尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『ゲバルトの杜』、「内ゲバ」をいま振り返る意味

2024年06月10日 21時43分06秒 | 映画 (新作日本映画)
 代島治彦(だいしま・はるひこ)監督のドキュメンタリー映画『ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ~』を見た。代島監督は『きみが死んだあとで』で60年代末の新左翼運動を取り上げた。その次に作ったのがこの作品で、題名を見れば判る人も多いと思うが、樋田毅彼は早稲田で死んだ』が扱った1972年の「川口君リンチ殺人事件」の映画である。これは「革マル派」の拠点校だった早稲田大学で、中核派活動家と疑われた学生・川口大三郎が学内でリンチされ死亡した事件である。事件経過や党派の説明は先の記事に譲り、映画を見て考えたことに絞りたい。

 ドキュメンタリー映画というと、対象人物(あるいは地域等)に長く密着取材して作られた映画が多い。今年の映画では『かづゑ的』(熊谷博子監督)や『戦雲(いくさふむ)』(三上智恵監督)などが典型。しかし、代島監督の前作が扱った「山崎博昭君事件」もそうだが、もう半世紀以上も前の出来事である。探せば当時の映像もかなりあり、証言可能な関係者も多いのだが、昔の事件という根本的な問題がある。特に今回のテーマ「内ゲバ」(新左翼党派間の暴力)は、それを知らない世代にはなかなか通じないのではないか。そこで今回の映画では早稲田大学出身の鴻上尚史が演出した「再現ドラマ」が冒頭で出てくる。
(再現ドラマ)
 NHKの番組「チコチャンに叱られる」の「多分こうだったんじゃないか劇場」みたいなものである。いや、もちろん内容が内容だけにもっと大真面目に作られている。それは見ていて辛いものではあるが、若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2008)という超弩級の映画ほどではない。その映画は上映中に出て行ってしまう客が異様に多かったが、今回はそんな人はいなかった。(実際当時を生きていた自分にとっても、連合赤軍によるリンチ殺人事件の衝撃の方が大きかった。)

 当時の事件関係者は逮捕・起訴され有罪になっているし、監禁・リンチの実態もおおよそ判っているんだろう。そう思いつつも、この再現ドラマという手法には幾分かの違和感を覚えた。現在の若者に当時の状況を説明するために、池上彰氏が招かれて講義している。またオーディションの様子や「メイキング映像」も出て来て、盛りだくさんの134分である。(前作は200分とさらに長いが。)だが若い役者たちが何を感じたのか、この映画に出て何か変容があったのかは語られない。若者からの「当時と比べて何が変わったか」という質問に、池上氏は「教室の椅子や机が固定された」と答えている。しかし、本当にそれしか言わなかったのだろうか。『日本左翼史』シリーズではもっと触れていたと思う。深く考えるための「題材」を外した感もするのである。

 僕はこの映画は長すぎると思ったけど、多くの若い世代に見て欲しいとは思う。テーマからして、そんなに大ヒットする映画じゃないだろうが、樋田氏の本を読む人よりは、映画を見る人の方が多いだろう。それでは今「内ゲバ」を振り返る意味は何だろうか。僕は2つあると思っている。一つは「非暴力抵抗は可能か」という問題である。例えばウクライナに対して、ロシアとの全面戦争は犠牲が多くなりすぎるから、武装抵抗はするべきではないと主張する人もいる。そこから類推すると、もし中国が台湾に侵攻した場合も、台湾民衆は「非暴力抵抗」に徹するべきだと言う人も出て来ると思われる。それをどう考えたら良いのか?

 当時の早稲田大学では革マル派の暴力支配への反発が強まり、新しい自治会が結成された。しかし、大学は新自治会を公認せず、やがて革マル派は暴力的対抗策を取ってくる。他大学の革マル派勢力も動員して、新自治会派学生を狙い撃ちしたのである。それに対し、新自治会に結集した学生たちの中にも「武装」は避けられないと判断する人が多くなっていった。そして、他大学も巻き込む内ゲバの本格化の中で、非暴力抵抗は挫折するに至る。単に半世紀前の一大学のキャンパスで起きたことだが、現実の国際環境の中で本当に戦争が始まった場合も、「非暴力など夢のまた夢」となって軍拡競争になってしまうのだろうか。
(当時の運動)
 もう一つは「組織の恐ろしさ」である。こんな政治運動(左右を問わず)に参加しなければ、暴力事件を起こすことはない。そう思う人もいるだろうし、現実に多くの若者が政治から遠ざかってしまった。しかし、それでは済まなかった。企業の中にも、学校の中にも、「暴力の芽」はあった。思い込みによって組織が暴走するとき、「個人の良心」で抵抗できる人は少ない。「暴力」を単に政治党派間に問題に留めるのではなく、また「肉体的暴力」に限定するのではなく、人間が生きる時にどこでもぶつかる問題ととらえる必要がある。そう考えた時、この映画で本当に再現ドラマにすべきだったのは「教授会」の方ではないか。

 それは題材的に難しいのかもしれないが。それでも大学構内で起きた刑事事件なんだから、大学当局に責任がある。先に見た『正義の行方』(飯塚事件を扱った映画で、今もユーロスペースで上映中)に、一番肝心な裁判官や法務大臣(死刑執行を命じた)の証言が出て来ないように、この映画でも当時の革マル派関係者や大学関係者は出て来ない。まあ学生は二十歳前後だから存命だが、教授には存命の人がいないかもしれない。それにしても、当時は刑事裁判にはなったが、民事裁判にはならなかった。今ならほぼ確実に、遺族が大学当局の責任を問う裁判を超したのではないだろうか。あるいは革マル派に「組織責任」を問うこともあったかもしれない。多くの人もまだ「被害者支援」の大切さを実感していなかった時代だった。

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