尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

TOKYOオリンピック物語

2011年08月08日 22時11分06秒 | 〃 (さまざまな本)
 野地秩嘉(のじ・つねよし)著「TOKYOオリンピック物語」(小学館、2011)。書く時間がないままになっているので、まずこの本を。「東京五輪」というのも、「シベリア抑留」とか「チェコ事件」なんかと並んで、つい買ってしまうテーマなんだけど、この本はちょっと異色で東京五輪を裏で支えた人々の物語である。たとえば、選手村の食事を1万人分作りきった帝国ホテル料理長村上信夫とか。これほど大規模の食事を、しかも単なる和食だけではなく、またいわゆる「洋食」だけではなく、アジアをはじめ世界中から来る選手たちの要求を満たすように作るということはそれまでの日本にはなかった。そういうシステム自体がない。一度に多数の食事をつくるというシステムを作ることから始めるのである。この時、日本中のホテルから来た料理人が「一斉に多数のサンドイッチをつくる」というような技術を覚えて帰り、ホテルの結婚式やパーティというものが全国に広まっていったのだという。村上さんは無休、無給で事に当たった。

 勝者を速報するためのコンピュータのシステムを作った日本IBMの技術者たち、初めて民間警備会社(今のセコム)を作って選手村の警備を担当した人、ポスターや絵文字を作った人々。(ちなみに、あのランナーが一斉にスタートするポスターを作った亀倉雄策により、グラフィックデザイナーという言葉が定着した。)「プロジェクトX」の東京五輪特集だけど、とても感動的で、熱く思い出すような話がいっぱい積もっている。そして、亀倉雄策の言葉、「日本人は時間を守るとか団体行動に向いているというのは嘘だ。どちらも東京オリンピック以降に確立したものだ。みんな、そのことを忘れてる。」という発言が重い。確かに僕らは忘れている。ちょっと前まで、パソコンどころか、テレビも冷蔵庫もなく、みんな落語の登場人物みたいに暮らしていたのだ。五輪の10日前になんとか新幹線を間に合わせたのに、今では忘れて中国を批判している。(儀式に間に合わせるために急いだという点が共通しているというだけで、他に有意味な批判点はもちろんいっぱいある。)

 僕が東京五輪を経験したのは、小学校低学年のとき。教室にテレビが導入された。開会式の日の空の五輪マーク。内外のいろいろな選手の活躍もさることながら、僕が一番思い出すのは閉会式の、国家や民族を超えて肩を組み一緒に行進した様子である。あれで、良いのだ!と幼くしてインスパイアされたので、「卒業式は厳粛に」などという言説に違和感を覚えてしまうのである。入学式は最初だから厳粛でもいいけど、卒業式は最後の別れなんだから、偉い人の話を謹聴してるだけではつまらないではないか。
 それはともかく、誰かが書いてたけど、僕らの世代には「東京五輪開会式」を口演できる生徒がけっこういた。僕も、古関裕而の行進曲を口ずさみながら、「○○選手団の入場であります…いよいよ最後、日本選手団の入場であります。アジアで初めて開かれる世紀の祭典であります」などと口マネができた。僕は子供だったからテレビを見て、素朴なナショナリストとして感動していた。(小林信彦の本を読むと、そういう人ばかりでなく東京を逃げ出していた大人もいたとわかるのだが。)

 そういう素晴らしい東京五輪ならぜひもう一回やるべきだと思うかというと、全くそうは思わない。一番大きなタテマエ的な理由は、2020年には今回の震災の復興どころか東京自体が被災地であるかもしれないではないかということにある。しかし、ホンネ的に言えば、あの素晴らしい、日本の初めての体験は自分の心の中にとっておきたいという気持ちがある。今度やっても、それは初めての人には感動もあるだろうが、大体のところは「もうできあがったシステム」に人間を動員してあてはめていくだけのつまらないものなるだろうという予感がある。だから、まだやっていない都市が手を挙げるならば、そういう都市を応援したいという気持ちがあるのだ。

 なお、この本のかなりの部分は市川崑監督の記録映画「東京オリンピック」の裏話になっている。そこは大変興味深い話が多いが、後書きにある仲代達矢の言葉には間違いがある。仲代の映画デビューは「火の鳥」という映画だが、出世作という意味でも「人間の条件」全6部(1959~1961)を先に挙げなくてはいけない。映画に関しては、案外間違える人が多いので、校正者も頑張ってね。(もう一か所「?」があるけど、まあ書かない。)
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大野更紗「困ってる人」

2011年08月07日 23時36分47秒 | 〃 (さまざまな本)
 本年屈指の本間違いなく面白い。心揺さぶられる。かつてない「難病」書。壮絶なる「究極のエンタメ・ノンフィクション」。必読。多くのところで話題になっているようですが、僕も一読、これは書いておかなくてはと思いました。上智大学大学院でビルマ難民の研究、支援活動をしていた女性が、突然原因不明の難病になる。その壮絶な闘病記。大野更紗「困ってる人」(ポプラ社)はとりあえずそんな本。

 まず、この人は「ビルマ難民」の支援活動を半端じゃなくしてた人で、その時の活動ぶりがすごい。タイ、ビルマ国境の難民キャンプに乗り込んでいくのだが、その辺は本で。しかも、生地は原発事故避難地域すぐ近くの山奥の限界集落(「ムーミン谷」と呼ぶ)で、そこから進学校の女子高に進学し全国一の合唱部で活動する。この大学以前もかなりすごい。そこから上智でフランス語、そこからさらにビルマ難民支援と一直線で、難病以前も濃い人生なのだ。その後、タイで調子が悪くなり、なんとか帰って、診断を求めて、病院をさすらう。ここも大変。結局「自己免疫疾患」で、前に書いた森まゆみさんの「原田病」もそっち系だが、この「自分の免疫機構がおかしくなる」というのは、本質的に「自分とは何か」という問いを自分に突きつけるような根源的な病だ。結局ついた病名は「筋膜炎脂肪織炎症候群」という読むのも大変な病気だった。

 ある「病院」にたどりつき、そこで入院(ゆえに、ここは「オアシス」と呼ぶ)、そこでの検査、ステロイド投与の治療、これでもかこれでもかと上には上、下には下、奥には奥、と世界の深さは果てしないことを思い知らされる。が、ついに「おしり」が崩壊、「おしり有袋類」となる。これ、わからないでしょ。本を是非読んでほしいが、あまりにも悲惨ですごい。が、悪いけど(悪くないけど)爆笑ものである。そのあとは、医療、社会福祉の谷間に落ち込みながら、必死に生きていくわけだけど、軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)な文章で書かれているけど、日本と言う国を自己認識するときに大切なことがいっぱい書かれている。つまり、日本が難民に冷たい国だと「発見」して驚いた著者は、日本が「難病者」に冷たい制度に満ち満ちていることにも驚く。なってみないとわからないことは多いのだ。

 冗舌なる口語体で一気読みできるけど、そこが油断ならない。自己客観化の仕掛けでもあるけど、人間は親や家族が一番描きにくい。そこで実の両親は「ムーミン」(なぜかフグスマ弁をしゃべるムーミン)にしてしまい、第二の親である医者も「クマ先生」「パパ先生」などとネーミングしてしまう。親にあたる人との関係を書くのは大変だと思うけど、この人は自分の体験がすごすぎて、それを書きたい気持ちが強いから、そういう手で軽々と乗り越えてしまった。そこは感心なんだけど、自分のことを「現代っ子だから、ほめられると伸びるタイプ」なんて軽く書いてしまう。これはいけません。

 現在は退院して都内某所で生存中とのこと。近況はブログで見ることができる。かなりあちこちで「作家」として活躍中。開沼博さんと大野更紗さんの、福島出身院生対談なんて企画もあった。(行けなかったが。)二人ともちょっと前まで全然知らなかった人なわけだが。さて、で次は開沼博の本に取り掛かる。

*追記
 「困ってる人」が売れているようです。本屋に積んであるから。それにつれて、ブログのこの記事も毎日30人位が読んでくれる日が多くなっています。このブログは、もともと「教員免許更新制」に反対するために開設しましたが、いろいろと記事を書いています。もしよかったら、「ブログ開設半年の総まとめ①」「ブログ開設半年の総まとめ②」「ブログ開設半年の総まとめ③」を見て、他の記事も見て頂けるとありがたいなと思っています。
★さらに追伸。「コメント」を入れてくれた人がいます。どんなコメントも歓迎です。「なんで?」ってあるからすぐに応えてもいいんだけど、僕が書いてしまう前に誰か思うことがあれば書き込んでくれるとうれしいです。そのうち、僕も書きたいと思いますが。

追記2
 追記を書いた後で、「ほめられると伸びるタイプだから問題」を書いています。(2011.10.20)ここに書き込むのを忘れていたのですが。「困ってる人」という素晴らしい本に関する話の中では、本質に関わる問題ではありません。スピン・オフなので、この後自分でコメントを書いてオシマイにしたいと思っています。(2012.2.10)
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ヒロシマとナガサキ

2011年08月06日 23時55分42秒 | 自分の話&日記
 広島への原子爆弾投下 1945年8月6日、午前8時15分
 長崎への原子爆弾投下 1945年8月9日、午前11時2分

 僕がよく授業で取り上げたのは、この両者の時間差である。原爆を搭載したB29は真夜中の1時半ころにマリアナ諸島テニアン島の米軍基地を飛び立っている。それなのに、ヒロシマとナガサキには約3時間もの投下時間の差がある。これは何故だろうか?

 この答えは、知ってる人も多いと思うが、「長崎は第一目標ではなかった」ためである。9日の第1目標は小倉(こくら)市(現北九州市)の小倉陸軍造兵廠だった。9時44分頃には小倉上空に米軍機が到達していた。しかし、天候良好な場合に目視で投下すべしとの指令があり、目視の失敗や天候の悪化、日本側の反撃等があり、米軍機は小倉をあきらめ、第2目標の長崎に向うことにした。長崎も天候不良だったのだが、米軍機が着いたころ一瞬雲の晴れ間があった。その時に原爆が投下されたのである。(ちなみに、6日の広島が天候不順の場合、第2目標は小倉、第3目標は長崎だった。)

 今頃の西日本は例年晴れていることが多いとは思うが、その時台風が来てるとか、少なくとも曇っていれば広島や長崎への原爆投下はなかったのである。そして、実際小倉は原爆投下を免れた。今、広島、長崎への原爆投下を写真や映像で思い浮かぶ人が多いと思うけれど、もちろんアメリカの写真撮影機によるものである。結果として未だ人類史上2回しかない原爆の実戦使用は、しっかり目視して投下しきちんと記録されなければならなかった。広島、長崎への原爆投下とその映像があることを、僕たちは初めから前提として考えてしまいがちだが、その日晴れていたからあの映像が存在したのであって、そういう「偶然性」は歴史の中に存在するのである。そして、小倉は原爆投下の都市としては記憶されなかった。しかし、僕たちは「歴史の可能性」として「被爆都市小倉」を記憶し続けないといけないのではないかと思う。

 原爆に関する小説、映画、演劇、絵画、漫画等はものすごくたくさんあるわけだが、いったん地人会による上演が終わっていた朗読劇「この子たちの夏」世田谷パブリックシアターで上演されている。(9日まで。)これは一度はいっておきたい。井上ひさしの「父と暮らせば」のこまつ座公演は新宿紀伊国屋サザンシアターで17日から24日。映画版の「黒い雨」(田中好子の名演)はやはり原爆を扱う吉田喜重監督「鏡の女たち」とともに、8月27日から9月2日に高田馬場・早稲田松竹で上映。東京周辺になるが、結構いろいろあるので接することができる。

 しかし、小説の原民喜「夏の花」林京子「祭りの場」の衝撃の方が大きな感じもする。長崎を扱った佐多稲子「樹影」が僕のおススメ。井伏鱒二「黒い雨」はかなり読みにくいので、名作ということでこれから読むとつらいと思う。それより「父と暮らせば」の戯曲版を読む方がいいと思う。(ついでに言うと、「父と暮らせば」は僕には名作すぎて、「紙屋町さくらホテル」の方が好きなんだけど。)
 書いてるうちに、昔「この子たちの夏」を高校でやったときの麦わら帽子がなんだか懐かしく思い出されてきました。
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シベリア抑留死亡者名簿を作った人

2011年08月05日 21時50分10秒 | 〃 (さまざまな本)
 「積ん読」本もどんどん読まなくてはいけない。今日紹介する本は2年前に出た本。村山常雄「シベリアに逝きし46300名を刻む(七つ森書館)という本で、これは全員に勧める本ではない。それはこの本がシベリア抑留に関する一般的な概説書ではないからだ。シベリア抑留、あるいは戦後処理問題に関心がある人は、是非そろえておきたい本だと思うが、中身はかなり細かい名簿作りのディテイルが中心で、この問題にくわしくない人が最初に読む本ではない。(最初に書いておくと、概説書としてはまず栗原俊雄「シベリア抑留」岩波新書、白井久也「検証シベリア抑留」平凡社新書の2冊が近年に出てまとまっている。さらに深める場合は、高杉一郎「極光のかげに」岩波文庫、石原吉郎の詩やエッセイ、内村剛介の著書などなどを読んでほしい。)

 この本はシベリア抑留死亡者名簿を作った村山常雄というすごい人、素晴らしい人を紹介し、記念するという意味がある。新潟の中学教員だった村山さんは、退職後70歳になってパソコンを買い、シベリア抑留の死亡者の名簿を整備し始めた。ものすごい苦労のすえに、大部の名簿を自費出版し、2006年吉川英治文化賞、2009年日本自費出版文化賞を受賞。自費出版文化賞の選考委員だった色川大吉、鎌田慧両氏のすすめにより名簿そのものではない解説の部分を出版したのがこの本である。

 村山さんは自身もシベリア抑留体験者だが、そこでの死者一人ひとりの名を確定し、死亡地、死亡年月日等をまとめていくという、(本来なら国家が行うべき作業だが)、ものすごい苦労がある作業を一人で行ってきた。その思いの奥には、死者の数が問題でないとは言わないが、そしてもちろん多数の死者の方が重大ではあるが、その前に、誰が、どんなふうに死んでいったのか、その一人ひとりが重いのだという気持ちがある。単なる数で死者を語って欲しくないという思いだ。

 シベリア抑留の本質を語るのは大変なので、この恐るべき戦争犯罪、人権侵害のくわしい中身は是非前記の本を読んでほしいが、名簿を作るということはどういうことか?ソ連は戦後長らくこの犯罪的行為の死者を日本に報告しなかった。80年代後半になりゴルバチョフのペレストロイカ時代になって初めて、日本に断片的に何回かにわたり名簿が手渡された。しかもその名簿は、日本名がロシア語(キリル文字)で表記され、しかも長年月たっているために、誰と判断するのがとても難しいものだった。たとえば、同書から引用すれば、「トーイヨタキ・ホンデセロ」「コ(カ)ムチ・チュボ(バ)タ」とあるのは一体日本人の名前なんだろうかと思いながら、諸資料を当たりつつ、「富高平十郎」「坪田鋼一」と確定してという「解体新書」の翻訳みたいなことを延々と続けるということなのだ。「ヘボン」と「ヘップバーン」が同名だというようなもので、実に大変な知識と推理力と事務作業がいる。いや、すごい。これは驚くべき業績だと感銘を受けた。

 あとがきには、単純に平和と言わないでほしいと書いてある。言うのなら、「平和」の前に、必ず「不戦」「反戦」「非戦」などをつけ、「不戦平和」「反戦平和」「非戦平和」と言ってほしいとある。この言葉の重さははかり知れない。

 村山さんが打ち込んでまとめた名簿はホームページ上に公開されている。「シベリア抑留者死亡者名簿」である。この名簿の50音順「お」の7ページ、8361番、「尾形 眞一郎」は父健次郎の兄、つまり伯父である。1946年1月7日、チタで死亡。
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ゲゲゲのげ

2011年08月04日 23時37分48秒 | 演劇
 毎日映画を見たり、本を読んだり…で過ごしています。主にお金の問題で映画以外はあまり行けないのですが、時々は演劇や落語にも行きたいということで、そういうカテゴリーを追加。昨日見たオフィス3○○(さんじゅうまる)の「ゲゲゲのげ」の感想を簡単に。渡辺えり子「ゲゲゲのげ」は、1982年初演で83年の岸田國士賞受賞の傑作です。(野田秀樹、山元清多と3人同時受賞はこの時だけ。)僕は1985年の再演時に下北沢の本多劇場で見て、とても深く感動しました。(珍しく本を買った。)

 今回見たのは、渡辺えりが自分の演劇活動を再起動した意味を確かめたかったこと(最近は映画、テレビや他劇団の名脇役の活躍が中心だった)、「いじめ」という主題を今見てどう思うか、「ゲゲゲ」と言えば「女房」という時代にこの劇はどう感じるか、「座・高円寺」という劇場に行ったことがなかったので行ってみたかったなどの事情によります。見てみてやはり戯曲の力を感じたし、まだ平日は空席があるようなので、おススメで書く次第。前売・当日とも5千円。

 最後の点から書くと、最近各区で劇場を作ることが多いけど、なかなか行けない。まだ豊島区の「あうるすぽっと」は行ってないです。世田谷パブリックシアター、わが足立区の「シアター1010(せんじゅ)」は600か700も入るけっこう大きな劇場で足立も動員に苦労しているようですが(もすこしラインアップに工夫が欲しいな)、ここは200人台の小劇場でした。(地下にもう少し大きいのがあるようだ。)その小ささ、動きやすさを生かした卓抜な舞台設計と演出がなされていたと思います。せり出しの奥に、上下二重という舞台装置の魅力が素晴らしい。舞台転換が多い劇内容にふさわしい見どころの多い舞台美術だと思います。

 「いじめ」に関しては、まだあの中野の事件(1986年の「葬式ごっこ」事件)さえ起こっていない時だったので、はっきり言ってしまうと、「呼べば鬼太郎が現れる」という昔見たときの感動的な設定が少し胸に迫らなくなっていると感じました。(これは自分が年取ったからかもしれず、初見の若い人の感想を聞きたいと思います。)「妖怪」もその後「町おこしの材料」みたいになっていて、「ゲゲゲ」の持つ詩的、思想的な喚起力が市場の中に飲み込まれた感じもしました。何重もの重層的な劇的世界、「異界」との自在な交通性、戦争の時期と現在とをつなぐ少年の叫びと救い、と言った前に見て感じた切実性は、僕は少し薄れているような気もしたけど、それはそれで美しい叙情性は変わりなく輝いています。あのころは「戦争」がまだけっこう近かったなとも感じたけどね。あとセリフで「血液型」に言及するのは止めて欲しいなと思ったです。これはいつ書くけど、震災以後ぼくらがすべきことは「血液型で人を判断する」などという今の日本でもっとも身近な「非科学」をみんなで意識して止めることではないかと思ってます。  
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教員免許更新制度は本当に必要か?

2011年08月04日 22時12分20秒 |  〃 (教員免許更新制)
 今まで「コメントにコメント」はしてないのですが、最近のコメント二つは反論をするのが礼儀だと思うので、少し書いてみたいと思います。(教科書問題の方はもう少し後で。)

 教員免許更新制度の必要性を書いているコメント(モナー号船長さん)によれば、「教師は法令順守のうえ生徒に対して適切な指導をするものだっと思います、一部の教師ではそれができない以上、教員免許更新制度あって当たり前だっと思います」ということです。一応、これをベースに考えます。

 私が思うに、これは理由になっていません。教員免許更新制度を実施すればすべての教員が法令順守、適切な指導ができる、免許更新制でなければそれはできない、という論証がないからです。実際、この制度実施により、単なる事務的な理由で失職する教員が出るということが起こりました。私はその事態を、愚策による人権侵害と考えますが、賛成の人はその事態を「教育がよくなる政策」だと考えるのでしょうか。以下に、制度そのものと、制度実施上の問題にわけて、いくつかの具体的な論点を提出したいと思います。(ほとんどは前に書いてあることですが。)

A.そもそも「制度設計の問題」として
①「一部の教師は適切な指導ができない」のなら、その一部の教師に研修を課せばよいだけなのではないかと思うが、特に全教員免許取得者(正規に採用された全教員ではない)に講習を課す意味はどこにあるのか?コストパフォーマンス的に無意味なのではないかと思うが、どうか?
②「一部の医師」「一部の看護師」「一部の介護士」「一部の弁護士」等々、皆不祥事を起こしていると考えるが、当然それらすべての公的資格も、10年ごとに講習を受け合格して手続きをしないと失効するという制度にせよという主張と解してよいか?もし、他の資格はやらなくていいけど、教員免許だけは更新制度にせよということなら、それはなぜか?
③すでに法令にある「10年研修」ではなぜだめなのか?職場で研究授業などを行う「10年研修」の方が、大学で座学をしていればよいことも多い「更新講習」より実質上の意味はあるのではないかと思うが、なぜ更新講習の方が効果があると考えるのか?
④正式に採用されている正教員だけでなく、非常勤講師、産育休代替教員、大学卒業後民間企業に勤務し30を過ぎてから教員を目指しているような人など、大変な中を教員を目指している人たちまで、更新講習を受けなくてはならない制度は、常識的に考えてあまりに酷な、おかしな制度とは考えないか?

B.制度実施上の問題について
⑤離島や山間部の教員、小さな子供や介護の必要な家族を抱えた教員、部活動などで夏休みや土日も学校で働いている教員など大変な中頑張っている教員が、「適切な指導ができない教員」でないのなら、わざわざ都市部にしかない大学で講習を受けないと失職する制度が必要なのか?かえって、やる気をそぐ制度とは考えないか?(インターネットで講習を受けることが可能な大学もあることはあるが。)
⑥校長、教頭(副校長)、主幹教諭の中にも一部だが行政処分を受ける人がいる。従って、上記の必要性の主張からすれば、「管理職や主幹教諭の講習免除規定はなくすべき」であるという主張と解してよいか?
⑦教師と言っても、校種、担当教科等により様々な種類がある。幼小中高特別支援、教科はあまりに多いので省略するが、養護教諭も含め、様々な教員はそれぞれ抱える問題意識や経験が違う。それぞれごとに別々に地域の教育委員会が実情に応じて研修を行う方が効果があると思うがどうか。今は、どの大学のどこの講座をとっても可ということになっているが、それは改めるべきという主張と解してよいか?(ただし、その場合、大学で講習を行うという大前提が難しくなると思うが。)

 大体以上のような論点になりますが、別に答えて欲しいわけではないけど、作った人に教えて欲しい。考えなしに「教員イジメ」で思いつきで作ったものだと思っていますが。この制度実施のために、文科省では多くの税金をつかってきました。問題教員がいるというなら、そのお金で十分な研修をすればいいと思うけど。(なお、単に大学に行けばいいだけだから、「指導力不足教員」対策には全くなりません。)

 ところで、今は「一部の教員が法令順守、適切な指導ができない」という前提で考えてきましたが、この前提自体は正しいか?人間社会において、あらゆる場面において完全な組織はありえず、一部の構成員は問題を抱えているのではないかと思います。学校は特にその程度が大きいですか?私はそんなことはないと思うのですが。むしろ教員が熱心すぎたり、頑張りすぎたりすることが問題の方が大きいと思うのです。民間企業なら「窓際族」で閑職に置いておくことができても、教師は少しは授業を持つから生徒に影響を与えるので、特に大変な問題と考えられるのは当然です。しかし、それはむしろ「学校を親や地域に開く」という「学校に自由の風を通す」政策により、学校を変えていく方法を考えて解決する方がいいのではないかと思っています。

 どんな職場だって一部の人は問題でしょ。その「一部」のために、研修が強化されたり監査がひんぱんになるのはガマンするとしても、せっかく勉強して得た資格そのものをなくして、失職させようという制度は普通に生活してマジメに仕事している人なら、おかしいと思うんじゃないでしょうか?
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かすかな光へ

2011年08月03日 23時42分47秒 | 映画 (新作日本映画)
 連日映画の紹介だけど。いつもすぐ見ないのに、30日公開の映画を前後の時間の都合で今日見てしまった。それはポレポレ東中野でやっている「かすかな光へ」という記録映画。森康行監督
 森監督は「渡り川」(94年)、「こんばんは」(04年)と2回キネマ旬報文化映画ベストテンを取っている人で、この2作ともとてもいい作品で、学校でも上映したことがある。特に「こんばんは」は夜間中学を扱っていて、たまたま対象になった学校の近くの夜間定時制高校に勤務していて、映画に出てきた生徒をその後教えたという経験もある。だから森監督の新作だから、見ておきたいとは思ったものの映画の内容が教育学者の太田尭さんのドキュメントと聞いて、うーん、どうしようかなとちょっと思ったのも事実。だって学者センセイの映像撮って面白いのかなあ、ということ。

 見たら、その危惧は全くの杞憂で、この映画はすごく面白い。すごく役に立つ。見て元気になる。考えさせられる。この映画は見た方がいい

 太田尭さん、93歳。いわゆる「進歩的文化人」という言葉があったときに、教育学者、都留文科大学学長として名前は何度も見聞きしているけれど、くわしくは存じ上げません。99年に夫人に先立たれ、追悼文集が映画で紹介されているけれど、80過ぎて配偶者に先立たれた後も社会的な活動を90歳を超えて行っているという、その一点だけでもすごい。戦争に生き残り、郷里の広島県三原(当時は本郷村)で教育刷新運動をはじめ、埼玉に移っても青年文化活動を行う。その後、家永教科書裁判の支援も続ける。このように、太田さんの歩みを追いながら、自然に戦後日本教育史をおさらいしていく。

 そして現在も自然保護や福祉に関わりながら、現代日本への発言を続けている。キーワードが三つ。「ちがうこと」「自ら変わること」「かかわること」。「およそすべての生きもののそなえた生命の特質を手がかりとして、人間の尊厳、基本的人権を軸とするセーフティネットの創造につなげることで、モノとカネが支配する社会に、なんとかくさびを入れる、そういう夢を持ちつづけてきました。」(「ご来場のみなさまへ」太田尭)

 教職課程を取っている若い人には是非見て欲しいと思う。
 「かすかな光へ」という題名は、谷川俊太郎の詩から取っている。
 上映は、平日はシエスタを取って4時半と7時。土日は2次20分あり。午前は「あぜ道ジャンピンッ!」という、聴覚障害の女の子がストリートダンスに目覚めるという新潟で撮った映画をやっていて、こっちも見たいけど、朝早い。
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人生、ここにあり!

2011年08月02日 23時48分39秒 |  〃  (新作外国映画)
 昨日見た映画。イタリア映画人生、ここにあり!」。精神障がい者の共同組合活動を描いたコメディ。銀座シネスイッチで公開中。

 さて、この映画をどうしようか?今まで書いた映画は、映画として優れているけど、あまり知られてないと思う小国の映画、アート映画、記録映画などを多く取り上げてきた。「英国王のスピーチ」「ブラックスワン」などの新作だって見てるけど、なかなかいいとは思うのだが僕が書かなくてもヒットするだろうし、どうしても書きたいほど評価はしていないので書かなかった。(「ブラックスワン」は演出、演技はいいけどホラー的なつくりが怖いので困る。)で、この映画はイタリア映画が好きだし、テーマ的に関心があって見た。見て思うのだが、映画としては今一つ。コメディとしては少し滑っていると思うし、アートとしてものすごく深いことを描いているということでもない。イタリア映画なら何でも見るという人はともかく、映画ファンというだけなら敢えて勧めることはしない。

 でも、この映画が扱っているテーマはとても興味深い。だから、精神障がい者福祉や精神医学に関心がある人、生協など共同組合運動、労働組合運動、さらに広く社会的活動に関わっている人が見るべき映画なのではないかと思う。いや、違うかな。コメディとして作っているというのは、広く様々な人に見て欲しいということなんだろうけど、日本では事情がよく判らないので難しい部分がある。
 ここ数年、イタリアでは精神病院を廃止した、という話がいろいろなところで聞かれるようになってきた。1978年の有名なバザーリア法である。で、地域の福祉作業所などが後を引き受けるのかと思えば、この映画では障がい者自らが労働者協同組合を作り、市場の中へ乗り出していく。この「労働者協同組合」って、何だ? 日本では、労働組合や農協、漁協、生協、全労済とか皆名前と存在は知ってるけど、理念について考えることをしなくなっている。生協とは「消費生活協同組合」だが、「生産生活」の方はどうか。会社があってそれに対抗する労働組合(全然対抗してないのは、昨日の「田中さんはラジオ体操をしない」で明らかだが)がある。しかし、生産過程そのものに労働者の意向は取り上げられない。そういえば昔は「労働者自主管理」という概念があり、「労働組合の経営参加」という運動もあった。旧ユーゴスラヴィアの崩壊とともに誰も言わなくなり、世界はグローバリズムに飲み込まれた。

 まず、映画の冒頭で主人公が労働組合の活動家から病院の協同組合へ「左遷」される。この「協同組合180」というのが、精神病院廃止後に「元患者」たちが所属していた病院ではないことになった「協同組合」ということらしい。で、彼らのあまりの無気力ぶりに主人公は驚き、皆に市場経済の中で「稼ぐ」ことを提案する。この提案をもとに皆がいろいろ試みるが、医者の反対もあるし、様々な失敗も…。でも、ひょんなことから「廃材利用の寄木貼り」というアイディアが成功し…。その成功を受け、さらに医師を変えて、薬の量を減らすという「実験」に乗り出していく。その結果、皆の無気力、無表情な状態は改善するが、一方、恋愛感情、性的欲求、暴力傾向なども解き放たれて、トラブルも起こって…。と言う風に話は進んで行く。

 さて、映画を見ていて思ったのは、病気のあるなしを別にして愛や性の持つ意味の大きさで、まあ当たり前なんだけど、そこの描き方が難しい。日本の今の考え方ではありえないようなエピソードもいろいろとあり、イタリアは解放されているのか、それとも映画の中の設定なのか、よく判らなかった。娯楽映画という枠を枠を超えていかない表現のあり方に多少のいらだちも覚えた。

 この映画のテーマ的な部分だけど、日本では同じような展開はかなり難しいのではないかと感じた。行政の補助なしでやっていけない今の精神福祉の実情が、協同組合になればうまくいくという展望はなかなか持てないと思う。それは労働現場のあり方の違いもあるかもしれない。精神的な病を起こす時の「ひきがね」(トリガー)という概念があるが、「職場」「恋愛」が一番多いだろうと思う。日本の会社の、リストラ、サービス残業、非正規社員ばかりの状況と、いくら利潤を第一とはしないとはいえ共同組合とが共通の条件で市場で張り合えるだろうか。それに製薬会社の力が強い日米のような国の制度では、薬漬けからの解放はイタリアと比べ物にならないほど大変なのではないか。

 また、日本では「労働者協同組合」を保障する法律がまだない。「ワーカーズコレクティヴ・ネットワーク・ジャパン」というところが検索すると出てきて法的制度を求める運動はある。この、労働者自身が出資し、自分たちの会社を作るという発想は、福祉、食、子育て支援などの分野で発展していく可能性を秘めている。

 日本では、株式会社の設立の簡易化が行われてきたので、むしろ「自分たちで株式会社をつくる」方が行われてきたというべきかもしれない。有名な岐阜県の未来工業は、岐阜で劇団「未来座」を主宰していた山田昭男氏が劇団の仲間と1965年に立ち上げた電設機械会社である。「楽して儲ける」という著書もあるようだが、休日は多い方が生産性があがるというし、映画を作ったりもする会社。談合に加わらず、当初の予算より安く上がって自分たちも利益は得たとして余った金を行政につき返したというすごい会社である。名証2部に上場もしていて、ちゃんと配当も出している。(今日現在915円で、3月期配当は28円。)そういう驚くべき会社も現存するわけだが、「経営」と「労働」は当然分離されている。労働者がいつも会議を開いて自己決定をするのも大変だろうと思うが、何がいいのかわからない。

 実は僕は、前々から友人が代表を務める精神福祉の作業所(今はNPO法人として運営)に協力しているものなのだが、日本の現実はなかなか難しいと思うけど、こういう話に少しでも関心がある人は見ておいた方がいい映画だという気がする。共通の話題のためにも。
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田中さんはラジオ体操をしない

2011年08月01日 23時21分54秒 | 映画 (新作日本映画)
 今日は映画サービスデイなので頑張って朝から4本見てきました。株主優待で見れない映画館、優待日がない映画館はこの日を利用しないと。(最近は曜日を限って全員割引もあるけど、「女性割引」のみあるところがある。一部に「マンデイ」=「マン・デイ」のシャレだと思うけど、月曜日は男性割引というところもあります。)
 で、まずは新宿・ケイズシネマで記録映画「田中さんはラジオ体操をしない」。これはオーストラリアの女性記録映画監督マリー・デロフスキーが撮った、日本の少数派の物語です。

 田中哲郎さんは、まあそれなりに有名人ですけど、沖電気を1981年に解雇されてから工場の門前で抗議活動を続けているという人です。会社が毎朝ラジオ体操をするようになり、田中さんはそれに参加しないでいたので、映画の表題になっています。しかし、それだけの理由で解雇になるわけではなく、会社側の指名解雇強行、それに対して戦えない労組執行部に対抗して組合選挙に立候補などを経て、会社が地方営業への異動発令を拒否して解雇ということになったわけです。70年代から強まる企業内の「合理化」(と当時は言っていた。今は「リストラ」というけど、要するに労働者をクビにすること)と、企業への忠誠心の強制に対して抗議を続けてきたわけです。

 で、その後毎日会社前で抗議の情宣というか、映像で見るとギター・コンサートみたいな感じもあるけど、ずっと続けてきたということは知られてはいる。けど、東京西部の八王子は結構遠くて、一度も見たことはないし、どういう人なんだろうと思ってました。見たらギター教室をやるほど音楽的才能があり、会社時代もマンドリンクラブの部長だったという人で、子供たちも音楽をしてる。帽子をかぶってギターかついだ「ギターを抱いた渡り鳥」(ちょっと古いけど小林旭の日活アクションシリーズ)みたいな感じ。確かに間違いなく「運動家」タイプではあるんだけど、同時にそれにとどまらない芸術家肌でもあるし、本質的に自由人であるような人だと感じました。自分を殺して生きていない人ということです。また、撮影者の母語であるということもあり英語で表現しているところが多く、英語うまいなと思ったね。

 君が代強制に反対している根津公子さん(ちなみに、彼女は「ハイスクールティーチャー」ではない」)なども出てきます。田中さんは2005年に多田遥子反権力人権賞を受賞しています。

 朝10時半から1回上映、というのが行きにくいけど。(12日まで。)田中さん割引あり。田中さんは証明書を見せれば1000円だそうです。
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