尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

あたたかい学校と先生はたいせつだ

2011年11月10日 21時48分35秒 |  〃 (教育問題一般)
 ちょっと更新制を離れて、震災と学校の話をします。(なお、タイトルは吉本隆明「ちひさな群への挨拶」(「転位のための十篇」)の冒頭「 あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ」から取っています。これは判らない人の方が多いだろうと思うので、書いておきます。)

 先週土曜日、「被爆者の声をうけつぐ映画祭」という催しがあり、その特別企画で「いま、フクシマは」というシンポジウムが行われました。飯舘村の菅野典雄村長の基調講演に続き、社会教育やテレビ、小学校などの現場の方々が貴重な報告を行い、とても有益なシンポジウムでした。その中で福島県の社会教育主事である天野和彦さんがとても重要なことを指摘していました。

 学校が避難所になっているところの方がうまく運営できているところが多かったというのです。それも「地域に開かれた学校」として平時から地域との関わりがうまく行っていたところほど。天野氏によれば、理由は二つあり、「学校は職員間のヒエラルキーがあり決定が比較的早くできる」「教員は専門家集団で困った時にはすぐ何かできる」。少し解説すると、前者は、最終的に校長が決めてくれればいろいろできるということを言っていました。僕が付け加えると、学校は対生徒に授業や生徒指導をする場合はどの人も「同じ先生」ですが、いざという時には「校務分掌」や「学年」「教科」という組織性ですぐに動けるということだと思います。後者は、避難者が疲れてくれば体育の先生がラジオ体操しましょう、退屈すれば視聴覚担当の先生が視聴覚室で映画会やりましょう、とすぐに動いてくれると言ってました。さらに言えば、保健室もあるし、パソコン室もあるし、調理室もあるし、理科の先生は放射線の解説ができる。こんな施設は地域の中で他に考えられないです。

 実際、被災地の各学校は避難所として大きな意味を持ちました。必ず起きる、東海、東南海、南海地震を考えると、いま日本の教育で一番たいせつなことは、学校はもうすぐ避難所になる、教師は避難所の運営をせざるを得ないということではないでしょうか。それを考えると、教員どうし、生徒どうしの競争を重視するエリート教育ではなく教師と地域が協力してすすめる連帯の教育へと、大きく教育の方向を変えていかなければなりません。

 東京で行われていることを見ると、校長のリーダーシップという名のもと、「教員の評価者」=「給料や転勤の権限を持つ権力者」としての校長が求められてきました。校内の協力体制ができてなければ、いざという時に、教員が一致団結して避難所を運営することができません。また、教師が長く一つの学校に留まることができなくされ、地域に根ざした教育を進めることが難しくなりました。他県では10年いられるのが当たり前だと思いますが、東京の高校では6年で原則異動です。また、この間、嫌がらせではないかと思うほど、遠距離通勤の転勤が強行されてきました。従って、家にいるときに地震があれば、出勤できません。現に今年の3月14日からしばらくは、管理職も含めて出勤態勢が大きく乱れました。電車が止まっても、自動車、バイク、自転車などで出勤すればいいと思うかもしれないけど、この10年以上届出と違う出勤に対して細かな監査、処分が繰り返されており、都教委に臨機応変は期待できないから、誰も車で来ようとは思わないでしょう。学校と生徒が気になって、なんとか自動車で来たりすれば、いずれ処分されるかも。じゃあ、余った年休取って自宅の片付けをします、となります。

 また、小中、夜間定時制の給食調理室をどんどんつぶしてきました。山手線内の夜間定時制は全部なくされてしまったのですが、もし定時制課程が残って自校調理だったら、電気、ガスが通りさえすればその日から避難所の食をまかなえたはずなのに。

 このように、まさに「免許更新制」に象徴されるように、「専門職としての教員」という性格をたいせつにしないようでは、震災の時に困ってしまうのではないかと思います。いや、特に地方では、郷土意識や共同性がまだ残っていて、教師が「活躍」出来る余地が大きいのではないかと思います。心配なのは、大都市で地域性も薄い東京や大阪で大きな震災が発生した時のことです。日本の学校は、間違いなくいつか起こる次の大震災で避難所になります。

 社会全体で「あたたかい学校と先生はたいせつだ」という政策を進めて欲しいなと思います。
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でもしか?先生 (現場の教員)
2011-11-11 03:39:35
 前回のものと併せて、興味深い内容でした。未曾有の災害を経験した日本だからこそ改めて学校の本当のあり方を考えさせられた思いがします。
 熊本の件では、私の知る限り読売新聞以外で「特別選考による6人の合格」の記事を取り扱っている新聞はなかったのではないかと思います。地元紙の熊日新聞にはだいたい目を通しているのですが、扱ってなかったように思います。見落としかもしれませんが。ですから、私はこのブログで初めてその内容を知ったということです。熊本の教員もまだほとんど知らないのではないかと思います。ひょっとして、情報操作?があったのではと疑いたくなります。
 さて、ずっと思っていることなんですが、現場の現状とお役所?(文科省を含めて)の施策がちぐはぐでかみ合っていないように思います。以前、サラリーマン川柳だったと思いますが、「○○○、最後の決断○○がする」という内容のものがあったように記憶しています。歴代の文部大臣を始め、教育委員会のお偉いさんたちは果たして現場のことをどれだけ理解しているのだろうかと疑問に思ってしまします。見ていると、現場からのたたき上げた教員がそういう立場にたつことはかなり少ないようです。教育現場から離れて管理職になられた方々はその間の学校や生徒の変化に驚かれることが多いのではないでしょうか。
 以前のコメントの中に(一般人)さんからのもので、「真面目でも個人の思想、思考を表面化して教育に影響を及ぼすのは良くないです。」というのがありました。考え方は様々ですから、それはそれでよろしいのですが、現場の教員としては「教員は生徒に何を教えるのか」ということを○○年も生徒や学校現場を見ながら考えてきました。やはり一般の人には現場が理解しにくいものなのでしょうか。そのコメントを読んでいて思い浮かんだ文章がありましたので引用します。

 でもしか先生
 教育の現場にいる人間が、極端なことをしないようにするために、結局のところ何もしないという状況に陥っているという現実があります。実際には、ものすごく厳しい先生は、生徒に嫌われるけれど、後になると必ず感謝される。それが仮に間違った教育をしても、少なくとも反面教師にはなりうるということになる。が、最近ではそんな厳しい先生はいなくなってきた。下手なことをして教育委員会やPTAに叩かれるよりは、何もしない方がマシ、となるからです。
 反面教師になってもいい、嫌われてもいい、という信念が先生にない。なぜそうなったか。今の教育というのは、子供そのものを考えているのではなくて、先生方は教頭の顔を見たり、校長の顔を見たり、PTAの顔を見たり、教育委員会の顔を見ている。子供に顔が向いていないということでしょう。
 よく言われることですが、サラリーマンになってしまっているわけです。サラリーマンというのは給料の出所に忠実な人であって仕事に忠実なのではない。職人というのは、仕事に忠実じゃないと食えない。自分の作る作品に対して責任を持たなくてはいけない。

というものです。これも一つの考え方として、「自分は何を生徒に教えるか」という問いを考えていこうと思います。
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