に杉下茂の紹介。「フォークボールの神様」と呼ばれて、日本で初めてフォークボールを投げた投手だと言われている。それは僕も知っている有名な話だが、調べてみると本当はスピードのある直球勝負の投手で、当時はフォークボールは一試合に数球程度しか投げなかったという。1949年に中日ドラゴンズに入団して、1954年には中日の初優勝、投手五冠王、MVPに輝いた。沢村賞を3回受賞したことでも知られる。国鉄スワローズの金田正一と投げ合うことが多く、1955年には金田相手に1対0でノーヒットノーランを達成した。一方、1957年に1対0で金田が完全試合を達成したときの相手投手だった。
(現役当時の杉下)
杉下茂は1925年生まれで、東京都千代田区(現)で育って、旧制帝京商業学校の野球部で活躍した。1941年の中止された甲子園の高校野球に出場予定だった。「あれは帝京商3年生の1941年だった。地区予選を勝ち抜いて、さあ、甲子園だというところで、中止になってしまった。残念だったが、大人たちはそれどころではないという感じ。今年はコロナで中止になったが、私たちのとき以来、79年ぶりだというね。この年の12月、日本は太平洋戦争に突入したんだ」
「―そのときの思いは。」
「日本はどうなってしまうのかという不安と野球をやりたい気持ちが入り交じっていた。1942年は文部省(現文部科学省)が主催となって夏の大会が復活したが、正式な大会ではないため、『幻の甲子園』と呼ばれている。私は予選に出たが、この大会は戦意高揚が目的だったから、投手からぶつけられても『球から逃げるとは何事だ』と怒られ、死球を取ってもらえなかった。ひどい時代だった」
「―「魂の野球」と呼ばれた時代ですね。選手は審判におかしいとは言えない雰囲気だったのですか。」
「何しろ、世の中全てがそうだった。大人からああしろこうしろと言われれば、『ハイ』と答えるしかなかった。異議を唱えるなんて許されなかった。国はそこのところをよく考えて、子どもたちに『お国のために』と教え込んだ。軍事教育だね。だから、私は教育というのは本当に大事で、国が危うくなるときは教育からおかしくなると思っている」
その後召集され、中国戦線に従軍、行軍のつらさ、上官の体罰などが語られる。そして叔母から兄の死を知らせる手紙が届いた。制海権がすでに奪われていたので、それが軍隊時代に受け取った唯一の郵便だったという。
「―確かお兄さんは3歳年上でした。どんな方でしたか。」
「兄の安佑は、優しくて、しっかりしていて、野球が上手な人だった。海軍に入っており、この年の3月21日に沖縄で戦死した。神雷部隊といってね。特攻専用の桜花という機体に乗り、米艦に突撃したとのことだ。2階級特進で少佐になったと書いてあったが、そんなことはどうでもよかった。小さいころからキャッチボールをしてくれた兄がいなくなったのが、悲しかった」
日本の敗戦に伴い、中国軍に武装解除され捕虜収容所に。そこは水が悪く多くの戦友が亡くなっていった。そんな中で捕虜収容所でも野球をやった。スポーツがつらい生活を救ってくれたという。野球大会を開いたり、バレーボールやバスケットボールもやった。スポーツで最後まで諦めずにプレーすることに助けられた。
「―戦後、75年がたち、当時の様子を話せる人が少なくなりました。最後に戦争経験者として次の世代に残したい思いを聞かせてください。」
「あの戦争では多くの若者が犠牲になった。兄は野球がうまかったから、無事でいたら、私を上回る野球選手になっていたことだろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見が言える世の中にしておくことだ。戦争中は上官が突撃しろといったら『ハイ』といって従った。それが特攻や自決につながった。そんなのは間違っている。私はおかしいことをおかしいと言えない空気が悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を挙げられる世の中、『そうじゃない』と批判ができる世の中をいつまでも残してほしいと思っています」
このインタビューは新聞未掲載部分を含めて、全文が「「戦争は人間の未来を奪う」 フォークの神様・杉下茂さん(94)がひ孫世代に伝えたいこと 」で読むことが出来る。是非読んでみて欲しい。貴重な写真の数々も掲載されている。
いま改めて紹介したのは、安倍首相の退陣という事態がある。「批判できる自由」というのは、強いものが弱いものを誹謗中傷する「自由」ではない。「政権批判の自由」である。政治的な異議申し立てを出来る自由のことである。また「国が危うくなるときは教育からおかしくなる」という言葉を改めて思い出したのである。安倍政権の教育政策の評価は改めて書きたいと思うが、まさに「教育からおかしくなる」という過程だったと思っている。それにしても79年ぶりに夏の甲子園大会が中止されたという年にタイムリーな記事だった。
(杉下茂氏)
インタビュー内容に入る前に杉下茂の紹介。「フォークボールの神様」と呼ばれて、日本で初めてフォークボールを投げた投手だと言われている。それは僕も知っている有名な話だが、調べてみると本当はスピードのある直球勝負の投手で、当時はフォークボールは一試合に数球程度しか投げなかったという。1949年に中日ドラゴンズに入団して、1954年には中日の初優勝、投手五冠王、MVPに輝いた。沢村賞を3回受賞したことでも知られる。国鉄スワローズの金田正一と投げ合うことが多く、1955年には金田相手に1対0でノーヒットノーランを達成した。一方、1957年に1対0で金田が完全試合を達成したときの相手投手だった。
(現役当時の杉下)
杉下茂は1925年生まれで、東京都千代田区(現)で育って、旧制帝京商業学校の野球部で活躍した。1941年の中止された甲子園の高校野球に出場予定だった。「あれは帝京商3年生の1941年だった。地区予選を勝ち抜いて、さあ、甲子園だというところで、中止になってしまった。残念だったが、大人たちはそれどころではないという感じ。今年はコロナで中止になったが、私たちのとき以来、79年ぶりだというね。この年の12月、日本は太平洋戦争に突入したんだ」
「―そのときの思いは。」
「日本はどうなってしまうのかという不安と野球をやりたい気持ちが入り交じっていた。1942年は文部省(現文部科学省)が主催となって夏の大会が復活したが、正式な大会ではないため、『幻の甲子園』と呼ばれている。私は予選に出たが、この大会は戦意高揚が目的だったから、投手からぶつけられても『球から逃げるとは何事だ』と怒られ、死球を取ってもらえなかった。ひどい時代だった」
「―「魂の野球」と呼ばれた時代ですね。選手は審判におかしいとは言えない雰囲気だったのですか。」
「何しろ、世の中全てがそうだった。大人からああしろこうしろと言われれば、『ハイ』と答えるしかなかった。異議を唱えるなんて許されなかった。国はそこのところをよく考えて、子どもたちに『お国のために』と教え込んだ。軍事教育だね。だから、私は教育というのは本当に大事で、国が危うくなるときは教育からおかしくなると思っている」
その後召集され、中国戦線に従軍、行軍のつらさ、上官の体罰などが語られる。そして叔母から兄の死を知らせる手紙が届いた。制海権がすでに奪われていたので、それが軍隊時代に受け取った唯一の郵便だったという。
「―確かお兄さんは3歳年上でした。どんな方でしたか。」
「兄の安佑は、優しくて、しっかりしていて、野球が上手な人だった。海軍に入っており、この年の3月21日に沖縄で戦死した。神雷部隊といってね。特攻専用の桜花という機体に乗り、米艦に突撃したとのことだ。2階級特進で少佐になったと書いてあったが、そんなことはどうでもよかった。小さいころからキャッチボールをしてくれた兄がいなくなったのが、悲しかった」
日本の敗戦に伴い、中国軍に武装解除され捕虜収容所に。そこは水が悪く多くの戦友が亡くなっていった。そんな中で捕虜収容所でも野球をやった。スポーツがつらい生活を救ってくれたという。野球大会を開いたり、バレーボールやバスケットボールもやった。スポーツで最後まで諦めずにプレーすることに助けられた。
「―戦後、75年がたち、当時の様子を話せる人が少なくなりました。最後に戦争経験者として次の世代に残したい思いを聞かせてください。」
「あの戦争では多くの若者が犠牲になった。兄は野球がうまかったから、無事でいたら、私を上回る野球選手になっていたことだろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見が言える世の中にしておくことだ。戦争中は上官が突撃しろといったら『ハイ』といって従った。それが特攻や自決につながった。そんなのは間違っている。私はおかしいことをおかしいと言えない空気が悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を挙げられる世の中、『そうじゃない』と批判ができる世の中をいつまでも残してほしいと思っています」
このインタビューは新聞未掲載部分を含めて、全文が「「戦争は人間の未来を奪う」 フォークの神様・杉下茂さん(94)がひ孫世代に伝えたいこと 」で読むことが出来る。是非読んでみて欲しい。貴重な写真の数々も掲載されている。
いま改めて紹介したのは、安倍首相の退陣という事態がある。「批判できる自由」というのは、強いものが弱いものを誹謗中傷する「自由」ではない。「政権批判の自由」である。政治的な異議申し立てを出来る自由のことである。また「国が危うくなるときは教育からおかしくなる」という言葉を改めて思い出したのである。安倍政権の教育政策の評価は改めて書きたいと思うが、まさに「教育からおかしくなる」という過程だったと思っている。それにしても79年ぶりに夏の甲子園大会が中止されたという年にタイムリーな記事だった。
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