夏に読んでいた詩人金子光晴の本がまだ残っていた。もう飽きてきていたが、今読まないと読まずに終わると思って頑張って読み切った。僕はこの詩人にずっと関心があり、全集を探して読むことまではする気がないが、文庫に入るたびに買い求めてきた。主に中公文庫だが、結構出ているのである。そして今回持ってる本に関しては全部読んだことになる。
最近ここで書いた「金子光晴を読む」シリーズは、「『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』」「『マレー蘭印紀行』」「『詩人/人間の悲劇』」の3回である。それらは自伝や紀行で、非常に面白いのである。しかし、やはり本職は詩人である。岩波文庫にある清岡卓行編『金子光晴詩集』(1991、品切れ)は、2012年の第7刷版を持っていたが、470ページを越える分量でなかなか読む気にならなかった。だが、収録された詩は紛れもなく傑作であり、日本人の精神史に忘れられない足跡を残す。
フランス象徴派から出発し、やがて戦時下に独自の抵抗詩を書き続ける。一部は当時刊行されたが、さすがに戦況悪化とともに山中湖に疎開し、発表できない詩を書いていた。それらが戦後に公開されて大評判となったが、金子光晴は何かのイデオロギーによって戦争に反対したわけではない。だから、戦後を迎えても「民主主義」を謳歌する文学者にはならなかった。一貫して独自の「自分」を貫き通したところがすごいのである。ところが晩年になって孫(若葉)が誕生すると、メロメロになっちゃって『若葉のうた』なんていう、象徴も抵抗もない判りやすい詩を書くようになるのも面白い。
僕が一番すごいと思うのは、やはり1937年に刊行された詩集『鮫』だと思う。日中戦争開始の年で、すでに軍部主導政権だったけれど、まだこのような詩集が刊行出来たのである。もっとも軍や戦争批判というよりも、安易に時流に流されていく日本人への自虐的批判が多く、その中には自分も含まれている。ここまで「難解」かつ「韜晦」(とうかい=自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと)だと、検閲の目を通り過ぎるかもしれない。冒頭の「おっとせい」は、「その息の臭せえこと。/口からむんと蒸れる」と始まり、延々と続いて「おいら。/おっとせいのきらひなおっとせい。/だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで/たゞ/「むこうむきになってる/おっとせい。」」は、群れることの嫌いな「自分」を貫いた詩人の絶唱だ。
(金子光晴と森三千代)
詩や紀行や評論がほとんどの金子光晴の中で、貴重な小説集が1971年の『風流尸解記』(ふうりゅうしかいき)という本で、賞に縁のなかった金子光晴には珍しく、1972年に芸術選奨文部大臣賞を受賞した。まあ、この本に文部大臣が賞を与えていいのかなという内容だけど。「尸解」(しかい)は解説によると、「道家の方術の一つ。肉体を残して霊魂だけが抜けさる術」だという。「尸」は「しかばね」のことで、「抱いた少女の裸身の背後に、尸の幻影を見る中年の男」と案内にある。戦争直後の荒れ果てた東京で、死を幻視する詩人の業。だけど、ちょっとやり過ぎ的な叙述が多いかも。52歳の金子は、1948年に25歳の大川内令子と知り合う。森三千代とは離婚していて、その後令子と結婚し、また離婚し、三千代と再婚したと出ている。そこらの現実もモデルとして利用されているらしい。講談社文芸文庫から1990年に出たが、一応今もカタログにはあるようだ。
他にもいっぱいあるのだが、珍しく妻の森三千代の作品も入っているのが『相棒』という本である。森三千代は小説家としてかなりの本を出していて、戦時中の1944年には『小説 和泉式部』で新潮社文芸賞を受けている。戦後は闘病生活が続き、作品的には日本の古典やシェークスピアなどの再話がほとんどだった。まあ、金子光晴ほどの才能はなかったが、それでも妻の立場から見た金子光晴像などは興味深い。他にも『じぶんというもの』『自由について』『世界見世物づくし』などのエッセイ集が文庫になっている。題名だけ見ると面白そうな気がするんだけど、これが案外退屈。詩や紀行だと面白いのに、論を立てると冴えなくなる。
それより多くの人が金子光晴を論じた文章を集めた『金子光晴を旅する』(2021、中公文庫)が面白かった。細かくは書かないが、そこに収録されている人を少し挙げると、茨木のり子、開高健、草野心平、沢木耕太郎、寺山修司、山崎ナオコーラ、吉本隆明等々(アイウエオ順)といった多彩な顔ぶれである。多くの人に注目された人だったのである。
講談社文芸文庫の解説に、金子光晴が1975年に亡くなった時に追悼特集を出した雑誌が載っている。「文芸」「面白半分」「いんなあとりっぷ」「海」「新潮」「四次元」「諸子百家」「現代詩手帖」「うむまあ」「いささか」「あいなめ」「時間」「ユリイカ」だという。今はなくなっている雑誌も多いし、そもそも知らない雑誌がかなりある。それでも、これだけ多くの追悼特集が組まれるほど人気、知名度があった人だったのである。
最近ここで書いた「金子光晴を読む」シリーズは、「『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』」「『マレー蘭印紀行』」「『詩人/人間の悲劇』」の3回である。それらは自伝や紀行で、非常に面白いのである。しかし、やはり本職は詩人である。岩波文庫にある清岡卓行編『金子光晴詩集』(1991、品切れ)は、2012年の第7刷版を持っていたが、470ページを越える分量でなかなか読む気にならなかった。だが、収録された詩は紛れもなく傑作であり、日本人の精神史に忘れられない足跡を残す。
フランス象徴派から出発し、やがて戦時下に独自の抵抗詩を書き続ける。一部は当時刊行されたが、さすがに戦況悪化とともに山中湖に疎開し、発表できない詩を書いていた。それらが戦後に公開されて大評判となったが、金子光晴は何かのイデオロギーによって戦争に反対したわけではない。だから、戦後を迎えても「民主主義」を謳歌する文学者にはならなかった。一貫して独自の「自分」を貫き通したところがすごいのである。ところが晩年になって孫(若葉)が誕生すると、メロメロになっちゃって『若葉のうた』なんていう、象徴も抵抗もない判りやすい詩を書くようになるのも面白い。
僕が一番すごいと思うのは、やはり1937年に刊行された詩集『鮫』だと思う。日中戦争開始の年で、すでに軍部主導政権だったけれど、まだこのような詩集が刊行出来たのである。もっとも軍や戦争批判というよりも、安易に時流に流されていく日本人への自虐的批判が多く、その中には自分も含まれている。ここまで「難解」かつ「韜晦」(とうかい=自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと)だと、検閲の目を通り過ぎるかもしれない。冒頭の「おっとせい」は、「その息の臭せえこと。/口からむんと蒸れる」と始まり、延々と続いて「おいら。/おっとせいのきらひなおっとせい。/だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで/たゞ/「むこうむきになってる/おっとせい。」」は、群れることの嫌いな「自分」を貫いた詩人の絶唱だ。
(金子光晴と森三千代)
詩や紀行や評論がほとんどの金子光晴の中で、貴重な小説集が1971年の『風流尸解記』(ふうりゅうしかいき)という本で、賞に縁のなかった金子光晴には珍しく、1972年に芸術選奨文部大臣賞を受賞した。まあ、この本に文部大臣が賞を与えていいのかなという内容だけど。「尸解」(しかい)は解説によると、「道家の方術の一つ。肉体を残して霊魂だけが抜けさる術」だという。「尸」は「しかばね」のことで、「抱いた少女の裸身の背後に、尸の幻影を見る中年の男」と案内にある。戦争直後の荒れ果てた東京で、死を幻視する詩人の業。だけど、ちょっとやり過ぎ的な叙述が多いかも。52歳の金子は、1948年に25歳の大川内令子と知り合う。森三千代とは離婚していて、その後令子と結婚し、また離婚し、三千代と再婚したと出ている。そこらの現実もモデルとして利用されているらしい。講談社文芸文庫から1990年に出たが、一応今もカタログにはあるようだ。
他にもいっぱいあるのだが、珍しく妻の森三千代の作品も入っているのが『相棒』という本である。森三千代は小説家としてかなりの本を出していて、戦時中の1944年には『小説 和泉式部』で新潮社文芸賞を受けている。戦後は闘病生活が続き、作品的には日本の古典やシェークスピアなどの再話がほとんどだった。まあ、金子光晴ほどの才能はなかったが、それでも妻の立場から見た金子光晴像などは興味深い。他にも『じぶんというもの』『自由について』『世界見世物づくし』などのエッセイ集が文庫になっている。題名だけ見ると面白そうな気がするんだけど、これが案外退屈。詩や紀行だと面白いのに、論を立てると冴えなくなる。
それより多くの人が金子光晴を論じた文章を集めた『金子光晴を旅する』(2021、中公文庫)が面白かった。細かくは書かないが、そこに収録されている人を少し挙げると、茨木のり子、開高健、草野心平、沢木耕太郎、寺山修司、山崎ナオコーラ、吉本隆明等々(アイウエオ順)といった多彩な顔ぶれである。多くの人に注目された人だったのである。
講談社文芸文庫の解説に、金子光晴が1975年に亡くなった時に追悼特集を出した雑誌が載っている。「文芸」「面白半分」「いんなあとりっぷ」「海」「新潮」「四次元」「諸子百家」「現代詩手帖」「うむまあ」「いささか」「あいなめ」「時間」「ユリイカ」だという。今はなくなっている雑誌も多いし、そもそも知らない雑誌がかなりある。それでも、これだけ多くの追悼特集が組まれるほど人気、知名度があった人だったのである。
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