尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

マジック・リアリズム、『百年の孤独』①ーガルシア=マルケスを読む⑧

2024年07月20日 21時58分10秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケス連続読書は、いよいよ『百年の孤独』である。論点がたくさんあるので、2回に分けて書くことにする。『百年の孤独』は1967年に発表され、世界で累計5千万部売れたという大ベストセラーである。日本では鼓直(つづみ・ただし)訳で1972年に翻訳され、1999年に改訳された。そして2024年6月に初めて新潮文庫に収録されたわけである。原題は「Cien Años de Soledad」で、英訳題は「One Hundred Years of Solitude」。つまり、普通に訳すなら「孤独の百年」である。それを『百年の孤独』と訳したところに妙味があり、日本語として詩的な深みが出ている。検索すると、宮崎県の会社が作っている「幻の焼酎」の名前にもなっている。そういえば聞いたことがあるが、製造本数が少なくて入手が難しいという。
(新潮文庫)
 以前に寺山修司が舞台化し、さらに映画化を試みたが、原作者の許可を得られなかった。そのため作者死後に『さらば箱舟』と改題されて公開された作品が実は『百年の孤独』になるはずだった。今回Netflixでドラマ化されるということで、改めて世界的に注目されている。ということで、話題だから読んでみようという人もいるだろうが、早くも挫折した人がいるかもしれない。だから、友田とん『『百年の孤独』を代わりに読む』(ハヤカワ文庫)という本まで出てるぐらいである。そういう話を聞くと、どんな難解な小説かと身構える人もいるかもしれない。でも、この本は特別に難しい本じゃない。
(Netflixでドラマ化)
 しかし、自分も今回読み直すのに一週間ぐらい必要だった。案外「読みにくい本」でもあるのだ。それは何故だろうか。まず一つは純粋に長いということ。文庫本で注や解説を抜いて625頁ある。他の新潮文庫と比べて薄い紙を使っているので、「読み進み感覚」がスロー。しかも地の文ばかり続いて会話が少ない。司馬遼太郎の歴史小説みたいな気持ちで取り組むと、全然進まないのにガッカリする。もう一つは、同じ名前がひんぱんに出て来て混乱するのである。日本でも親の名前を襲名するということはあるが、基本的には子どもに親と同じ名前は付けない。しかし、アメリカのジョージ・ブッシュ元大統領の長男がジョージ・ブッシュ元大統領、という風に外国では親子で同じ名前を付けたりする。

 この小説はホセ・アルカディオ・ブエンディアに始まる一族で、その子がホセ・アルカディオとアウレリャノ、その次の世代がアルカディオとアウレリャノ・ホセ、その次の世代はホセ・アルカディオ・セグンドとアウレリャノ・セグンド…という具合。女性の場合は、レメディオスとかアマランタの名前が繰り返される。これじゃ混乱しても無理はない。一応家系図が出てるけど、関係者も多いから忘れてしまう。ところで何でこんなに似たような名前を付けるのか。実際にコロンビアで多いのかも知れないが、それだけではない。この小説より『コレラの時代の愛』の方が長いけど、「長さ感」では『百年の孤独』の方が上だと思う。
(家系図)
 それは『コレラの時代の愛』が基本的には時間が線的に進むのに対し、『百年の孤独』は時間が円環的な構造になっていて同じような話が繰り返されるからだ。その仕掛けの謎はラストに解明されるが、この物語は一番最初に書かれていた「予言」が実現する物語だった。それも「繁栄」ではなく、「滅亡」に至る物語である。ホセ・アルカディオ・ブエンディアウルスラ・イグアランは訳あって村を離れ、自分たちの新しい村を創る。それが「マコンド」で、『百年の孤独』は簡単に言えば「マコンド盛衰記」である。また「ブエンディア家の人々」とも言えるが、一家の盛衰が町の運命と絡まり合っていることが特別だ。

 物語は19世紀初め頃に始まり、題名通り百年間の時間が経つ。日本で言えば、江戸時代の徳川家斉将軍時代から昭和になるまでで、この間の変化はものすごく大きい。それは近代文明が世界を支配した時期である。ブエンディア家によって栄えていたマコンドも、外部から影響を受けることによって変わってしまう。それまでも「ジプシー」の一団が年に1回訪ねてきて、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは不思議な文物を入手して錬金術に熱中する。しかし、何十年か経つと「国家」と無縁に生きてきたマコンドにも、地方政府と教会が作られる。さらに何十年か経つと鉄道や飛行機などの「近代文明」がマコンドにも出現する。そして小説世界が全く変わってしまう。後半三分の一はひたすら衰えていく物語だから、読むのが辛いのである。

 この間マコンドでは不思議な出来事が起こり続ける。死者が甦るし、死なない人はずっと死なない。家母長と言える初代のウルスラは何と150歳近く行き続ける。目が見えなくなっても周囲に悟られず家族を見守っている。「小町娘」と言われるレメディアスは文字通り「昇天」してしまう。(小町娘はもう古いだろう。英語の「ザ・ビューティ」で良いと思う。)「ジプシー」のメルキアデスが籠っていた部屋は、彼の死後(いや、一度死んでから、甦ってマコンドに来るのだが)も塵が積もらず、空気も澄んでいる。後半になると4年と11ヶ月2日間も雨が降り続くし、その後は10年間の干ばつがやってくる。

 こういう現実にはあり得ない描写が連続し、その魅力に世界は驚かされたのである。そこで「マジック・リアリズム」という用語が作られて、ラテンアメリカ文学の代名詞ともなった。だけど、今回読み直してみると、そういうもんだと知って読むからかもしれないが、案外驚きはない。こういうものに慣れてしまったのもあるだろう。前にも書いたが、全く同年に発表された大江健三郎万延元年のフットボール』にもマジカルな描写が見られる。何もガルシア=マルケスの、あるいはラテンアメリカ文学の発明というよりも、同時に多くの作家たちが同じような試みをしていたんだと思う。

 それは従来の「リアリズム」、あるいはそれを越えたはずの「社会主義リアリズム」では、もはや世界の大きな変化を表せなくなってしまったという時代認識があったのだろう。だけど、それは単に「ファンタジー」とは呼ばない。どんな奇想天外な世界が展開されようが、それはファンタジー小説ではなかった。やはりラテンアメリカの現実にしっかりと根ざしたリアリズムだった。初めて読んだ時は驚くべき幻想小説にも見えたが、再読するとラテンアメリカ民衆史でもあり、壮大な愛の神話だった。
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