『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が公開された。『シビル・ウォー』の日本公開がアメリカから半年遅れて何故だろうと問題視されたが、この『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』の場合はアメリカから一週間遅れの公開だった。アメリカでは公開2週目に観客動員が8割減になって衝撃を与えたが、日本では1週目も2週目も2位を維持している。(1位はどっちも『室井慎次 敗れざる者』)。
前作『ジョーカー』はヴェネツィア国際映画祭金獅子賞の大傑作で、アカデミー賞大本命と目されたが、何と韓国の『パラサイト 半地下の家族』が作品賞、監督賞など4部門で受賞してしまった。『ジョーカー』は最多11部門にノミネートされながら、主演男優賞のホアキン・フェニックスと音楽賞の2部門受賞に止まったのである。しかし、前作の重要性はその後ますます増大していると思う。安倍晋三元首相銃撃事件の容疑者も見ていたようだが、あの映画以後世界で同様の事件が起きるたびに、映画『ジョーカー』を思い出してしまう人も多いんじゃないか。
そこで続編が期待されたわけだが、満を持して放つ大問題作には違いない。アメリカの例もあるからあっという間に上映が少なくなるかと心配して、早めに見に行った。今週末の上映も余り減っていないので心配は無用だったかもしれないが、吹替え版の上映が多く字幕で見たい人には厳しいかも。続編は「フォリ・ア・ドゥ」と題されているが、まずこれが意味不明。映画内では説明されないので調べてみると、「Folie à Deux」(フォリ・ア・ドゥ)というフランス語で「二人狂い」の意味だという。
「感応精神病」と呼ばれる妄想性障害の一種で、Wikipediaには「一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有することが特徴」と出ている。この映画でジョーカーことアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)と感応するのが、リー(レディ・ガガ)という女性。アーサーはアーカム州立病院に収容されていて、裁判を待っている。病院の音楽セラピーに参加していた女性がリーで、参加を許された映画会で知り合う。そのためにリーが取った手段は衝撃的なまでに過激である。
リーは家族に無理やり入院させられた犠牲者だと語り、ジョーカーに共感していたと語る。そこには虚言もあったことが後に判明するが、ともあれ今まで誰も理解者がいなかったアーサーは、ここで「宿命的な愛」に目覚めたのである。そして、それを二人で歌いあげるのである。そう、この映画は「ミュージカル映画」という作りになっているのである。それは成功しているか。判断は難しいが、大きな違和感はないけれどベストな方法でもないという気がした。
(トッド・フィリップス監督)
そして、ついに裁判が始まる。そこら辺は制度の違いがいろいろあって、ななかなよく判らないところが多い。そもそも「責任能力」があると判断されたら、病院じゃなく拘置所にいるはず。病院に入院しているリーと知り合えるのが不思議。連続殺人事件の容疑者がけっこう自由にしているのも不思議だ。裁判でも弁護方針をめぐってアーサーは弁護人を解任して自分で弁護するという。日本だと殺人容疑の場合、弁護人抜きの裁判は刑訴法上不可だがアメリカでは可能なのか。(最高刑が死刑、無期、懲役3年以上の事件は、「必要的弁護事件」となり、弁護人なしでは開廷出来ない。)
その後の裁判経過もよく判らないが、一番の問題は「ジョーカーかアーサーか」。リーなくして生きていけないアーサー=ジョーカーは、アーサーとしてリーを愛したいと思うのだが…。まさに「フォリ・ア・ドゥ」の面目躍如。その選択が裁判、そして場外の支援者にはどう受け取られるだろうか。ここでは内容はこれ以上書かないが、僕にはちょっと違和感、不満のようなものが残った。というか、理解出来ない展開と言うべきか。エッ、こうなるの的な怒濤の展開が続くが、面白いことは面白い。
ミュージカル的な作りも完全に成功しているとは思えないのだが、じゃあ間違っているとも決められない。ミュージカルシーンはなかなか興味深いのである。(レディ・ガガだし。)じゃあ、何が不満かというと語り口がこなれていない感じがする。138分もあって長い割に、ゴタゴタした感じが残る。内容的にも「ジョーカー裁判」という難問をいかに描くか、苦闘している。内容的に見ておくべき映画だと思ったが、評価は難しい。リーを出さないと成立しないが、リーがいることで(物語上の)限界も生じた。
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