尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

グザヴィエ・ドラン監督「たかが世界の終わり」

2017年02月20日 21時19分24秒 |  〃  (新作外国映画)
 このブログでも前に紹介したカナダの若き映画監督グザヴィエ・ドランの新作、「たかが世界の終わり」の紹介。2016年のカンヌ映画祭グランプリ受賞作品。(カンヌのグランプリは、パルムドールに次ぐ次席に当たる。)日本ではアカデミー賞作品はすぐに公開されるが、カンヌなどの映画祭受賞作品は翌年回しになることが多い。前回の「エリザのために」もそうだし、パルムドールの「私、ダニエル・ブレイク」ももうすぐ公開される。そのケン・ローチの映画はすごくインパクトがありそうで楽しみ。

 グザヴィエ・ドランは、1989年にモントリオールで生まれた。まだ27歳である。19歳で作った「マイ・マザー」がカンヌ映画祭監督週間で評価された。その後、カンヌやヴェネツィアで評判になり、前作の「MOMMY/マミー」はカンヌ映画祭審査員賞を得た。こういう経歴から「カナダの若き天才」とよく言われるけど、僕は前からこの人を「天才」と呼ぶべきなんだろうかと思っている。

 ある朝、ルイが12年ぶりに家に帰るために飛行機に乗っている。22歳で家を出たまま、初めて帰るのである。自分がもうすぐ死ぬと伝えるために。というのが冒頭にナレーションで明かされる。過去のできごとが一切出てこないので、くわしい事情は分からない。久しぶりに家に帰った日の数時間のみが語られる。そして、そこで明かされるのは、バラバラの家族の中で、同性愛者のルイには居場所が失われているという現実である。ひたすら「意味のない会話」が続くことにより、ディスコミュニケーションの持つ意味が観客に突き刺さるように提示される。

 ほとんど顔のクローズアップと会話が延々と続く映像は、「天才」の映像というよりも、もっと武骨な印象を与える。よく煮込まれたポタージュのような映画ではなく、大きく切った野菜がゴロゴロ煮込んであるポトフのような映画。痛切ではあるけれど感動はなく、痛々しいまでに傷つけあう姿が提示される。ドランは「伝えたいこと」があるから映画を作っているのであって、天才的映画監督なんかじゃないと思う。言いたいことをテクニックそっちのけでぶつけてくる。

 もっとも、演出の能力は次第に格段にうまくなっていると思う。カナダと言ってもケベック州出身だから、フランス語映画である。今考えられる最高とも言えるキャストをそろえている。母親がナタリー・バイ、兄がヴァンサン・カッセル、兄の妻がマリオン・コティヤール、妹がレア・セドゥ。いちいち説明はしないけど、この顔触れは素晴らしい。これらの俳優をほとんどクローズアップで見せるのだから、勇気がある。では、主役のルイは誰かというと、1984年生まれのキャスパー・ウリエル。「ロング・エンゲージメント」で注目され、「ハンニバル・ライジング」で若き日のレクター博士役をやったという。どっちも見てないけど、その後「イヴ・サンローラン」でタイトル・ロールを演じたと見て思い出した。

 「家族」というのは、本当に困りものだと思う。多くの人にとって、そうではないか。特に何も問題はないという人もいるだろうけど、それでもどこかうっとうしいところもある。もちろん「愛」や「絆」はあるのである。だけど、「愛」は同時に「束縛」でもあり、「過剰な期待」でもある。それに対して「間違ったメッセージ」を家族に発してしまうと、取り返しがつかないことにもなる。現実に同性愛者であるグザヴィエ・ドランは、その人生でいかに違和感を持ち続けたかが、やはりこのような映画になるんだろう。

 このようにストレートに傷つけあう家族映画は最近珍しいかもしれない。だからカンヌでも評価されたんだろう。日本のような「微温的」な家族映画が多い社会とはかなり違う。そういうところも含めて、楽しい映画というのとは違うけれど、これもまた見ておいていい映画だろう。セクシャル・マイノリティ(に関心がある人)やアート映画ファンだけでなく。ところで、この家族にはかつて何があったのか。それを想像するのも、この映画を見る楽しみだろう。映画では出てこない過去を観客が自分で想像するのも。
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