2024年5月の訃報2回目。外国人の訃報から。カナダの作家アリス・マンローが5月13日没、93歳。2013年ノーベル文学賞受賞者である。短編小説のみ書いたことで知られるが、それは育児をしながら創作できるジャンルだったからである。カナダ東部のオンタリオ州に生まれ育ち、一地方に住む人々を描き続けた。特にエディンバラから移住した自らの一家のルーツを描いたことで知られる。日本では21世紀になってから、「新潮クレストブックス」で『イラクサ』『林檎の木の下で』『小説のように』『ディア・ライフ』『善き女の愛』『ジュリエット』『ピアノ・レッスン』と次々に翻訳され評判になった。クレストブックスはほとんど文庫化されないので、僕はアンソロジー収録作しか読んでない。人生の真実を一瞬の中に追求する鋭さに定評があった。
(アリス・マンロー)
アメリカの映画監督、プロデューサーのロジャー・コーマンが5月9日死去、98歳。正直まだ生きてたのかと思った。生涯を通じて「B級映画」を作り続け、『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』という自伝まで書いた。60年代に営々と作り続けたポー原作の『アッシャー家の惨劇』(60)、『恐怖の振子』(61)、『姦婦の生き埋葬』(62)、『黒猫の怨霊』(62)、『忍者と悪女』(63)、『赤死病の仮面』(64)、『黒猫の棲む館』(64)などで知られた他、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(60)、『X線の眼を持つ男』(63)、『デス・レース2000年』(75)などカルト作になった映画も多い。しかし、それ以上に多くの若手映画人にチャンスを与え低予算映画でデビューさせたことで知られる。コッポラ、スコセッシ、スピルバーグなどもコーマンの下で働いていた。その事が評価されたか、2009年にまさかのアカデミー名誉賞受賞。日本で言えば若松孝二みたいな存在だが、政治的、性的に過激な映画を作ったわけではなく娯楽に徹した。
(ロジャー・コーマン)
アメリカの作曲家、リチャード・シャーマンが5月25日死去、95歳。兄のロバート・B・シャーマンとともに、数多くのミュージカル映画の作曲をしたことで知られる。『メリー・ポピンズ』(1964)でアカデミー賞の作曲賞、歌曲賞を兄弟で受賞した。またディズニーパークのアトラクション用に作られた「イッツ・ア・スモールワールド」の作曲者である。ウォルト・ディズニーに見出され、『ジャングル・ブック』(67)までディズニー映画で活動した。ウォルトの死後独立して『チキ・チキ・バン・バン』(68)、『ベッドかざりとほうき』(71)、『スヌーピーの大冒険』(72)、『シャーロットのおくりもの』(73)、『シンデレラ』(76)、『ティガー・ムービー』(2000)などで作曲を担当した。劇場よりミュージカル映画の作曲をした人だった。
(リチャード・シャーマン)
アメリカの画家、彫刻家のフランク・ステラが5月4日死去、87歳。戦後アメリカを代表する抽象画家と言われている。50年代末に黒いストライプによる「ブラック・ペインティング」で、ミニマルアートの代表とされた。80年代以後に大きく作風を変え、様々な色彩を施された破片や立体物をそのまま大画面に貼り付けるようなダイナミックな作品を作った。千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」がステラ作品の収集で世界的に知られているという。
(フランク・ステラ)
5月19日にイラン北西部でヘリコプターの墜落事故が起こり、ライシ大統領やアブドラヒアン外相らが死亡した。ライシは63歳。2021年にイラン・イスラム共和国第8代大統領に当選した。80年代から一貫して司法関係で仕事をしてきて、検事総長も務めた。その間反体制派弾圧にあたり人権抑圧に責任がある人物である。北東部の宗教都市マシュハドに生まれ、保守派の代表として最高指導者ハメネイ師の後継とも想定されていた。
(ライシ大統領)
他にも『タイタニック』の船長役を務めたイギリスの俳優バーナード・ヒル(5日没、79歳)、アメリカのサックス奏者でグラミー賞6回獲得のデヴィッド・サンボーン(12日没、78歳)、ヴァイオリニストで元ウイーン・フィルのコンサートマスター、ヴェルナー・ヒンク(21日没、81歳)などの訃報があった。
写真家、エッセイストの武田花が4月30日に死去した。72歳。武田泰淳(1912~76)と武田百合子(1923~93)の娘として1951年に生まれた。アルバイトをしながら野良猫の写真を撮り続け、1990年に木村伊兵衛賞を受賞した。猫や寂れた町並みをモノクロで撮影した写真で知られる。泰淳も百合子もついこの前亡くなったような気がするが、ついに武田花も亡くなってしまったのか。ちょうど『武田百合子対談集』(中公文庫)を読んだばかりだったので、訃報には驚いた。今も武田百合子は読まれ続けているが、それらの本に武田花撮影の写真も多く収められている。
(武田花)
フォトジャーナリストの吉田ルイ子が31日に死去。94歳。朝日放送アナウンサーからフルブライト奨学生として渡米、コロンビア大学で修士となった。その間ハーレムで撮った写真が高く評価され、1968年に公共広告賞を受賞。71年に帰国して、日本でも写真が評価された。それをまとめた著書『ハーレムの熱い日々』が評判となった。これは僕も読んでるけど、非常に多くの人に影響を与えた本だと思う。その後、南アフリカのアパルトヘイト取材にも取り組んだ。年齢的に21世紀になってからはほとんど消息を聞かなかったが、こういう日本人女性が70年代に存在したことは次の世代にも知って欲しいと思う。
(吉田ルイ子)
元早稲田大学総長、高野連(日本高等学校野球連盟)会長の奥島孝康が1日死去、84歳。法学者で専門は会社法。1994年から2002年に早稲田大学総長を務めた。奥島時代に長年の懸案だった「革マル派」との絶縁に取り組んだことで知られる。高野連会長としては元プロ選手の学生野球指導資格回復制度を作った。豪腕で毀誉褒貶あった人らしいが、業績は遺した人なんだろう。
(奥島孝康)
元衆議院議員で環境庁長官(90年)、防衛庁長官(94年)を務めた愛知和男が3日死去、84歳。元大蔵大臣の愛知揆一の女婿で、1976年に自民党から衆議院議員に当選した。93年に離党して新生党に参加、細川内閣で防衛庁長官になった。新進党結成後に政審会長となったが、次第に小沢一郎への批判を強め、97年に自民党に復党した。2000年に落選して引退を表明したが、2005年の「郵政選挙」に請われて東京選挙区の名簿下位に掲載され、自民が圧勝して思わぬ当選を果たした。2009年に二度目の引退。
(愛知和男)
大相撲の元力士、大潮(元式秀親方)が5月25日没、76歳。最高位は小結。敢闘賞、技能賞各1回受賞。1962年1月に時津風部屋から初土俵を踏み、1988年1月に40歳で引退するまで通算26年間相撲を取ったことで知られる。通算出場1891番は今に至るも歴代1位の記録になっている。通算勝ち星964勝は、引退当時歴代1位だった。その後、白鵬、魁皇、千代の富士に抜かれたが、横綱・大関以外の力士としては今もトップである。十両通算55場所(歴代1位タイ)、幕内昇進13回は歴代1位で、努力してはい上がって長年務めた。引退後は時津風部屋から独立して式秀部屋を創設した。
(大潮)
(アリス・マンロー)
アメリカの映画監督、プロデューサーのロジャー・コーマンが5月9日死去、98歳。正直まだ生きてたのかと思った。生涯を通じて「B級映画」を作り続け、『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』という自伝まで書いた。60年代に営々と作り続けたポー原作の『アッシャー家の惨劇』(60)、『恐怖の振子』(61)、『姦婦の生き埋葬』(62)、『黒猫の怨霊』(62)、『忍者と悪女』(63)、『赤死病の仮面』(64)、『黒猫の棲む館』(64)などで知られた他、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』(60)、『X線の眼を持つ男』(63)、『デス・レース2000年』(75)などカルト作になった映画も多い。しかし、それ以上に多くの若手映画人にチャンスを与え低予算映画でデビューさせたことで知られる。コッポラ、スコセッシ、スピルバーグなどもコーマンの下で働いていた。その事が評価されたか、2009年にまさかのアカデミー名誉賞受賞。日本で言えば若松孝二みたいな存在だが、政治的、性的に過激な映画を作ったわけではなく娯楽に徹した。
(ロジャー・コーマン)
アメリカの作曲家、リチャード・シャーマンが5月25日死去、95歳。兄のロバート・B・シャーマンとともに、数多くのミュージカル映画の作曲をしたことで知られる。『メリー・ポピンズ』(1964)でアカデミー賞の作曲賞、歌曲賞を兄弟で受賞した。またディズニーパークのアトラクション用に作られた「イッツ・ア・スモールワールド」の作曲者である。ウォルト・ディズニーに見出され、『ジャングル・ブック』(67)までディズニー映画で活動した。ウォルトの死後独立して『チキ・チキ・バン・バン』(68)、『ベッドかざりとほうき』(71)、『スヌーピーの大冒険』(72)、『シャーロットのおくりもの』(73)、『シンデレラ』(76)、『ティガー・ムービー』(2000)などで作曲を担当した。劇場よりミュージカル映画の作曲をした人だった。
(リチャード・シャーマン)
アメリカの画家、彫刻家のフランク・ステラが5月4日死去、87歳。戦後アメリカを代表する抽象画家と言われている。50年代末に黒いストライプによる「ブラック・ペインティング」で、ミニマルアートの代表とされた。80年代以後に大きく作風を変え、様々な色彩を施された破片や立体物をそのまま大画面に貼り付けるようなダイナミックな作品を作った。千葉県佐倉市にある「DIC川村記念美術館」がステラ作品の収集で世界的に知られているという。
(フランク・ステラ)
5月19日にイラン北西部でヘリコプターの墜落事故が起こり、ライシ大統領やアブドラヒアン外相らが死亡した。ライシは63歳。2021年にイラン・イスラム共和国第8代大統領に当選した。80年代から一貫して司法関係で仕事をしてきて、検事総長も務めた。その間反体制派弾圧にあたり人権抑圧に責任がある人物である。北東部の宗教都市マシュハドに生まれ、保守派の代表として最高指導者ハメネイ師の後継とも想定されていた。
(ライシ大統領)
他にも『タイタニック』の船長役を務めたイギリスの俳優バーナード・ヒル(5日没、79歳)、アメリカのサックス奏者でグラミー賞6回獲得のデヴィッド・サンボーン(12日没、78歳)、ヴァイオリニストで元ウイーン・フィルのコンサートマスター、ヴェルナー・ヒンク(21日没、81歳)などの訃報があった。
写真家、エッセイストの武田花が4月30日に死去した。72歳。武田泰淳(1912~76)と武田百合子(1923~93)の娘として1951年に生まれた。アルバイトをしながら野良猫の写真を撮り続け、1990年に木村伊兵衛賞を受賞した。猫や寂れた町並みをモノクロで撮影した写真で知られる。泰淳も百合子もついこの前亡くなったような気がするが、ついに武田花も亡くなってしまったのか。ちょうど『武田百合子対談集』(中公文庫)を読んだばかりだったので、訃報には驚いた。今も武田百合子は読まれ続けているが、それらの本に武田花撮影の写真も多く収められている。
(武田花)
フォトジャーナリストの吉田ルイ子が31日に死去。94歳。朝日放送アナウンサーからフルブライト奨学生として渡米、コロンビア大学で修士となった。その間ハーレムで撮った写真が高く評価され、1968年に公共広告賞を受賞。71年に帰国して、日本でも写真が評価された。それをまとめた著書『ハーレムの熱い日々』が評判となった。これは僕も読んでるけど、非常に多くの人に影響を与えた本だと思う。その後、南アフリカのアパルトヘイト取材にも取り組んだ。年齢的に21世紀になってからはほとんど消息を聞かなかったが、こういう日本人女性が70年代に存在したことは次の世代にも知って欲しいと思う。
(吉田ルイ子)
元早稲田大学総長、高野連(日本高等学校野球連盟)会長の奥島孝康が1日死去、84歳。法学者で専門は会社法。1994年から2002年に早稲田大学総長を務めた。奥島時代に長年の懸案だった「革マル派」との絶縁に取り組んだことで知られる。高野連会長としては元プロ選手の学生野球指導資格回復制度を作った。豪腕で毀誉褒貶あった人らしいが、業績は遺した人なんだろう。
(奥島孝康)
元衆議院議員で環境庁長官(90年)、防衛庁長官(94年)を務めた愛知和男が3日死去、84歳。元大蔵大臣の愛知揆一の女婿で、1976年に自民党から衆議院議員に当選した。93年に離党して新生党に参加、細川内閣で防衛庁長官になった。新進党結成後に政審会長となったが、次第に小沢一郎への批判を強め、97年に自民党に復党した。2000年に落選して引退を表明したが、2005年の「郵政選挙」に請われて東京選挙区の名簿下位に掲載され、自民が圧勝して思わぬ当選を果たした。2009年に二度目の引退。
(愛知和男)
大相撲の元力士、大潮(元式秀親方)が5月25日没、76歳。最高位は小結。敢闘賞、技能賞各1回受賞。1962年1月に時津風部屋から初土俵を踏み、1988年1月に40歳で引退するまで通算26年間相撲を取ったことで知られる。通算出場1891番は今に至るも歴代1位の記録になっている。通算勝ち星964勝は、引退当時歴代1位だった。その後、白鵬、魁皇、千代の富士に抜かれたが、横綱・大関以外の力士としては今もトップである。十両通算55場所(歴代1位タイ)、幕内昇進13回は歴代1位で、努力してはい上がって長年務めた。引退後は時津風部屋から独立して式秀部屋を創設した。
(大潮)
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