尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『時間の比較社会学』、近代社会を対象化するー真木悠介著作集を読む①

2023年05月25日 22時50分35秒 | 〃 (さまざまな本)
 毎月見田宗介著作集を読んできて、全10巻を読み終わった。しかし、筆名真木悠介名の真木悠介著作集全4巻が残っている。もっともその中の『気流の鳴る音』は別に5回にわたって検討したので、もう書いている。そこで残された3冊を「真木悠介著作集を読む」というシリーズで読んでみたい。その最初が『時間の比較社会学』で、1981年11月に岩波書店から刊行された。その後、岩波書店の「同時代ライブラリー」「岩波現代文庫」に収録された。
(「時間の比較社会学」)
 僕は刊行直後に読んで、とても感銘を受けた思い出がある。ある意味、これこそ学問的代表作かなと思ってきた。しかし、今回読み直したところ非常に難解な本だったので驚いた。こんな難しい本を若い頃に読んで理解出来たのだろうか。しかし、当時僕は大学院生で、難しい文章を人生で一番読み慣れていた時期だった。また1980年に真木(見田宗介)さんの講座に参加して、著者本人を知っていたのも大きいだろう。講座修了後も集まりは続いて、81年の夏には八王子の大学セミナーハウスで合宿を行った。その時には竹内レッスンなどを行って大変に刺激的だった。そういう条件が重なって、理解力が今より高かったのかもしれない。

 この本は「時間意識」に関して、「原始共同体」(アメリカのホピ族やアフリカのヌアー族)、古代日本古代ヨーロッパヘレニズムヘブライズム)、近代社会(カルヴァンやプルーストなど)をていねいに検討して「比較」している。その結果として、近代人が自明のものと考えている時間意識が決して絶対的なものではないことを証明する。僕が当時驚いたのは、人類学、哲学、文学など諸学を総動員して論述していく驚くべき博識である。古代日本の分析など特に面白かった。

 しかし、よくよく考えてみれば、著者自身は直接フィールドワークしていない。誰かの研究の二次利用なのである。その構想力が大きいので気が付かないけれど、ここで使われている分析そのものが正しいのかは不明だ。それはまあいいんだけど、いろんな本の分析を総合するみたいな構成に今はあまり魅力を感じない。やはり直接その民族に密着して調べる方が面白くないか。もっとも古代日本に「密着」することは不可能だが、だから「歴史」として分析するしかない時代の方が面白い。
(ネタ本の一つ、エヴァンス=プリチャード『ヌアー』)
 「時間」とは何だろうか。考えてみれば不思議だ。物理学、生物学的に、どのように定義されるのだろうか。「現在」は常に過去になる。時間を「365日」「24時間」「60分」「60秒」で表示するのは、近代になってからのことだ。ひと月を太陽暦で表わすのも明治初期から。年を数えるということは、毎年新年がやって来て「現在」は「過去」になり、新しい「未来」がやって来るという意識である。つまり、「過去→現在→未来」という直線として「時間」を意識している。過去を探ると、自分以前の先祖になる。未来を探れば、いずれ自分も死んでしまう。そういう「流れ」が時間だと普通思っている。

 ところが「未開社会」の研究報告によれば、人々は時間を直線とは意識していない。むしろ「円環」と認識しているらしい。地球が自転、公転しているのは昔も今も同じだから、季節の移り変わりというものはある。狩猟採集経済では、特に時間の意識が近代人とは違う。変化が起きるのは、農業の開始である。稲作が始まれば、いつ頃苗を植えて、いつ頃収穫するかという「時間」を人々は意識する。そして「一年」という流れが出来るが、農業社会では時間意識は厳しくない。我々は何時に起きて、何時から仕事をするなどと「時間」を意識せずには暮らせない。これらは今ではそれほど衝撃がない考察かもしれない。

 古代日本で「古事記」「万葉集」「古今和歌集」を例に取って、時間意識の変遷を探るところは一番興味深かった。特に王権の詩人として生きた柿本人麻呂と氏族社会末期に名族の末裔として生きた大伴家持(おおともの・やかもち)を取り上げて分析した箇所は今も刺激的。僕は昔から大伴家持の歌が好きなんだけど(そういう人は多いだろう)、その「時間意識」を分析するという視点はなるほどと思った。もっとも昔読んでるわけだが、全部忘れていたのである。具体的な分析はここでは省略するが、実に興味深いのでここだけでも読んで欲しいと思った。
(富山県にある大伴家持像) 
 『気流の鳴る音』を受けて、この本や『宮沢賢治』『現代社会の理論』などの一連の仕事は、「近代世界の相対的な対象化のための比較社会学」というモチーフが潜在的、顕在的に貫通していると著作集解題に書かれている。この本のあとがきには、有名な「比較社会学の全体的なイメージ」が書かれている。ここで全部は書かないが、この後に「関係の比較社会学」「身体の比較社会学」「教育の比較社会学」「支配の比較社会学」「解放の比較社会学」などが次々と書かれるはずだった。実際には「時間」に続いて「自我」を書いただけで終わってしまったが。

 それは「ニヒリズム」と「エゴイズム」が著者の最大関心事だったからである。「時間のニヒリズム」というのは、つまり何をしても最後は死んじゃうじゃないかという思いである。だけど、これは怖いことなんだろうか。ある人は死ぬが、ある人は不死であり、自分がどっちかは自分では判らないと言うのなら、それは確かに怖い。でも全員が死ぬ(いつか、どのようにか、痛みはあるかなどは不明だけど)ということは、僕にはむしろ「恩寵」であり納得できることのような気がする。いずれどうせ死ぬんだから、何をしても意味がないのではなく、その後も生き残る人々のために少しでも意味ある何事かをしたいと思うけどな。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 映画『TAR/ター』、ケイト・... | トップ | 足立区議選の結果、「自民党... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

〃 (さまざまな本)」カテゴリの最新記事