タイ映画『プアン 友だちと呼ばせて』を書いたばかりだが、インドネシア映画『復讐は私にまかせて』という映画も公開されている。ロカルノ映画祭金豹賞(最高賞)を受賞した作品で、ものすごく変で驚き。『プアン』はニューヨークのロケも印象的なオシャレ系青春映画で、韓国ドラマ的なドラマチック路線である。一方、『復讐は私にまかせて』はもっと土着的で独特の魅力を持った作品で、エンタメ系なのにどこか判りにくい。変テコすぎる設定にインドネシアの歴史が垣間見える作家性がある。監督・脚本のエドウィン(1978~)は、映画祭で上映されているが見るのは初めて。ジーパンみたいで名前だけはすぐ覚えた。
1989年、ジャワ島バンドンのボジョンソアン地区の田園地帯。アジョ・カイル(マルティーノ・リオ)は命知らずのバイクレースのゲームに熱中している。ケンカの強さが知られ、悪名高い実業家レベの暗殺を頼まれる。そこで採石場に出掛けると、ボディガードが立ちはだかる。それがイトゥン(ラディア・シェリル)という伝統武術シラットの達人の女だった。悪人レベを何故守ると問うと、知らずに雇われたが雇われた以上闘うという。こうして採石場の荒涼たる光景の中で死闘が始まる。
(二人の死闘)
どう見ても荒唐無稽な劇画調の始まりだが、両者ノックダウンの死闘を通して、イトゥンがアジョに運命的な一目惚れをしてしまう。イトゥンはラジオ番組でアジョに向けて何曲もリクエスト曲を贈る。しかし、アジョはなかなか応えない。実はアジョはケンカは強いんだけど、人には言いにくい(でも皆が知っている)悩みがあったのである。幼少時のトラウマから勃起不全(ED)で、娼婦と接しても勃たない。ますます荒唐無稽が極まる設定だが、イトゥンの恋心は暴走一途。アジョもついに押し切られて、情熱的なキスから一ヶ月後の結婚へ。しかし、イトゥンに横恋慕するブディは納得しない。
(幸せな結婚生活)
あまりにも変な設定なんだけど、かくして性的に結ばれない結婚生活が始まる。そこで映画内の時間は昔に遡る。1983年の皆既日食の日、少年アジョと友だちのトケはある事件を目撃して、忘れられない出来事がトラウマになる。イトゥンは復讐を考えるが、情報を集めるためブディに接触して悲劇が起きる。そこから事態は迷走を始め、一時は二人とも獄中に。3年後、出獄してもアジョは長距離トラック運転手になって故郷には帰らない。そのトラックには謎の女性ジェリタが現れる。アジョとイトゥンは再会できるのか。そして復讐の行方はいかに…。
(エドウィン監督)
最後の方になると、謎めいた展開にわけが分らない感じもある。「復讐は私にまかせて」というほど、明るい感じの展開ではない。画面は暗くザラついている。実は黒沢清監督『トウキョウソナタ』『岸辺の旅』などで知られる撮影監督芦沢明子が16ミリフィルムで撮っているのである。それをスキャンしてデジタルにするという手間を掛けて、独特の映像が作られている。編集はアピチャッポン・ウィーラセタクン映画を担当してきたタイのリー・チャータメーティクン。アジアの才能が結集して作られた作品だ。
(芦沢明子)
この映画に一番似ているのは、タランティーノ監督のド迫力復讐バイオレンス映画だろう。そしてタランティーノにも影響を与えてきた香港カンフー映画や日本の昔の映画、「さそり」シリーズや『修羅雪姫』などである。しかし、それらの映画では「勃起不全のケンカ野郎」なんて、不可思議な存在は出て来ない。この設定こそ、マッチョなインドネシア社会への批判的まなざしなんだという。80年代のインドネシアでは、65年の「9・30事件」以後の共産党員大虐殺を起こした軍人たちが引退し始めた時期なんだろう。この映画でも悪徳実業家は大体「元軍人」である。スハルト政権の長期化の中で、腐敗が日常化していた。
ここで注目されるのは「女性アクションスター」の系譜である。日本では60年代末に藤純子がスターになったが、本人はアクションスターではなかった。その後の梶芽衣子なども同様。初の女性アクションスターは、70年代中頃の志穂美悦子になる。今は若い人が名前を知らない長渕剛夫人だが、千葉真一のジャパンアクションクラブ出身という本格的アクションスターだった。結婚後は引退してしまった(ウィキペディアを見たら、「クセのある男なので専業主婦したい」という言葉が出ていた)が、女性映画の観点から再評価されるべきだ。「男社会の中で伝統武芸によって闘う女性」というジャンルの比較映像学的な検討が望まれる。非常に重要なテーマではないか。
1989年、ジャワ島バンドンのボジョンソアン地区の田園地帯。アジョ・カイル(マルティーノ・リオ)は命知らずのバイクレースのゲームに熱中している。ケンカの強さが知られ、悪名高い実業家レベの暗殺を頼まれる。そこで採石場に出掛けると、ボディガードが立ちはだかる。それがイトゥン(ラディア・シェリル)という伝統武術シラットの達人の女だった。悪人レベを何故守ると問うと、知らずに雇われたが雇われた以上闘うという。こうして採石場の荒涼たる光景の中で死闘が始まる。
(二人の死闘)
どう見ても荒唐無稽な劇画調の始まりだが、両者ノックダウンの死闘を通して、イトゥンがアジョに運命的な一目惚れをしてしまう。イトゥンはラジオ番組でアジョに向けて何曲もリクエスト曲を贈る。しかし、アジョはなかなか応えない。実はアジョはケンカは強いんだけど、人には言いにくい(でも皆が知っている)悩みがあったのである。幼少時のトラウマから勃起不全(ED)で、娼婦と接しても勃たない。ますます荒唐無稽が極まる設定だが、イトゥンの恋心は暴走一途。アジョもついに押し切られて、情熱的なキスから一ヶ月後の結婚へ。しかし、イトゥンに横恋慕するブディは納得しない。
(幸せな結婚生活)
あまりにも変な設定なんだけど、かくして性的に結ばれない結婚生活が始まる。そこで映画内の時間は昔に遡る。1983年の皆既日食の日、少年アジョと友だちのトケはある事件を目撃して、忘れられない出来事がトラウマになる。イトゥンは復讐を考えるが、情報を集めるためブディに接触して悲劇が起きる。そこから事態は迷走を始め、一時は二人とも獄中に。3年後、出獄してもアジョは長距離トラック運転手になって故郷には帰らない。そのトラックには謎の女性ジェリタが現れる。アジョとイトゥンは再会できるのか。そして復讐の行方はいかに…。
(エドウィン監督)
最後の方になると、謎めいた展開にわけが分らない感じもある。「復讐は私にまかせて」というほど、明るい感じの展開ではない。画面は暗くザラついている。実は黒沢清監督『トウキョウソナタ』『岸辺の旅』などで知られる撮影監督芦沢明子が16ミリフィルムで撮っているのである。それをスキャンしてデジタルにするという手間を掛けて、独特の映像が作られている。編集はアピチャッポン・ウィーラセタクン映画を担当してきたタイのリー・チャータメーティクン。アジアの才能が結集して作られた作品だ。
(芦沢明子)
この映画に一番似ているのは、タランティーノ監督のド迫力復讐バイオレンス映画だろう。そしてタランティーノにも影響を与えてきた香港カンフー映画や日本の昔の映画、「さそり」シリーズや『修羅雪姫』などである。しかし、それらの映画では「勃起不全のケンカ野郎」なんて、不可思議な存在は出て来ない。この設定こそ、マッチョなインドネシア社会への批判的まなざしなんだという。80年代のインドネシアでは、65年の「9・30事件」以後の共産党員大虐殺を起こした軍人たちが引退し始めた時期なんだろう。この映画でも悪徳実業家は大体「元軍人」である。スハルト政権の長期化の中で、腐敗が日常化していた。
ここで注目されるのは「女性アクションスター」の系譜である。日本では60年代末に藤純子がスターになったが、本人はアクションスターではなかった。その後の梶芽衣子なども同様。初の女性アクションスターは、70年代中頃の志穂美悦子になる。今は若い人が名前を知らない長渕剛夫人だが、千葉真一のジャパンアクションクラブ出身という本格的アクションスターだった。結婚後は引退してしまった(ウィキペディアを見たら、「クセのある男なので専業主婦したい」という言葉が出ていた)が、女性映画の観点から再評価されるべきだ。「男社会の中で伝統武芸によって闘う女性」というジャンルの比較映像学的な検討が望まれる。非常に重要なテーマではないか。
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