尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「もののけ姫」の反人間主義ー宮崎駿を見る②

2020年07月05日 21時06分30秒 |  〃  (旧作日本映画)
 1997年7月12日に公開された宮崎駿監督の「もののけ姫」は当時の興行記録を塗り替える大ヒットを記録した。その後「千と千尋の神隠し」がメガヒットになったので、何となく「もののけ姫」の印象が薄くなっているが、1998年の正月になっても上映されていたのである。この映画を最初に見た時は、その衝撃的なテーマ設定映像の美しさダイナミックな展開に感動を覚えた。その年の自分のベストワン映画である。キネ旬ベストテンでは2位に選出されている。

 この映画を見直して、その難解さに驚いた。難解というか、ただ展開をドキドキしながら楽しむことは出来る。しかし、一体この登場人物は歴史上でどういう役割を担う人なんだろうかとか、動物と人間のあるべき関係宗教性と祟りの問題などを考え出すと、理解が難しいのである。多くの人は、この映画はすごいと感じながらも、筋書きを説明出来ないんじゃないだろうか。子ども向けの適度なセンチメンタリズムも見られない。妥協なく自己の世界観を貫徹している。

 1984年の「風の谷のナウシカ」がキネ旬ベストテン7位になって以来、宮崎アニメはずっとベストテンに入選してきた。「天空の城ラピュタ」(1986、8位)、「となりのトトロ」(1988、1位)、「魔女の宅急便」(1989、5位)、「紅の豚」(1992、4位)と続いている。その間、高畑勲監督の「火垂るの墓」(1988、6位)、「おもひでぽろぽろ」(1991、9位)、「平成狸合戦 ぽんぽこ」(1994、8位)もあったわけだから、当時はそんなに意識していなかったけれど、単に日本やアニメ映画というだけではない世界映画史上の奇跡の時代に立ち会っていたのである。

 1995年には近藤喜文監督の「耳をすませば」が公開されたが、宮崎駿作品は5年間作られていない。(なお近藤監督はそれまで宮崎、高畑作品で作画監督などを務めていた。1998年に亡くなったので、「耳をすませば」が唯一の監督作品である。)そして宮崎監督が満を持して発表したのが、「もののけ姫」である。最初はいつの時代か判らない。明らかに日本列島のどこかであるが、「タタリ神」となったイノシシが出てくるなど、古代かと思う。しかし主人公のアシタカが西へ旅立つと、やがて「たたら製鉄」で銃を作るムラが出てくるので、中世だったのである。

 中世の非農業民の世界を描いていて、それは当時大きな注目を集めていた中世史家・網野善彦の影響だった。また「たたら製鉄」を行うムラ(というより「城塞都市」と呼ぶべきだろう)では明らかにハンセン病者が労働力の担い手として重要な役割を果たしている。ムラを束ねるリーダーのエボシ御前と呼ばれる謎の女性は、病者に差別心を持っていない。日本では1996年の「らい予防法」廃止まで、ハンセン病患者の「隔離」が法律上続いていた。「もののけ姫」公開の一ヶ月前に、僕はFIWC関東委員会の「らい予防法廃止一周年集会」を開催していたのである。

 僕は溝口健二や黒澤明の古い名作映画を敬愛しているが、「もののけ姫」製作時点で40年以上も経っていて、「雨月物語」や「七人の侍」の中世社会像に違和感が大きくなっていた。それは自分が歴史教員だからという特殊要因が大きい。「もののけ姫」の新しい中世社会像を見て、それだけで高い評価をしたのである。またハンセン病問題を取り上げたことで(それは説明されないので、判らない人もいるだろうが)、それも僕にとって大きかった。この映画を作るに当たって、宮崎監督はハンセン病療養所多磨全生園を訪れて参考にしていた。

 宮崎作品はそれまで、どこと明示されていない場合が多いが、ヨーロッパ的景観を描くことが多かった。「となりのトトロ」は例外だが、「もののけ姫」は本格的に「日本の歴史と格闘した」という意味で特別の重みがある。この映画の「たたら製鉄の村」は実はヨーロッパ風の「城塞都市国家」であって、「カリオストロの城」や「天空の城ラピュタ」の系譜にある。しかし、ここでの労働の描写が「千と千尋の神隠し」の湯屋につながって行くのである。

 内容的に言えば、一応アシタカという「旅する青年」のイニシエーション(通過儀礼)である。そこにエボシという謎の女性が出てくる。では題名の「もののけ姫」とは何だろうというと、山犬に育てられたサンという娘のことである。エボシが謎の男たちと進める「シシ神殺し」(森の開発)を、アシタカとサンがいかに止められるか。それがメインテーマだが、事が終わってもサンは人間を信じることが出来ない。深いアンチヒューマニズム(反人間主義)に驚く。

 映像の力は圧倒的だが、シシ神とかタタリ神とは何なのかは全く判らない。エボシをどう評価するべきかも、もともと歴史上の人物を一面的に評価は出来ないけれど、なかなか難しい。このような「女性大名」的な存在は皆無とは言えないが、やはり空想的存在だろう。細かく検討して行くと、映画で描かれている内容の前提が崩れてしまうかもしれない。それでも、ここまで「日本的なるものと格闘した作品」は思い浮かばない。ベストテンは運だけど、この年はカンヌ映画祭パルムドールの今村昌平監督「うなぎ」とぶつかってしまった。ファンタジーではなく、実際の日本の庶民を描いた方が強かった。
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