尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

オルタナティヴの夢破れてー見田宗介(真木悠介)著作集まとめ①

2023年07月29日 22時34分52秒 | 〃 (さまざまな本)
 見田宗介さんが2022年4月1日に亡くなって、1年以上経った。僕は非常に大きな影響を受けてきたので、その時に追悼を書いた。(『見田宗介さんの逝去を悼んでー「解放」を求めた理論家として』)その後、毎月一冊をメドに著作集を読んできた。出たときに買ったまま読んでなかったのである。別名義の真木悠介著作集を含めて、全14冊を読み終わったので、そのまとめを書きたい。ほとんどの人はあまり関心がないだろうが、僕にとっては重要だ。少ないかもしれないが、強い関心を持っている人もいるだろう。見田(真木)氏の遺した業績をどう読むか、非常に難しい問題が突きつけられている。

 一言で言うと、著作集を全部読む意味はなかったと思う。「社会学」研究の初期著作は、面白さはあったとしても半世紀近い前の業績だ。現時点に響く部分が少ない。社会学の方法論的な著述は、自分にはほとんど意味がない。読む価値があるのは、「比較社会学」的な手法でなされた「人間解放の理論」、及び時事的な問題を含めたエッセイ的な文章だと思う。詩的な直感で書かれたような文章は今もなお大きな魅力を持っている。だけど、肝心の「解放理論」の方はどうだろうか。あまりにも楽観的に描かれてきたように僕には思われる。今では「見田理論には何が欠落していたか」という視角からの検討が必要だと僕は考えている。

 見田さんは1985年、1986年に朝日新聞の論壇時評を担当した。それがまとめられて、『白いお城と花咲く野原』にまとめられた。このときの論壇時評は多くの反響(あるいは毀誉褒貶というべきか)を呼び、現在の担当者である宇野重規氏も、最初の文章で見田氏の時評を読んで刺激を受けたと書いていた。驚くことに、当時は月2回も論壇時評が掲載されていたから、計48本の文章が新聞に掲載された。そのうちの40本が同書に収録されている。つまり8本は「時事的」との理由で収録されなかった。もっとも本人はさらに絞り込んで、16本だけで本にしたかったと述べている。この本は著作集は別にして、単著としては絶版になっていた。復刊を望むと書いたが、2022年に河出書房新社から刊行された。(本体価格2400円)。
(復刊された『白いお城と花咲く野原』)
 最初にこの本を読み直して、2回記事を書いた。それが 『「論壇時評」再読、35年目の諸行無常』『 〈深い明るさ〉を求めて』である。この本は今もなお非常に面白かったけど、ずいぶん予測(期待)が外れたこと、時代とともに考え方が変わったこともかなりある。例えば、ニューヨークでは猫に不妊手術をすると聞いて「背筋が凍る」と書いている。しかし、今ではペットに不妊手術を行うのは、むしろ飼い主のマナーだと思う人が多いと思う。先の記事にも書いたけれど、当時アンドレ・ゴルツという人が今後の技術発展で「一人当たり生涯労働は2万時間ほどで済むようになる。40年で割れば週10時間の労働で生きていける」と主張した。

 そこから「1日5時間、週2日働けばよくなる」と結論するのだが、そんな夢みたいなことが実現するわけないじゃないか。その計算が確かだとして、企業からすれば「週に10時間働かせて、2時間分の時間外手当を払う」社員をひとり雇えばよいという方向に向かうのは、簡単に予測出来る。人は何かを食べなければ生きていけないから、「モノ」の移動に関わる人間も必ず必要である。しかし、そのような労働力は交換可能な人材だから、「派遣社員」で対応する。「長時間労働の少数」と「非正規雇用の多数」に社会は分断される。これが世界各地の「先進国」で起こっている現実だと思う。

 そのような方向性を予測して、それをどう乗り越えてゆくか。それが見田さんの本には出て来ないと思うのである。むしろ「IT革命」が人類にもたらす「正の影響力」に期待する言論が見られる。そうなのかもしれないが、今を生きる人間としては「(SNSなどの)負の影響力」に目が向いてしまう。ウェブ空間は「公共財」になったというより、「相互監視空間」になったというべきなのではないか。何か間違ったこと、おかしなことを言っている人がいても、僕もそれを指摘せずにスルーするようになっている。初期の頃は指摘したこともあったが、ちゃんと受けとめて貰えないことが多くて面倒になったのである。

 いま思うと、見田さんが期待した「オルタナティヴ」の方向へ世界は変わらなかった。未だに多い旧体制を固守する「保守」、保守のもくろむ改憲を阻む議席の獲得で自己満足している「戦後左翼」、近代を乗り越えると称して軽さを称揚する「ポストモダン」、それらのいずれでもない「心のある道」を歩む「もう一つの別の方向性(オルタナティヴ)」を求めたのだろうが、それは日本社会の多数派にならなかったのである。真木悠介『気流の鳴る音』を読んでいたことは、深い意味で自分を支えてきたかもしれない。でも現実の仕事の中では、真木氏の「人間解放理論」が役だったのだろうか。

 日本社会が大きく変化していったのは、80年代半ばの中曽根政権だった。電電公社や国鉄の民営化など「組合つぶし」の民営化路線もそうだし、臨教審による教育改革(という名の新自由主義的教育行政)など、その後の日本社会を決定的に変えた方向性がまさに80年代半ばに行われたのである。その意味で、『白いお城と花咲く野原』に落ちている「現代の権力」への分析が必要だった。明らかに欠落があったことは否定出来ないと思う。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『マレー蘭印紀行』ー金子光... | トップ | 「良心的な暗さ」の構造ー見... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

〃 (さまざまな本)」カテゴリの最新記事