先週アテネ・フランセ文化センターで見た映画。インドの巨匠(と今は認められている)グル・ダット(1925~1964)については、紀伊國屋レーベルからDVDボックスが出ていて、代表作「渇き」「紙の花」「55年夫妻」が入っている。しかし、劇場で見られる機会はほとんどないので、僕は「渇き」は3回目になるんだけど出かけていった。最初に見たのは、1988年の大インド映画祭、二度目は国際交流基金でやった2001年のグル・ダット映画祭。もう10年前なんだ。その時はいつも軽妙な助演者をグル・ダット映画で務めていたジョニー・ウォーカーが来日して監督の思い出を語っていた。(「ジョニー・ウォーカー」って芸名のインドの俳優です。)
日本でのインド映画はATGや岩波ホールでサタジット・レイをやるぐらいで、昔はほとんど見られなかった。その後アラヴィンダン「魔法使いのおじいさん」などが紹介され、98年には「ムトゥ 踊るマハラジャ」が日本でもヒットして、一時「マサラ・ムーヴィー」なんて言われた。最近はあまり公開されないし、インドそのものへの関心も昔より衰えているのかもしれない。グル・ダットは最近評価がものすごく高くなってきて、タイムズが世界映画100選に「渇き」を選んでると言う。ロンドンのパキスタン系少女を描いた「ベッカムに恋して」という映画(題名を見ただけでは判らないが、英国のパキスタン系家庭で生きる少女が女子サッカーに夢中になる佳作)でも、確かグル・ダットの映画が引用されていた。
「ボリウッド」(インド映画の中心地ボンベイ(現・ムンバイ)にハリウッドをかけて、そう言う)映画では、突然歌と踊りが画面を乱舞するのがお約束で、アクション映画でも恋愛映画でも社会派映画でもそれは皆同じ。ミュージカルと言ってもいいけれど、そういうジャンルがあるというより、一部の芸術映画を別にして、すべてがそうなっている。グル・ダットの映画も同じなんだけど、「渇き」は売れない詩人の映画ということで、歌の歌詞が素晴らしい。自作の詩を歌うという設定で、愛を歌い、社会を歌う。詩的な映画にして、社会的、哲学的な映画という稀有な映画体験ができる。素晴らしい詩とダンスというのは、見ていて実に快い。筋は案外簡単で、売れない詩人、心やさしい娼婦、捨てられた昔の恋人、金持ちの出版社の社長(昔の恋人の夫)と言ったタイプ分けとしては紋切型。でも、詩人役を監督グル・ダット本人がつとめ、彼を世界の中でただ一人評価してくれる娼婦グラーブ役のワヒーダー・ラフマーンが美しい。この映画のラフマーンは「聖なる娼婦」というタイプの代表を作ったと言える。そのあまりのはまり役に、現実世界で監督と「不倫関係」になってしまった。グル・ダットの苦悩の人生は、作品を生み出せなくなり、39歳にして自ら命を絶つことになった。しかし、この映画を見ればわかるが、詩人と娼婦、つまりはグル・ダットとラフマーンの恋は宿命的としか思えない。
愛を歌うロマンティックなムードにも満ちているが、それよりも階級社会において真実を守り通すことの難しさ、そして「自分」を利用されることへの激しい拒否が印象的である。「世界を燃やし尽くせ」と最後に歌う奇跡のようなシーンが素晴らしい。あらすじは他のサイトで見られるので書かないけど、筋立てを書いてもご都合主義にしか見えない。そういう娯楽映画の文法で書かれている。偶然に次ぐ偶然で、主人公は人々と出会い事件に巻き込まれる。しかし、そういう筋が大切なのではなく、歌に込められた詩的なメッセージが語る、人間の誇りへの思いがこの映画を傑作にしている。そういう意味で映画的快楽の本質とは何かと考えさせてくれる。
内田吐夢(とむ)監督「たそがれ酒場」(1955)も同じ日に見た。これも「歌謡映画」だった。こんな日本映画を見たことがないというような不思議な映画で、酒場に中二階みたいな歌を歌うコーナーがあって(この酒場のセットを作った美術がすごい。日本映画を支えた技術陣に目を見張る)、そこでリクエストに応じていろいろと歌ったり、レコードを掛ける。のど自慢大会もあれば、ストリップもやる。そんな酒場でグランドホテル形式でいろんな人々を描き分ける。歌謡曲だけでなく、革命歌からオペラまで出てくる。オペラは「カルメン」の「闘牛士の歌」。革命歌は「若者よ」で、西沢隆二(ぬやま・ひろし)がゾルゲ事件追悼集会のために書いた歌。製作された55年と言えば、「六全協」の年だが教授と学生と思われる一団が立ち上がって歌いだすと、東野英治郎演じる元軍人が止めろと怒鳴りだす。そういう、歌をめぐって社会の分裂をあぶりだす、珍しい趣向。内田吐夢と言う監督も、重厚な時代劇や大作「飢餓海峡」の印象が強くなってしまったが、異色作がたくさんあり再評価が必要。「若者よ」という歌は「日本の夜と霧」で印象的に使われているが、今読むとすごい歌詞である。「おけら」というサイトで聞くことができる。歌詞は次の通り。「若者よ 体を鍛えておけ 美しい心が たくましい体に からくも支えられる日が いつかは来る その日のために 体を鍛えておけ 若者よ」。その日って、革命に立ち上がる日のことで、革命のために体を鍛えろという意味だと解説しておかないと、今では判らないだろう。
日本でのインド映画はATGや岩波ホールでサタジット・レイをやるぐらいで、昔はほとんど見られなかった。その後アラヴィンダン「魔法使いのおじいさん」などが紹介され、98年には「ムトゥ 踊るマハラジャ」が日本でもヒットして、一時「マサラ・ムーヴィー」なんて言われた。最近はあまり公開されないし、インドそのものへの関心も昔より衰えているのかもしれない。グル・ダットは最近評価がものすごく高くなってきて、タイムズが世界映画100選に「渇き」を選んでると言う。ロンドンのパキスタン系少女を描いた「ベッカムに恋して」という映画(題名を見ただけでは判らないが、英国のパキスタン系家庭で生きる少女が女子サッカーに夢中になる佳作)でも、確かグル・ダットの映画が引用されていた。
「ボリウッド」(インド映画の中心地ボンベイ(現・ムンバイ)にハリウッドをかけて、そう言う)映画では、突然歌と踊りが画面を乱舞するのがお約束で、アクション映画でも恋愛映画でも社会派映画でもそれは皆同じ。ミュージカルと言ってもいいけれど、そういうジャンルがあるというより、一部の芸術映画を別にして、すべてがそうなっている。グル・ダットの映画も同じなんだけど、「渇き」は売れない詩人の映画ということで、歌の歌詞が素晴らしい。自作の詩を歌うという設定で、愛を歌い、社会を歌う。詩的な映画にして、社会的、哲学的な映画という稀有な映画体験ができる。素晴らしい詩とダンスというのは、見ていて実に快い。筋は案外簡単で、売れない詩人、心やさしい娼婦、捨てられた昔の恋人、金持ちの出版社の社長(昔の恋人の夫)と言ったタイプ分けとしては紋切型。でも、詩人役を監督グル・ダット本人がつとめ、彼を世界の中でただ一人評価してくれる娼婦グラーブ役のワヒーダー・ラフマーンが美しい。この映画のラフマーンは「聖なる娼婦」というタイプの代表を作ったと言える。そのあまりのはまり役に、現実世界で監督と「不倫関係」になってしまった。グル・ダットの苦悩の人生は、作品を生み出せなくなり、39歳にして自ら命を絶つことになった。しかし、この映画を見ればわかるが、詩人と娼婦、つまりはグル・ダットとラフマーンの恋は宿命的としか思えない。
愛を歌うロマンティックなムードにも満ちているが、それよりも階級社会において真実を守り通すことの難しさ、そして「自分」を利用されることへの激しい拒否が印象的である。「世界を燃やし尽くせ」と最後に歌う奇跡のようなシーンが素晴らしい。あらすじは他のサイトで見られるので書かないけど、筋立てを書いてもご都合主義にしか見えない。そういう娯楽映画の文法で書かれている。偶然に次ぐ偶然で、主人公は人々と出会い事件に巻き込まれる。しかし、そういう筋が大切なのではなく、歌に込められた詩的なメッセージが語る、人間の誇りへの思いがこの映画を傑作にしている。そういう意味で映画的快楽の本質とは何かと考えさせてくれる。
内田吐夢(とむ)監督「たそがれ酒場」(1955)も同じ日に見た。これも「歌謡映画」だった。こんな日本映画を見たことがないというような不思議な映画で、酒場に中二階みたいな歌を歌うコーナーがあって(この酒場のセットを作った美術がすごい。日本映画を支えた技術陣に目を見張る)、そこでリクエストに応じていろいろと歌ったり、レコードを掛ける。のど自慢大会もあれば、ストリップもやる。そんな酒場でグランドホテル形式でいろんな人々を描き分ける。歌謡曲だけでなく、革命歌からオペラまで出てくる。オペラは「カルメン」の「闘牛士の歌」。革命歌は「若者よ」で、西沢隆二(ぬやま・ひろし)がゾルゲ事件追悼集会のために書いた歌。製作された55年と言えば、「六全協」の年だが教授と学生と思われる一団が立ち上がって歌いだすと、東野英治郎演じる元軍人が止めろと怒鳴りだす。そういう、歌をめぐって社会の分裂をあぶりだす、珍しい趣向。内田吐夢と言う監督も、重厚な時代劇や大作「飢餓海峡」の印象が強くなってしまったが、異色作がたくさんあり再評価が必要。「若者よ」という歌は「日本の夜と霧」で印象的に使われているが、今読むとすごい歌詞である。「おけら」というサイトで聞くことができる。歌詞は次の通り。「若者よ 体を鍛えておけ 美しい心が たくましい体に からくも支えられる日が いつかは来る その日のために 体を鍛えておけ 若者よ」。その日って、革命に立ち上がる日のことで、革命のために体を鍛えろという意味だと解説しておかないと、今では判らないだろう。