尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「燃えあがる緑の木」三部作①ー大江健三郎を読む⑩

2021年09月12日 22時36分03秒 | 本 (日本文学)
 新潮文庫から全3冊で出ている大江健三郎燃えあがる緑の木三部作を読み終わった。ちょうど「9・11」(アメリカ同時多発テロ)から20年ということで、関連のニュースが多い。僕もいろいろ感じることもあるが、宗教テロ、「救いはどこにあるか」などの問題はこの三部作で深く考察されているから、ここで考えたい。

 「燃えあがる緑の木」三部作は原稿用紙2千枚にもなるという大江作品で一番長い小説である。当初はこれを最後の小説にすると言っていた。内容的な疑問、完成度の問題はあると思うが、そのぐらい力が籠もっているのは間違いない。第一部は1993年11月、第二部は1994年8月、第三部は1995年3月に新潮社から刊行された。ちょうどノーベル文学賞受賞(1994年)を間にはさんだ時期で、刊行直後にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。僕は単行本は買わなかったが、1998年に刊行された文庫本を持っていた。
(第一部 「救い主」が殴られるまで カバー装飾=司修)
 この小説は今までの大江作品に出て来る「四国の谷間の森」を舞台にしている。それどころか、直接に「懐かしい年への手紙」(1987)を受けている。時代的には明示されないが、1990年代初頭と思われる。瀬戸大橋がすでに完成していること(1988年)、第2部で大江自身の「治療塔」(1990)、「治療塔惑星」(1991)の続編を登場人物が構想する部分があること、その話の中でソ連崩壊(1991年12月)に触れられていることなどである。だから主筋は1992年頃から始まるはずだ。

 この三部作は谷間の森に生まれた小さな宗教的共同体が拡大していくとともに、内外に衝突が起こるようになり「分裂」してゆく様子を描いている。その「教会」の名前が「燃えあがる緑の木」教会というのである。そのイメージと言葉はアイルランドの詩人イエーツから引用されている。「」と「」という相克するものを抱え込んだイメージは鮮烈である。3作目のラストでは実際に池の島にそびえる大檜が炎上する。

 「懐かしい年への手紙」では語り手の作家「K」(大江自身)にとって、兄貴格だった村の青年「ギー兄さん」による二度にわたる共同体建設の挫折が描かれた。ギー兄さんの悲劇的な死から10有余年、村の伝承を先のギー兄さんに伝えてきた「屋敷」のオーバー(祖母)は、いよいよ死が近づいている。そして「ギー兄さんを呼んできてくれ」と言う。「先のギー兄さん」はすでに亡くなっている。しかし、この時作中人物の多くは誰のことを指しているのかすぐに判ったのである。それは村に住んでオーバーから伝承を受けていた「」という人物である。

 以後村人は隆を「ギー兄さん」と呼ぶ。彼はこの地域出身の外交官「総領事」の息子で、大学時代に友人との関係で新左翼党派の「内ゲバ」に関与した過去がある。父は息子を外国へ送ることも考えたが、彼は父の友人でもある作家の「K伯父さん」(大江自身)の紹介によって森の「屋敷」に籠もることにしたのである。それは彼が「」についてじっくり考えたかったからだ。と言っても、一体これは何なんだろうと思ってしまう。なんで屋号のように「二代目ギー兄さん」を「襲名」する必要があるのだろうか。

 ところで、この小説の語り手は「懐かしい年への手紙」と違って、作家自身ではなく「サッチャン」という人物になっている。サッチャンは村の生まれだが、孤児となって屋敷に引き取られオーバーの世話をしていた。東京の大学へ通った時には、K伯父さんの家に住んで障がい児の「ヒカリさん」の通学に付き添ったこともあった。その時は男性として生きていたが、実は両性具有者だった。村へ戻ってからは女性として生きることにして、なかなか理解されない中を生き抜いている。大江文学初期には同性愛者が多く出て来ることを⑨で指摘したが、ここでは両性の特性を持つ「インターセクシャル」(半陰陽)の人物が重要な役割で登場するのである。

 さすがに大江文学最大の巨編だから、なかなか内容に入らないまま長くなってきた。2回に分けて、僕の疑問に関しては次回に回したいと思う。第一部ではオーバーがついに亡くなり、その葬儀では「童子の蛍」と呼ばれる伝統行事が復活される。K伯父さんも参加して、日を持って山を登るイメージが鮮烈だが、実は行事の裏には隠された目論見があった。そして葬儀の日、立ち上る焼き場の煙を潜った鷹が大岩に登っていた「2代目ギー兄さん」にぶつかってくる。その姿を多くの村人が目撃する。

 オーバーの不思議な力がギー兄さんに受け継がれた「奇跡」だと村人は受け取る。心臓病の子どもにギー兄さんが触れると奇跡的に病状が軽快する。小児ガンの子どもも生きる力を取り戻し、ギー兄さんは「救い主」なのかと評判になるが、一方でそれを認めない村人との対立も深まっていく。ガンの子どもが死亡し、村人たちは集まってギー兄さんを糾弾する。そこまでが第一部『「救い主」が殴られるまで』になる。
(第二部 揺れ動く(ヴァシレーション)
 第二部はどうしても「間奏曲」的な感じがするが、第三部に向けて重要人物が登場し、また重要人物が退場する。「ギー兄さん」(2代目)の父である「総領事」は、かつてサンフランシスコ総領事を務めていたことがあって呼び名が定着した。しかし、その後も順調に出世しアルジェリアなどの大使を務めた後、EC(ヨーロッパ共同体、1992年11月からEUとなる)駐在大使となって、当時のN総理(中曽根?)の信認も厚かった。しかし、その後定年を残して退官し、息子の住む四国の村へ戻ってきたのである。それは死に至る病を自覚したからで、晩年を「教会」に拠って「魂」に専念したいと思ったのである。

 また先のギー兄さん以来細々ながら続いていた農場に、「伊能三兄弟」がやってきて大躍進が始まる。三兄弟というが、実は兄弟といとこである。彼らは遊びに行った道後温泉のディスコで三人娘と仲良くなって連れてくる。彼女たちは実は音楽を学んでいて、教会の合唱隊の中心になる。伊能三兄弟を中心に農場が整備され商品化が進むとともに、農場の若者たちを訓練して警備するようになる。またかつて糾弾の中心人物だった「亀井さん」は運命の転変で教会に集うようになり、私財を投げ出して大きな教会堂を建てることになる。

 他にもK伯父さんの友人の息子ザッカリー・K・高安、「総領事」の後妻(ギー兄さんの義母)「弓子さん」、国際的に活躍するピアニスト「泉さん」などが登場し、教会の外面的な整備とともに内面的な儀式なども整備されていく。最後にヨーロッパを再訪したい「総領事」はギー兄さんと訪欧の旅に出る。その一方で、怪しげな新興宗教だとするマスコミの追求も激しくなり、特に「暁新報」の花田記者が追求の最先端にいる。(これらの人物は明らかに実在人物をモデルにしている場合もあり、花田記者は本多勝一なのだろうと思う。)

 そういう中でK伯父さんと総領事らは、イエーツやダンテなどヨーロッパの作品を論じ合う。そして「総領事」と葬儀の中で、教会なりの儀式が作られていく。(それらはあくまでも「サッチャン」の視点で「教会の歴史のための文書」として語られていく。)そこで明らかになっていくのは、小さな森の教会が思わぬ大きさに発展していく中で、「本当に神はあるのか」という問題が焦点になっていく。伊能三兄弟は教会のために、ギー兄さんは救い主であると宣言して欲しいと詰め寄る。しかし、ギー兄さんはうずくまってしまい答えない。その様子を見たサッチャンは失望して教会を去る。そこまでが第二部『揺れ動く(ヴァシレーション)』。

 これだけ書いても第二部までしか終わらない。これでもずいぶん登場人物もエピソードも絞っているのだが。この小説は「懐かしい年への手紙」を先に読んでいないと、話が通じないところが多いと思う。それどころか大江自身の今までの作品が相当に引用されている。だが、それらは読んでなくても判ると思うが、「懐かしい年への手紙」とは直接のつながりが強い。主人公が同じく「ギー兄さん」と呼ばれることも共通である。それとともに、先代ギー兄さんの時には失敗した「コミューン」が、今回は曲がりなりにも大きく発展した一時期があった。そのことの問題をどう考えれば良いのか。それは次回に。
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