尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大村智博士の偉大なる業績

2015年12月10日 01時29分21秒 | 社会(世の中の出来事)
 2015年の「ノーベル医学・生理学賞」(この呼称については後述)を受賞した北里大学特別栄誉教授の大村智博士という人は、現代日本には稀な巨大なる偉人だと思う。多くの人がそう思ってるだろうが、改めて書いておきたい。その授賞理由に挙げられた「イベルメクチン」による「オンコセルカ症」(河川盲目症)治療については、一年に2億とも3億とも言われる人々の役立っているという。オンコセルカ症は2025年までに、またリンパ系フィラリア(象皮症)は2020年までに、「公衆衛生上の問題ではなくなる」と大村博士はノーベル賞講演会で述べた。このイベルメクチン投与療法が始まって25年を記念して、北里大学には彫刻が建てられている。ということで、過日彫刻を見に行ってみた。
   
 この彫刻は2005年に建てられたもので、台座の文章を見ると「アベルメクチン」と表記されている。ウィキペディアによると、アフリカのブルキナファソの彫刻家による「オンコセルカ症の大人を導く子供の像」である。同様の彫刻が、WHOやブルキナファソにあるWHOオンコセルカ症制圧プログラム、製薬会社のメルク社などに建てられているそうだ。北里大学はどこにあるか僕も知らなかったけど、東京都港区の白金にある。地下鉄白金高輪から徒歩15分くらい。あるいは渋谷と田町を結ぶバスが大学前に停まる。今、大学は工事をしていたが、交番の横を曲がっていくのが一番この彫刻には近いと思う。大学前の壁には大きく受賞の幕が掲げられ、道にも受賞を喜ぶ垂れ幕が下がっていた。
  
 日本人2氏ノーベル賞のニュースを聞いたのは、函館の旅行中だった。特に大村博士のニュースは、当初は北里大学から中継していたが、その後「大村氏に関係した美術館から中継します」と変わった。いやあ、この大村さんという人は、なんと美術館を建ててしまったのだとか。次の日の新聞を見たら、そこには温泉もあるんだとか。(「韮崎大村美術館」と「武田乃里 白山温泉」のサイト参照。ちなみにこの温泉は源泉掛け流しの日帰り温泉で、なんと蕎麦屋まで出来ている。)さらに、大学院に行く前は都立の定時制高校の教諭(都立墨田工業)だったという。驚くような話がどんどん伝わってきた。

 僕はこの大村智という人を知らなかった。知ってましたか?知ってても全然不思議ではなかった。何故ならば、2012年の文化功労者に選ばれていたから。あるいは、2014年度の朝日賞にも選ばれていたから。さらにちょうど一年ほど前の東京新聞に大きく報道されていたから。これを全部読み逃したとは思えない。たぶん読んで、その時はすごい学者がいると思っても、そこで忘れてしまったのだろう。そういう記事はエライ学者の紹介というトーンだし、美術への貢献はほとんど触れていない。アフリカでどんなに多くの人々を救って来たかという関心も伝わらない。こういう他分野の人の業績は新聞やテレビが伝えないと、なかなか僕たちは知らないことになる。でも、国際、科学、文化、社会などマスコミでも多くの分野にまたがって活躍した人は、なかなか全体像を伝えにくいんだろうと思う。

 今、美術への貢献と書いたけど、これは単に美術館を開いたというだけの事ではない。特に「女性画家」に関心を持ち、女子美術大学の理事長を2期務めている。さらに病院にも多くの絵を飾っているとのことで、単に特許料が入ったから絵のコレクターになったと言うだけでは済まない情熱ぶりである。もともと山梨大学の学生時代はスキー部と卓球部の主将で、国体選手。墨田工業定時制教諭時代も、卓球部を都大会準優勝に導いたという。「知育」「体育」「徳育」というけれど、これに「美育」がなくてはならないと昔言われた思い出がある。大村博士ほど、この「4つの力」を兼ね備えた人も珍しい。これほどの「巨人」が同時代の日本にいたことを知らなかったなんて…。

 ところで、僕が一番感心してしまったのは、以上の事柄ではない。科学者として成功しながら、芸術にも深い造詣を持つという人は他にもいただろう。でも、経営が悪化していた北里大学を救うため、大学教授を辞め、北里研究所理事となり、経営学と不動産学を学び、経営基盤を作り上げたのである。この話には心底ビックリした。並みの人ではないと知りながら、これほどの事は普通できない。巨額の特許料が入れば、自分も美術館を作るかもしれないが、自ら学園の経営者になるとは思えないし、それで成功できるとも思えない。この大村智という人物は、まことにけた外れのスケールの人物のように思われてならないが、多分「運と努力」でなしとげたとご本人は言うのだろう。

 ところで、この人を調べていて驚くことはさまざまあったのだが、オンコセルカ症とはつまり「フィラリア」なのである。フィラリアとは寄生虫の一種の総称で、その中にオンコセルカ症や象皮症がある。ところで、もともとイベルメクチンとは牛の寄生虫に対する薬だった。(世の中にいいことばかりはなく、イベルメクチンを与え過ぎ残留濃度が高い牛肉は規制の対象になるらしい。)その薬が十分の利益を上げたので、アフリカでの活動に関しては米メルク社が無償で配布しているわけである。ところで、フィラリアって言えば昔は犬の病気だった。昔の犬はよく病気ですぐに死んでしまった。昔飼っていた犬もフィラリアで死んだ。「犬糸状虫症」が正式名だという。最近は犬も長生きして、フィラリアで死ぬ犬なんかいないなあと思っていたのだが、それもイベルメクチンの恩恵なのだった。そうだったんだ。

 さて、そもそも「定時制教員をしながら大学院へ通う」ということは、今では許されない。(通信制や出張派遣による場合は別だが。)夜しか授業がないんだから、昼は大学院へ通えば生徒のためにもなるだろうというのは、今では「職務専念義務違反」と言われてしまう。処分の対象である。そもそも、「全定併置」はよろしくないというのが都教委の考えだというのは、ちょっと前に書いた通り。三部制の教員は「朝から夕方」「昼から夜」の2タイプの勤務になるから、当然のこととして夜勤務の教員も昼間も授業がある。かくして、大村先生のような人は二度と出ない。残念ながら、今の日本では。

 ところで、最初に触れた呼称の問題。朝日、毎日、東京などは「医学生理学賞」と書くけど、読売と日経は「生理学・医学賞」と書いているんだそうだ。(東京新聞12.8による。)原文をみると、“The Nobel Prize in Physiology or Medhicine"なんだそうだ。つまり訳すと「生理学」が先の方が正しい。だけど、「フィジオロジー」と言ってもよく判らない。ある種の「意訳」で「医学生理学賞」としてきたらしい。確かに日本ではこの方が判りやすいのも否めない。ここでも一応「医学生理学賞」としておく次第。
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橋口亮輔監督の映画「恋人たち」

2015年12月08日 21時53分24秒 | 映画 (新作日本映画)
 橋口亮輔監督の7年ぶりの映画「恋人たち」が公開中。傑作とただ評するには「イタすぎ」の映画かもしれないが、現代日本に生きる人間の心の闇を直視できないほど見つめている。

 ほとんど知っている俳優は出ていなくて、若い俳優が主要な役を演じている。一番大きな役は、橋梁検査、つまり首都高なんかの橋げたの安全性をトントンたたいて検査する青年(篠原篤)。ちょっと「暗い」と評されるほど、人との付き合いがなく、精神的にも不安定な感じがするが、非常に重い過去を抱えていることが判ってくる。映画評で書かれているから、ここでも書いておくが、3年前に「通り魔事件」で妻を失ったのである。彼は犯人を殺したいけど、それはできない以上何かできないかと損害賠償裁判を考えている。相談している弁護士四ノ宮(池田良)はゲイで、彼もいろいろ抱えている。今の「相方」は去って行こうとし、昔から好きだった友人には誤解されてしまう。

 一方、郊外の弁当屋に勤める主婦瞳子(成嶋瞳子)は、心のつながりのない夫、姑と暮らすが、皇室の追っかけと誰も読んでくれないマンガや小説書きが心の拠り所。ある日、職場に肉を下す取引先の男が、路上で鶏を追いかけている時に偶然出会い、日常を超える世界が広がる。この男とつながりがあるスナックのマダムは、自称「準ミス」で「美人水」と名付けた怪しい水を売っている。先の橋梁検査の会社に勤めてる若い社員が、この「美人水」に引っかかっていることで、これらの人々はわずかなつながりがあるが、映画ではほぼ無関係に三つのエピソードが並列して描かれている。

 あまりにも絶望的な、どうしようもないような「もがき」に苦しんでいる人々ばかりが出てくる。調子のいいことを言っている人は、皆いい加減さが暴かれる。被害者かと思えば、そういう人も別の側面では加害者になったりもしている。そういう複合的な視点で描かれているが、だからこそ観客は単なる絶望をうたうこともできない。救いのような展開はやって来ないので、それが現実の人生ではあるが、後味は苦い。だけど、ここには確かに「今の日本」があり、見逃してはいけない。「こんなクソみたいな日本で、オリンピックを開くなんて言われても、オレは全く乗れないですよ」と言ったことを橋梁検査技師が言うシーンがある。そういう風に思っている人々の物語である。

 橋口亮輔(1962~)は、ぴあフィルムフェスティバルで評価され、1993年の「二十歳の微熱」で長編デビューした。この時にゲイであることを公表している。1995年の「渚のシンドバッド」はロッテルダム映画祭グランプリ、キネ旬10位と若手監督の印象的な仕事だった。その後は、「ハッシュ!」(2001)、「ぐるりのこと。」(2008)とキネ旬2位の名作を発表し、これが長編5作目。寡作と言えるが、病気などもあったようだ。同性愛や精神疾患など、内容も重くて大変な映画になっているが、同時に人間の力も印象的だった。今度の「恋人たち」の方が、題名は優しい映画を思わせるが、中味は重い。だけど、ここで描かれる現実を受け止めるのはなかなか大変。でも、人間観察は確かで最後までじっくり見てしまう。そういう映画で、これもまた現代日本映画の達成だろう。
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韓国映画の50年代

2015年12月07日 23時40分27秒 |  〃  (旧作外国映画)
 フィルムセンターで「日韓国交正常化50周年 韓国映画1934-1959 創造と開花」という特集が行われている。今まで紹介されてきた韓国映画は、70年代以降が中心で、少し60年代のものが見られた程度だった。だから、今回50年代にさかのぼって、李承晩(イ・スンマン)時代の映画が見られるというのは、韓国文化に、あるいは韓国映画に関心がある人には非常に貴重な機会である。だけど、まあ映画史、あるいは韓国現代史に関心が深い人以外には、あまり興味もないだろうと思い、事前告知の記事は書いてない。「国交正常化50周年」という節目の年だけど、そもそも日韓条約締結時にも祝福されたわけでもなかったし、今年の50周年も政治状況のあおりを受けて全然盛り上がりに欠けていると思う。が、こういうレアな映画を見て、映画を通して隣国をより深く知りたいと思う。

 一日2回上映なので、とても全部見ることはできないのだが、中では巨匠・申相玉(シン・サンオク、1926~2006)の作品が4本ある。とりあえずこれは見たいなと思った。今のところ3本見たけど、どれも興味深い映画だった。この監督作品は、今までの韓国映画特集で何本か紹介されているが、「離れの客とお母さん」(1961)の傑作ぶりには非常に驚いた。同年の「常緑樹」(サンノクス)は原作が有名だが、映画の出来もなかなかだったと思う。韓国映画は70年代頃から時々日本で見られるようになったけど、「過度に感傷的」だったり、「テンポが遅い」といった、大昔の日本映画によく言われた問題が、同じように昔の韓国映画にはつきまとっていた。しかし、「離れの客とお母さん」などは、抑制された感情描写が心に残る映画で、また主演にして妻である崔銀姫(チェ・ウニ)の圧倒的な存在感も印象的だった。申相玉=崔銀姫のカップルは、フェデリコ・フェリーニ=ジュリエッタ・マシーナに匹敵するような映画史的重要性を持っていると思う。

 「同心草」「姉妹の花園」(共に1959)は崔銀姫が主演する典型的な大メロドラマで、展開は紋切型なんだけど、一度見始めると最後まで目を離せない。それは昔のソウルの様子が興味深いということでもあるが、メロドラマの作り方がうまいのである。「同心草」は「離れの客とお客さん」と同じように、「二夫にまみえず」といった儒教的道徳観に縛られて幸福になれない未亡人を描いている。朝鮮戦争後のことだから、これは切実な社会問題でもあった。同時代の日本でも似たような事情はあり、「戦争未亡人」がどう生きるかということは、「東京物語」他のさまざまな映画で扱われてきた。韓国の方がより社会的な規範が強く、非常につらい思いを耐え忍ぶ映画になる。日本で言えば「母もの」というジャンルに似ている。この映画では娘が大学生で、理解を示すのに、母は踏み切れない。今は使われない旧ソウル駅2階の食堂がうまく使われていて、とても懐かしかった。

 「姉妹の花園」では、医学者である父が亡くなり、借金を抱えて苦労する子ども達の物語である。長姉である崔銀姫は義理ある社長に請われて、料亭のマダムとなる。そもそも有産階級の女性が働くこと自体に抵抗感がある時代である。それが一挙に、酒を出す場所で男の相手をするというのだから、経営者だと言っても、これは「没落」だという意識がある。その前に姉妹をめぐる男たちの食い違い物語があって、一切悪人は出てこないから、多分こうなるだろうという方向で進展するけど、なかなか目を離せない。メロドラマの典型というしかないけど、当時の韓国社会の意識や状況をうかがう意味でも面白い。伝統的な家が立ち並ぶ街並みや、消失前の南大門(2008年に放火で焼失、2013年再建)など当時のソウル風景が楽しめる。弟役で当時7歳の天才子役時代のアン・ソンギが出ている。

 一方、1958年の「地獄花」は、日本でも同じような映画が無数に作られた「戦後の堕落」映画である。地方から出てきた兄が行方不明で、弟が探して連れ戻そうとやってくる。しかし、ソウルに来た途端にスリで財産をなくす。苦労しながら、やっと兄を見つけたら、兄は犯罪グループにいて、米軍相手の娼婦とつきあっていた。この娼婦が崔銀姫で、弟を誘惑したりして非常に印象的な名演。「肉体の門」など日本でも似たような設定があるが、「都会と田舎」という対比がこの時代の韓国ではまだ生きている。朝鮮戦争後の時代相を伝えるロケも貴重で、一種の「焼け跡闇市」映画でもある。比較映画史的にとても興味深いと思う。もう一本の「ある女子大生の告白」(1958)とともに、あと一回の上映がある。

 さて、一応書いておくが、後にこの二人は離婚することになるが、1978年に香港にいた崔銀姫が行方不明となる。その後、探しに訪れた申相玉も行方不明となり、大問題となったが二人は北朝鮮に現れ「自主的な亡命」と発言した。北でも映画を作り、ハーグ密使事件を描く「帰らざる密使」はどこかの映画祭で受賞して、日本でも自主公開運動があった。(僕は見ているが、非情な力作には違いない。)後に有名となる北朝鮮初の怪獣映画「プルガサリ」の製作にも関わったとされる。ところが、このようにして映画製作を通じて、指導部の信用を得ることにより、ウィーンに来た機会をとらえてアメリカ大使館に亡命した。後に著した「闇からの谺」(文春文庫にあり、容易に入手可能)を読むと、香港での失踪は「金正日の指令による拉致」だったことは間違いない。1988年に出た単行本の翻訳を読み、当時すでに大韓航空機爆破事件(1987年)が起きていたわけだが、朝鮮労働党による権力犯罪の恐ろしさを痛感した。その後、再婚しているが、この監督・女優カップルほど、映画史上もっとも過酷な運命にもてあそばれた人はいないのではないか。もっとも、映画マニアだったという金正日が拉致したくなるほどの、韓国映画の黄金カップルだった様子を50年代の映画に垣間見ることができる。

 後は簡単にするが、「自由夫人」(1956)は大ヒットしたというメロドラマで、女性が職業を持ち「堕落」していくさまを描くのが、韓国の時代相の中で描かれる。「ソウルの休日」(1956)はソウルの一日をロマンティック・コメディで描くが、ロケが非常に楽しい。50年代のソウル風景が非常に興味深い。「陽山道」(1955)は「怪物」キム・ギヨンの第2作で、人間の悪と欲望を描く時代劇。確かに他の監督と印象が異なっている。朝鮮総督府が作った映画まで「韓国映画」のカテゴリーに入れていいのか、僕は判らないが、日本統治下の映画はまだ見ていない。断片しか残っていない「君と僕」の上映もある。日夏英太郎とクレジットされているが、本名は許泳(ホ・ヨン)で、戦後はインドネシアで「フユン」の名で「天と地の間に」(1951)を撮り、1952年に亡くなった人である。その他、「8・15」と「6・25」の間に作られた映画も2本上映されるが、見ていない。全部はとても見ていられないが、関心のある人もいるかと思い、紹介。昨日書いた訃報特集の中で、キム・ヨンサムを別に書くと書いたけど、映画の方を先に書いた。
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北の湖、水木しげる、川崎敬三、加藤治子等ー2015年11月の訃報

2015年12月06日 22時51分11秒 | 追悼
 新聞の一面に訃報が載るのは、およそ月に一回程度だろうと思う。でも11月後半ほど、重要な訃報が相次いだのも最近になかった。大相撲の北の湖理事長(62歳)が20日。これは本場所中なんだから、本当にビックリした。続いて、22日に金泳三(キム・ヨンサム)韓国元大統領(87歳)。さらに25日には、9月5日に原節子(95歳)が亡くなっていたと報じられた。最後に30日、漫画家の水木しげる(93歳)が亡くなった。わずか10ばかりの間に4人もの訃報が一面に掲載された。ところで、これらの人は後で触れたいと思う。そこまで大きく取り上げられなかった訃報こそ、思い出し記憶しておきたいから。
  
 僕が驚いたのは、川崎敬三(7.21没、82歳)の訃報で、あれほど有名だった人が死んでも家族以外には数カ月も知られなかった。芸能人などの場合、引退後はあえて知らせない人が多くなっていくのではないか。新聞では「アフタヌーンショー」ばかり取り上げられるが、テレビドラマや映画で様々な活躍をした。大映の俳優だったから、山本富士子や若尾文子の相手役として、今もスクリーンでいつでも見られる。(年末に角川シネマ新宿で行われる若尾文子映画祭でも数本見られる。)でも、あくの強い田宮二郎なんかに負けている、気の弱い坊ちゃん役などが多いのは、残念といえば残念。でも、その人柄がテレビの司会で生きたわけだ。当時は誰でも知ってた人なんだけど…。

 俳優では、テレビのホームドラマに欠かせなかった加藤治子(11.2没、92歳)が亡くなった。この人の「加藤」姓は「なよたけ」などで知られる劇作家加藤道夫なのだから、ちょっと驚く。その後、高橋昌也と結婚、離婚。今調べたら、SKD(松竹歌劇団)出身で、戦後は文学座に参加、1963年の分裂時に「雲」に行ったメンバーだった。また、阿藤快(11.16没、69歳)の急逝にはビックリした人も多いだろう。映画やテレビでずいぶん見ていると思うけど、NHK土曜深夜の「ケータイ大喜利」のゲストに来たときは面白かったなあ。原節子の訃報は別に書いたから繰り返さないが、原節子、加藤治子と比べると、阿藤快は今では若すぎる死だなあ。
 
 作家、学者、著述業などでは、時代小説家の宇江佐真理(11.7没、66歳)は読んでないけど、直木賞候補に6回なったと書いてある。漫画「家栽の人」の原作者、毛利甚八(11.21没、57歳)は若すぎる。少年事件の更生などの問題では、社会的発言も行い、実際の家庭裁判所関係者にも影響を与えたと言われる。ノンフィクション「言語の海へ」「木に会う」などで知られる高田宏(11.24没、83歳)は、フリーになる前には、エッソ石油の「エナジー対話」編集者で、多くの学際的交流を行い注目された。

 学者では、中国文学者の一海知義(いっかい・ともよし、11.15没、86歳)は、陶淵明などの研究で知られ、岩波新書もずいぶん書いていたと思うが読んだかどうだか。秋山虔(けん、11.18没、91歳)は「源氏物語」研究の第一人者だった人。文化功労者だが、なぜ文化勲章ではないのだろう。岩波新書の「源氏物語」は紛れもない名著で、これを読んで初めて源氏が判った気がした。南インド史研究の第一人者で文化功労者の辛島昇(11.26没、82歳)はカレー研究でも知られ、貴子夫人との共著のカレー本もある。岩波ジュニア新書の「インド・カレー紀行」を読んでる人もいるのではないか。

 海外に目を向けると、ドイツ元首相ヘルムート・シュミット(11.10没、96歳)が亡くなった。社会民主党(SPD)の活動家として頭角を現し、ブラント政権で国防相、財務相などを歴任し、1974年のスパイ事件でのブラント辞任を受けて、第5代首相(当時は西ドイツ)に就任した。1982年まで務めたが、その後はコール、シュレーダー、メルケルと30年以上たつけど、3人しか首相がいない。ドイツはどうしてこれほど長期の首相在任が可能なのか。あるいは国民が同じ首相にガマンできるのか。不思議なことである。この当時のSPDは、自由民主党(FDP)との連立だったけど、シュミット政権下で両党の関係が悪化し、連立が崩壊した。FDPはキリスト教民主党との連立に踏み切りコール政権が成立した。1998年にSPDは緑の党との連立でシュレーダー政権が誕生する。そういう経緯はともかく、シュミット時代には独仏協力を進めるとともに、「極左テロ」に厳しく対処した。ソマリアで起きたドイツ赤軍によるハイジャック事件で特殊部隊を突入させた。いわゆる「ドイツの秋」の時の首相なのである。

 さて、水木しげるだが、漫画界初の文化勲章があるとしたら、この人だと思っていたので残念な気がする。まあ、年齢的には仕方ないけど。以前、鳥取県の境港に行ったときに、水木しげる関係でいろいろ作られていて盛り上がっていた。「ゲゲゲの鬼太郎」ぐらいは知っているが、僕は妖怪全般には詳しくない。あまり関心がないという方が当たっている。だから、あまりマンガの方では語れないのだが、「戦争障がい者」としての、あるいは「戦争をマンガで伝える」という意味での貢献は非常に大きい。東京、九段下にある戦傷病者史料館「しょうけい館」では、水木しげるの常設展示を行っている。ここには生徒を引率して行ったこともあるけど、無料施設でもあり、教育関係者はもっと利用して欲しいなあ。

 韓国のキム・ヨンサム元大統領のことは書きだすと長くなるから別にしたい。最後に、元横綱、日本相撲協会理事長の「北の湖」(きたのうみ)理事長。相撲取りのしこ名の読み方は独特なものがある。今も「日馬富士」(はるまふじ)というのは、知らないと読めない。僕は大昔に深夜放送を聞いていて、南こうせつがニュースを読むコーナーで、「本日の大相撲の結果です。「きたのみずうみ」が○○に勝ち」と読み上げていたのを覚えている。北の湖は大横綱である。最年少の21歳2か月で横綱に昇進し、この記録は今後も破られないだろう。各紙は「憎らしいほど強かった」と見出しを付けたが、本当に当時はそう言われたのである。つまり、強すぎたのが逆に相撲人気を盛り下げるぐらいに。ウルフ千代の富士や角界のプリンス貴乃花などと違って、国民的人気ものという存在ではなかった。優勝回数24回は「歴代5位」と言われるが、もちろんその通りなんだけど、当時は圧倒的な大鵬の32回に次ぐ第2位の記録である。後に千代の富士(31回)や朝青竜(25回)、そして白鵬(2015.11現在、35回)に抜かれるが、優勝は「相対評価」だから、一人横綱が長い朝青竜や白鵬が多くなるのは当然。北の湖の次が、貴乃花(22回)、輪島(14回)、双葉山、武蔵丸(12回)、曙(11回)と続く。同時代に輪島がいたから、北の湖の優勝回数はこのぐらいだったけど、印象ではもっと強い。だけど、あんまり面白くないわけである。理事長時代のことは評価が難しいが、公傷制度の廃止はどうなんだろうと思っているのだが。
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信州の温泉の思い出

2015年12月05日 23時55分57秒 |  〃 (温泉)
 函館旅行の後で、北海道の山と温泉の話を書いたので、今度は信州の温泉の話をちょっと。山の話はなし。そりゃあ、まあ穂高や乗鞍ぐらいは行ってるけど、実はあまり北アルプスに登ってないのである。何でかというと、縦走が主になるから車で行くのが面倒なのである。東北の方の「車で行って、登って下りると温泉」みたいなところのほうが好きなんだなあ。

 信州には素晴らしい温泉街を持つところがあるが、それより僕にとってベスト級の「山の秘湯」がある。それは「中房温泉」と「高峰温泉」である。中房温泉は、北アルプスの燕岳(つばくろ)の登り口1400mの地点にある一軒宿。夏に行くと、涼しくて気持ちがいい。とにかく泉質が素晴らしくて、お風呂もありすぎるぐらいある。至福である。冷たい水に胡瓜が冷やしてあって、味噌もあってご自由になどとある。裏の方の山に登ると、一番上で自分で食べ物を焼いて食べられる。地熱で蒸すのである。卵や肉なんかをフロントで売っている。この温泉の素晴らしさは言葉では表現できない。

 高峰温泉は小諸から浅間山の方にどんどん登って行き、2000mの高度にある温泉。日本屈指の高所温泉だろう。ここも温泉が素晴らしい。特に露天風呂は日本最高の展望と言っていい。食事などもいいけど、その後に星の観察会や野生動物の観察も楽しい。星空の素晴らしさは秘湯の楽しみの一つで、中房温泉も素晴らしかったけど、高峰温泉では宿で天体望遠鏡を持っている。野生のタヌキの餌つけもしていて、それも面白い。充実した宿だけど、人気でなかなか取れない。

 秘湯系では、これも人気で予約が取れない仙仁温泉などは行ってない。猿の入浴で有名な地獄谷温泉なんかも。もっと大きな温泉では、僕がよく行くのは、別所温泉。付近の文化財が素晴らしく、国宝、重文めぐりが楽しい。上田から電車でも行けるのもいい。窪島誠一郎さんが作った信濃デッサン館、その後作った戦没画学生追悼の「無言館」も何回か行っている。特に宿は決め手がなく、だから5つぐらい別の旅館に泊まっている。(高いけど「花屋」が一番かなと思う。)近くの沓掛温泉霊泉寺温泉鹿教湯(かけゆ)温泉などに泊ったこともある。この地域は秋にはマツタケが出るところで、沓掛温泉で秘湯の会に入っている「おもとや」で松茸コースで泊ったのは、思い出。あんなにマツタケ贅沢をすることも二度とないだろうなあ。「信州の鎌倉」と言われる別所は一度は行くべき温泉。

 温泉街といえば、北信の「湯田中・渋温泉郷」はすごい。特に、渋温泉の「歴史の宿・金具屋」は有名。外見もすごいし、ローマ風呂の写真もよく見る。実際に泊ってみると、安い部屋は高いところでエレベーターはないから大変で、料理もちょっと濃い味かなあなどと思ったりもした。でも、ここは外湯めぐりが名物で、それは是非体験しておきたい「日本遺産」のようなものだと思う。湯田中温泉の「よろづや」なども有名だが僕はまだ泊ってない。この温泉郷には他にもいろいろあるが、上林温泉の「仙壽閣」という長野電鉄がやってる旅館は、高いんだけど、お湯がすごい。ここほど豪勢にお湯がまさに滝のように出ている(風呂の壁からまさに滝となってごうごうと流れ落ちている)のは、ちょっと他にない。
 
 野沢温泉も素晴らしい温泉で、僕が泊った「さかや」のお風呂も有名。他にも信州にはいっぱいあるが、松本の浅間温泉は行ってない。近くの美ヶ原温泉は行ってるけど。そこから上高地、乗鞍の方に行くと有名な温泉がいろいろある。例えば、「大菩薩峠」に龍神温泉(和歌山)とともに印象的に登場する「白骨(しらほね)温泉」。「湯元斎藤旅館」に泊っている。乗鞍高原温泉もあるし、奈川温泉は透明な湯が素晴らしい。「中の湯」に行ってないのが残念。下の写真は「さかや」。

 もっと北に行くと、小谷(おたり)温泉があり、湯元の山田旅館に行ってるが、いやあお湯が熱い。信州の真ん中あたりには諏訪湖の周囲にいっぱいある。上諏訪温泉下諏訪温泉で、どちらも行ってるが、ここで一番は立ち寄り湯の「片倉館」だろう。製糸女工のために作られた千人風呂がある。ここも一度は行きたいところ。国の重要文化財に指定されている。ところで、下諏訪からちょっと行ったところに「毒沢鉱泉 神乃湯」という日本で一番すごい名前の温泉宿がある。行ってみると判るけど、確かに「毒」であり「神」である。湯量の少ない鉱泉(低温泉)なので、加熱循環であるが、確かに泉質は素晴らしい(と思う。)ここほど「飲んでまずい」温泉も珍しいけど、ここに連泊した冬は風邪をひかなかった。湯が似たような感じなのは、佐久の「初谷(しょや)温泉」。ここも飲むとまずい源泉を温めている。どっちも秘湯の会に入っている宿。

 南信の方は行ってないし、最近出たお湯が多い。でも、各地に鉱泉宿のようなものはいっぱいあるようだ。昔、木曽の方を旅行した時に「灰沢鉱泉」というほとんど知られていない宿に泊ったことがある。料理もおいしいし、とても満足したけど、夏休み期間というのに僕ら夫婦しか泊ってない感じだった。古びた建物に誰もいないのも、ムードというかちょっと怖いものである。志賀高原や高山温泉郷と言ってる奥山田温泉、五色温泉など、あるいは新潟の方から行く秋山郷など、また泊ってないところも多い。秘湯を回っていると、今回行った戸倉上山田温泉は後回しになったけど、書いたようにお湯の出方は素晴らしかった。温泉は何と言っても、まずお湯である。中房温泉や高峰温泉にまた行ってみたいなあ。
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姨捨と五稜郭-信州旅行②

2015年12月03日 23時15分52秒 |  〃 (温泉)
 2か月ほど前に函館に旅行したが、函館といえば「夜景」と「五稜郭」だろう。ということで、今回の長野県でも「夜景」と「五稜郭」に行ってみようかと思った。「夜景」は「姨捨」(おばすて)である。戸倉上山田温泉から車で少し行くとJRの「姨捨駅」(篠ノ井線)がある。また、その近くに高速道路の姨捨サービスエリアがある。そう言えば、昔車で寄ったことがあり、展望もいいし、伝説の里だと書いてあった。

 さて、ガイド本を読むと、姨捨駅や近所の長楽寺が観光の拠点で、そこらへんが「さらしなの里」と言われ、棚田が有名とある。不勉強なことに謡曲にある伝説などといわれても、よく判らない。とりあえず温泉を通り過ぎ、駅を見つけてみるか。ちょっと棚田に入り込んで苦労したが、駅近くに駐車場があるのに気付かず、下って長楽寺へ。そこが棚田を持っていて、棚田に張られた水に月が映る「田毎の月(たごとのつき)」には西行が来て、芭蕉が来た。名月の里で、名勝「姨捨(田毎の月)」重要文化的景観「姨捨の棚田」に指定されている。はあ、そうですか、不勉強で、よく知らなかった。
   
 長楽寺にある「姨石(おばいし)」が最初の写真で、これも有名らしい。そこに登ったのが3枚目。そこからの眺めが4枚目。棚田が遠くに見えるが、今の時期だとよく判らない。寺の境内には、主に俳句の碑がいっぱいで、これだけ碑が並ぶ寺も少ないだろう。ここからは月を見るのがいいらしい。場所も判ったから、夜にもう一回来るぞと思ったんだけど、なんだか疲れていて、夕食時に地元の酒「姨捨正宗」を飲んでしまったので、今回はなし。また来て、夜景はその時に見に来よう。

 次の日に姨捨駅を再訪。ここはスイッチバックが見られる駅として有名だという。中へ入るには入場券がいるのかと思ったら、無人駅で自由に入れた。さらにホームの端から外に出られた。展望はさすがにいい。列車も来たから、スイッチバックはしてたけど、まあじっくり見て写真を撮るほどでもないのは、そこまで鉄道ファンではないわけ。ホームから降りて、姨捨公園に向かう。
   
 姨捨公園は長楽寺近くから案内があったけど、前日は行かなかった。むしろ駅から歩いて行くところだろう。大正時代に出来た公園で、「東宮」が来た碑(下の1枚目)があった。この東宮(皇太子)というのは昭和天皇のことだ。「東宮妃良子(ながこ)親王」の碑(下の2枚目)もあったが、これは昭和天皇の皇后のこと。ずいぶん昔の碑だ。ここも夜景の名所だという。「姨捨」の語源も諸説あるようだが、直接には「棄老」の話でもないようだ。楢山節がここかと思いかねないが、ここでは里山で簡単に降りて来てしまえる。「姨」も母ではないという。伯母さんだとか。「大和物語」以来いろいろな本にあるというけど、不勉強でよく知らないなあ。今回は棚田をちゃんと見てないので、今度また来よう。
  
 小諸でそばを食べようと思って、急いで出かけたが、ちょうど定休日だった。うーん、調べてくるんだった。結局、佐久まで来てしまってデニーズに入ったのはバカみたい。佐久に来たのは、佐久市の南部に「龍岡城」という城跡があるのである。JRの駅名にもなっている。そこは日本で二つしかない五稜郭である。えっ、函館の他に五稜郭があったのか。全然知らない人が多いでしょ。僕も最近知ったのである。もっともほとんど意味がない城だった。1863年に建設を始め、1866年にほぼ完成したという。作ったのは松平乗謨(のりかた)という大名だが、ここが本拠地ではない。三河に領地があり佐久は分領だったが、なぜかこっちに五稜郭を作った。この人物は三河の松平家の分家の一つ、大給(おぎゅう)家の殿様で、幕末に陸軍奉行、老中まで行ったので、幕末史に少し名が出てくる。外国の軍事に関心があったから、こういう星形城を作ったわけだけど、ここには五稜郭タワーがないから、ほんとに五角形かどうか判らない。案内図を見ると、以下の通り。
   
 桜の名所だというから、いつかまた来てみたい。松平乗謨(1838~1910)は、幕末にはまだ20代で、長い後半生がある。大給恒(おぎゅう・ゆずる)と改名し、赤十字の前身・博愛社の創設に貢献した他、賞勲局総裁として日本の勲章制度確立に功があった。1万6千石の小藩主だったから、本来は華族の等級で4番目の子爵だったが、伯爵に上った。銅像があったけど、写真は撮らなかった。その後、一般道を下仁田まで通って、下仁田ネギを買って帰った。これは煮物鍋物に抜群の太いネギで、関東の冬には欠かせない。時々年末に群馬、長野に行ったときに買ってくる。高速だと藤岡ハイウェイオアシスでいっぱい並んでると思うが、今回は道の駅下仁田で野菜を買って帰った。
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戸倉上山田温泉のフシギ-信州旅行①

2015年12月02日 23時53分17秒 |  〃 (温泉)
 11月30日から一泊で、長野県の戸倉上山田温泉に旅行。信州は関東近辺では群馬と並び有数の湯どころで、長い間にはそれなりに訪れているが、戸倉上山田温泉は初めて。どこにあるかというと、上田と長野の間あたり、千曲(ちくま)市である。千曲市と言ってもどこだと思うのだが、2003年に更埴市と戸倉町、上山田町が合併した。10年以上たっているけど、古い地名じゃないと判らない。今、書いたように地名としては、「戸倉」(とぐら)と「上山田」(かみやまだ)は違っているが、温泉は両町にまたがってずっと出ているから、並べて「戸倉上山田温泉」と言われる。

 信州には稀なる「歓楽街」があるという温泉で、大旅館が多い。開湯は明治末。有名温泉としては新しく、善光寺参りの団体客目当ての「近代的旅行」向きの温泉となった。今でも「芸妓」を呼べる温泉で、今まで部屋の案内に「コンパニオン」の料金が出ている宿は少しあったけど、芸者さんの料金が書いてあるところは珍しい。こういうところは、最近の温泉案内書にはあまり出ていない。信州には秘湯の名湯が多く、また野沢、湯田中・渋、別所、白骨など名だたる温泉郷があるので、戸倉上山田は抜かされてしまう。でも、湯量が豊富で多くの大旅館も大体が源泉掛け流しのうえ、温泉街にレトロな風情があるという話を聞いて、いずれ行きたいと思ってきたのである。

 まず、旅館のお風呂。1901年創業と一番早いという「亀屋本店」というところである。早めについて、貸し切り露天を取って(無料で一回利用のプラン)6階へ行く。無色透明だけど、はっきり硫黄臭があり、黒っぽい湯の花がかなりある。温度は源泉で46度で、お風呂では41,42度ぐらいだから、とても気持ちいい。湯量は豊富でどんどん流れていて、ザブンと入るとザアーっとあふれ出る。これが温泉の悦楽である。ついで御影石の大浴場へ。総檜の大浴場と朝晩で男女交代制。それぞれ露天が付いている。それが全部どんどん湯があふれている。しかも、誰も他の客に出会わない。いやあ、大きなお風呂を一人占めで、湯が流れ続ける。アルカリ性の湯で体にやさしく、温度も適温。いつまでも入っていられるような素晴らしいお湯である。下は大浴場と貸切り風呂の写真。
 
 ついで翌朝の檜風呂の大浴場を先に。こっちも素晴らしい。寝湯が別の湯ぶねになっている。露天は湯花が多いが、大風呂にあまりないのが不思議である。
 
 さて、風呂の後で、ちょっと寒いけど湯の街散歩。公共の湯もいっぱいあって、そのうちの一つ「かめ之湯」の無料券もプランについてる。近くの公園まで歩くと、足湯と飲泉所がある。温泉が飲めるというのも新鮮さのあかしで、非常にいい。街にはレトロ感あふれる商店街の看板がいっぱい。ただし、観光シーズンではない月曜日だから、休みが多いが、つぶれてしまったのかもしれない。でも、お土産屋なんかもそこそこ残っている。寒くなったから、あまりウロウロしなかったけど、ちょっとビックリは近くの山に「戸倉上山田温泉」の輝くネオン。まるで「ハリウッド」みたい。あそこは何だろう。そして「かめ之湯」に行くと、なんと暗くて閉まっているではないか。道にあった案内板は電気が点いてたんですけど…。休みという表示もない…。宿に戻って聞くと、なんと「月末休み」ということらしかった。
 
 上の2枚目の写真はなんだか判らないと思うが、山の上で光ってる建物がある。その前に赤い文字が輝いてるのだが、ズームして撮らなかったので読めないが、右から「戸倉上山田温泉」と輝いていたのである。そこは何だろうと、翌朝に車で道をひたすら上がっていくと…。「史跡公園」と出てるんだけど。カーナビには「日本歴史館」と謎の名前が出ている。行ってみたら、もうつぶれた「日本歴史館」なる建物が出てきた。そして、隣には大きな寺があり、「善光寺別院」とありここがライトアップされていたらしい。この「日本歴史館」を帰ってから検索してみると、「廃墟ファン」の訪れる一種の「廃墟遺跡」であるという。昔はロープウェイもあって、一大観光開発された時代もあったらしい。蒋介石やマッカーサーの銅像があるというから、ある種の「反共」的な感覚で作られた施設なんだと思う。今もライトアップされているから、完全な「廃墟」ではないという話もある。大きなネオン看板の裏に近づくことができるという不思議な場所で、展望は絶景。さらに上がると、「荒砥城」なる山城に施設が作られていて、大河ドラマのロケに使われたという。有料というから入らなかったけど、どうも謎の場所で、また一度探訪する必要がある気がする。何とも不思議な戸倉上山田温泉だが、こんなにお湯が気持ちのいい温泉も珍しいのは間違いない。下の1枚目の写真は、「田」のネオン看板の裏。2枚目の写真は別院の隣の建物の屋上(道から行ける。)3枚目は温泉街を望む。(他の場所は次回に。)
  
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