6月に読み終えた本は3冊でした。
原田マハさんの本は美術館や画家を題材にしたものが
好きで、そればかり読んできましたが、友人が
「あまりに良すぎて、借りて読んだあとに結局購入した」
と言っていたので、それならばと‥。
スピーチライター という職業、初めて知りました。
物語の設定がオバマ元大統領が最初に当選を果たす前くらい
だったので、記憶にも新しいし、リアリティも感じられ、
主人公周りの設定のちょっとした違和感を埋めてくれました。
(主人公のおばあちゃんが高名な俳人とか、幼馴染の
父親が有名な代議士とか‥まあ、代議士が出てこないと、
スピーチライターの話は展開していかないのですが‥)
マハさんの作品、前半の盛り上げりのわりには、後半は
わりとあっさり、というか、もう少し続きがあったら、と
思うことが何度かあったのですが、美術関連や歴史に
関係ない今回のような物語は、そのあっさり加減が
ちょうどよいな、よい終わり方だったなと思いました。
図書館でなんとなく棚を見ていたら‥どなたかが以前に
面白かったと言ってたのは、この本だっけ? となり、
借りてみました。
美しい古本屋の店長さん、その名も栞子。
普段は人前で話すのはとても苦手なのに、本に関連したこと
だと別人のようになって、鮮やかに「謎」を解き明かして
いく‥。続きも何冊かあるようなので、また時間をおいて
借りてみよう思いました。
作者の名前になんか引っかかって‥なんでだろう?と
考えたら、5月に観た『流浪の月』の方の作品でした。
出だしはそれほどでもなかったが、途中から‥各章に
付けられたタイトルと呼応する箇所があると気が付いてから、
どんどん引き込まれていきました。
たとえば。
「あの稲妻は」は、茨木のり子詩集の中のこんな一節。
けれど歳月だけではないでしょう
たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの
「ロンダリング」は、何だろう、何を意味しているか
わからない、と思っていたら。
マネーロンダリングとか、洗濯渦の、laundering のことで、
たしかに元カレと別れた直後はまさに「渦中」だったと
わかり妙に納得。
マンションの屋上にある神社を管理しながら、元妻の
忘れ形見を引き取って暮らす統理と、友人でゲイの路有。
マンションの住人の桃子さんや桃子さんが好きだった坂口君の
弟の基‥。フツーとは少し違う、緩いつながりの中で、
それぞれのココロが無事を取り戻していく‥。
本文中にあった「無事を取り戻す」。
心が平穏とかよりも、しっくりくるし、いつでも自分の
ココロは無事で居てほしい、と思い、面白くてよい本を
読んだなあという気持ちになりました。
こういうゆるい疑似家族の話、好きだなと思いながら。
とても好きな箇所、忘れたくないので、ここにー。
なにかを捨てたからといって身軽になれるわけじゃない。
代わりになにかを背負うことになって、結局荷物の
重さは変わらない。
だったらなにを持つかくらいは自分で決めたい。
5月に読み終わった本は2冊。
職場の人イチオシということで、早く読んで感想を
言わないと‥と思っていましたが、『街とその不確かな壁』
にどっぷり浸っていたので、なかなか開くことができず。
ストーリーはどんどん進んでいくので、面白いといえば
面白い‥のかな。
が、正直な感想。(街と~のあとにどんな本を読んでも
これは面白いのかな??と思ってしまうに違いないので)
大きな疑問点はこの表紙。これはいったい何かを暗示?
していたのでしょうか‥。ちなみに「小麦」は主人公の
名前で、職業は弁護士。
友だちがインスタで紹介しているのを読んで、すぐに
図書館で予約して借りた本。
私が卒業した大学にも美術学科があり、変わっている人たちの
宝庫のような学部内でも、特に美術学科の方々は目立っていた
ような‥? 「美術学科っぽい」って言われたことがあって‥
その時はなんか嬉しかったな(笑)。
あとがきによると‥。
この研究室は実在のもので、そこを取材しレポとして本に
することもできたが、「あえて」小説のかたちにしたとのこと。
(もしレポだったら私は手にしてなかったかもしれないので、
小説でよかったです)
なので4人の主人公に纏わるあれやこれやはお話の中のこと
ですが、「仏様」に関することや、その修繕方法などは
すべてほんとうこと。
自己主張こそ命的な芸術大学なので、「あえて」仏様の修繕を
しようなんて思う学生は希少中の希少なわけで‥4人それぞれの
背景(背負っているもの)がとても興味深く、そしてそもそも
この研究室を立ち上げた教授が、その4人が卒業するときに
贈ったスピーチに打たれました。
命のバトン同様、芸術品の価値を認め、同世代で最高の知性と
技術をもって、そのバトンを次世代にわたす。それがここに
居る君たちの役目なんだ‥。
今度から、仏像を観るときにこれは何時代に、どんなふうに
作られたものなのかなーとか思って、じっくりよーく見てみよう
と思いました。
図書館で見つけて、3月に読んだ『約束された移動』
『砂漠』とともに借りてきていた、伊藤比呂美作
『たそがれてゆく子さん』
婦人公論に連載していたらしい。
伊藤本は未読のものが見つかるたびに読んできたので、
作者の人生を、よく知っているような気になっていて‥
どんな人と結婚して、ポーランドに住んでいた
こともあって、いつの間にか離婚していて、今度は
年の離れたアメリカ人と結婚して(入籍はなし)、
その人の子どもも産んで、熊本には年老いた両親が居て、
介護でたびたび日本に帰ってきてたけど、その両親も
亡くなって‥そしてこのたび(この本で)、アメリカ人の
夫も年老いて、ついに死んでしまったことを、彼女の
文章によって知ることになった。
読み進めていくうちに、そうそうこうだった、こういうふうに
この人はすべてを語り尽くしていくのだった‥と思っていたら、
次女のサラ子のことだけは、どうしても書くことができなかった
と知り、ものすごく驚いた。
伊藤さんは文中でこんなふうに振り返っている。
いつだってサラ子は、人前に立つと表情がなくなった。
棒みたいに突っ立っているばかりだった。それを引き取りに、
何度も何度も、小学校や中学校や(高校のときはマシだった)
大学に行ったもんだ。ああ、苦労した。苦労した。
貝がむき身で太平洋の荒波をわたるような、ジェットコースター
でシートベルトなしに振り回されるような、そんな苦労だった。
(中略)
サラ子については、あたしはそれを書けなかった。それほど
悩み抜いていた。あたしがそうなんだから、本人はどれだけ
苦しんだろう。
わかっている。こんなところに連れてきて振り回した親のせいだ。
このあとは、三女トメの結婚式で、立派に人前で挨拶をした
サラ子と、それを見て泣いた伊藤さんの描写が続き、読みながら
私も一緒に泣きました。
渡米を決断した理由のひとつに、コヨーテを見てみたかった
とあり‥。
大きな犬と共に、果てしなく広いカリフォルニアの大地を
毎日歩いている伊藤さんを思い浮かべることができ(そこでは
遠吠えのコヨーテの声も聞こえて‥)この本に出会えて、
よかったと思うのでした。
『あのこは貴族』
映画化作品を@WOWOWで観て、原作は読んでなかったのですが、
娘のiBOOKとシェアできることがわかり、電車の中で、と自分に
限定して読んでみました。
映画は原作に基づいてとても丁寧に作られていたし、キャストも
本の雰囲気にぴったりだったとわかりました。
都内に実家があり、閉じられた環境で守られながら育ってきた人が
「貴族」だとして‥地方からの「上京組」は何をしても太刀打ち
できないという構図とともに、女性の敵は女性であり、敵対する
ように仕向けられているので、賢い女はそれに乗せられては
ならない‥がさらりと語られていてよかったです。
4月には楽しみにしていた春樹氏の新刊が届きました。
『街とその不確かな壁』
ここ数年はラジオ番組を続けているし、その流れで企画した
ライヴコンサートの進行役で顔出しもしているし、
もしかしてもう小説は書いていないのでは???とひとり
思ってました。が、こうしてきちんと仕事をしていたのですね。
春樹作品を読んできた人なら、「街」と「壁」と聞けば
『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の
「世界の終り」で語られてきた街を思い浮かべるはずで、さらには、
その元になったかつて文藝誌に掲載された『街と、その不確かな壁』
を思い出していたはず。(もちろん私もそうです)
何が同じで、何が違うのか‥謎を解くような、間違い探しの絵を
見比べるような気持ちもどこかにありつつ、読み進めました。
(今までは新刊が出ると、早くその物語が知りたくて、先へ先へ
と急いだものでしたが、今回は3週間くらいかかりました)
読後最初の感想は、とても長い話だった、です。
主人公は高校生だったのに、いつのまにか中年と呼ばれる年齢に
なっていたので、その人の半生を駆け足で見たような気持ちに
なったかと思えば、「壁」の内側の「街」に居たときは、日々同じ
ことが繰り返されるばかりで、人も季節もどこへ向かって進んで
いるのかわからず‥。私は自分自身の時間をも、いつの間にか
含めて読んでいたので(20歳の頃から春樹作品を読んできた
その思い出)、その結果「長い話」と感じたわけです、きっと。
街、壁、影、深い穴(時には枯れた井戸)10代で出会った女の子、
図書館や図書館で働く人‥。
春樹作品におなじみのモチーフが続々と現れ、それは何かの
メタファというより、作者のココロの奥底にいつでも「ある」
もので、作者は、『街とその~』の何人かの登場人物のように、
「そこ」と「ここ」を無意識のうちに行ったりきたりしているの
ではないかと思ったりします。
そして、↓に記したような美しい文章も、そんな無意識下から
うまれてくるのではないかな。
そこに一人で立っていると、私はいつも悲しい気持ちになった。
それはずいぶん昔に味わった覚えのある、深い悲しみだった。
私はその悲しみのことをとてもよく覚えていた。それは言葉では
説明しようのない、また時とともに消え去ることもない種類の
深い悲しみだ。目に見えない傷を、目に見えない場所にそっと
残していく悲しみだ。目に見えないものを、いったいどのように
扱えばいいのだろう?
私は顔を上げ、川の流れの音が聞こえないものかと、もう一度
注意深く耳を澄ませた。しかしどんな音も聞こえなかった。風
さえ吹いていない。雲は空のひとつの場所にじっといつまでも
留まっていた。私は静かに目を閉じ、そして温かい涙が溢れ、
流れるのを待った。しかしその目に見えない悲しみは私に、
涙さえ与えてはくれなかった。
また近いうちに二度目を読み始めると思います。
なぜこの本、というか詩集のことを知るようになったのかは
うろ覚えですが、2月の始めに悲しいお別れがあって‥
さよならは仮のことば という文字がPCの画面から突然
目に入ってきたのです。吸い寄せられて、すぐに調べてみたら
谷川俊太郎さんの、新潮文庫オリジナル詩集のタイトルでした。
そうか、「さよなら」は永遠の言葉ではなく、あくまでも
「仮」なのだから、さようならの状況をわたしたちはこんなに
つらく(深く)受け止めなくてもいいんだよ、仮なんだもの。
さよならは仮のことば
夕焼けと別れて
ぼくは夜に出会う
でも茜色の雲はどこへも行かない
闇にかくれているだけだ
星たちにぼくは今晩はと言わない
彼らはいつも昼の光にひそんでいるから
赤んぼうだったぼくは
ぼくの年輪の中心にいまもいる
誰もいなくならないとぼくは思う
死んだ祖父はぼくの肩に生えたつばさ
時間を超えたどこかへぼくを連れて行く
枯れた花々が残した種子といっしょに
さよならは仮のことば
思い出よりも記憶よりも深く
ぼくらをむすんでいるものがある
それを探さなくてもいい信じさえすれば
図書館にあった伊坂作品。タイトルだけみるとそんなに
面白いの?と思っていたが、レビューではつねに上位に来ている
ので読んでみようと‥。
東北大学(と思われる)の学生仲間5人のはなし。もちろん場所は仙台。
春、夏、秋、冬、ときて、春がまためぐってくるので、1年間の話
ではなく、彼らの大学時代4年間の出来事だとわかる。(というか
途中で気が付いた)
その4年の中で、「プレジデントマン」と空き巣強盗という大きな
「社会的」な事件があり、彼ら5人も意図せずそれに「個人的」な
かかわりを持ってしまう。
殺し屋が主人公になるような伊坂作品を続けて読んでいたせいで、
語られる事件は解決するのかしないのか、5人のうちの誰かが
命を落とすようなことがさらに起こるのかーと気になりつつ、
でもどっちもなかなか起こらないので、これはもう、彼らの
青春の思い出話を読んでいるだけ、という冷めた気持ちで、
この本は面白い?と自問するときも、正直あった。
けれど読み終わってみれば、彼ら5人から去りがたい気持ちが
確かにあって、それは一人ひとりの4年という時間を知ることで
親近感を覚えたせいと、かつて大学生だった自分と、その周りに
流れていたものを思い出してしまったからかもしれない。
タイトルの『砂漠』は、砂漠にだって雪が降るかもしれない
じゃない、という理屈屋の西嶋のことば。
映画だけ観て、未読の『ゴールデンスランバー』も、こんな
元大学生が事件に巻き込まれていったのかなーと思ったら、
読んで確かめてみたくなった。
3月の読書は2月20日過ぎから読み始めた『輪舞曲』の
続きから。
大正から昭和初期に活躍した新劇の女優、伊澤蘭奢の半生を、
彼女に影響を与えたり、与えられたりした4人の男が
それぞれに語り合う形式で話は進んでいく。
歌舞伎のように、男が女のなりをして演じていく芝居から
女が女を演じるようになった新しい芝居=新劇の、黎明期。
その時代の話し言葉や装いや空気みたいなものまで感じられる
ところが、まかてさんの小説を読む楽しみでもあるが、
いまひとつ、自分の中に「ノリ」がなかったのは、蘭奢自身が
語る場面が少なかったからなのか。。。
タイトルの『輪舞曲』とは何を意味しているのかなと
途中から思っていて‥彼女を取り巻く4人の男が彼女の周りで
手を取り合って踊っている様をなんとなく想像していたが、
物語の終盤、「男」のうちのひとり徳川夢声が、こう語る。
まるで舞台のようだ。次々と袖から現れて、銘々勝手に蘭奢を語る。
皆の言葉が、伊澤蘭奢という女優を彫琢していく。(中略)
やがていくつもの蘭奢が、繁が輪になって踊り出す。幾重もの輪が
夢声を囲み音になる。
踊っているのはいくつもの顔を持った蘭奢ということですね‥。
定期的に新刊をチェックしたり、すこし時間があくと、
久しぶりに読んでみようかなと思わされる小川洋子作品。
とても濃密な関係を描いているのにひんやりしていて、
自ら孤独を求めているわけではないのに、ひとりになって
しまう人ばかりが多く出てくる‥いや、友達や同僚や恋人が
居ても、結局誰もが「ひとり」なのだと感じさせられて
しまうのかー。
表題作「約束された移動」
ホテルのルーム係をしている主人公。VIPルームの本棚から
本を持ち帰る映画スター。
ただ客室係にのみ記された秘密を、私は守り続けている。
彼は転落したのではない。象や無垢な少女や船長や、一家の
名もない母に導かれ、行く着くべき場所に向かって、
今も移動を続けているのだ。
「ダイアナとバーバラ」
ダイアナ妃が大好きな、病院で案内係を務める「バーバラ」
孫娘とショッピングモールへ行くハレの日のために、ダイアナが
着たのとそっくりな衣装を作る。
「まるでお姫さまみたいだ」少年は言った。
「わかります、わかりますよ」と、孫娘は答えた。
「元迷子係の黒目」
ママの大叔父さんのお嫁さんの弟が養子に行った先の末の妹は
右目と左目の焦点が合わないゆえに、迷子を素早く探すことが
できる元デパートの迷子係。路地を抜けていったところに裏庭が
あってそこにいつも居る‥は「ねじまき鳥」を思い出した。
大勢の子どもを帰るべき場所に返してきたのに、自分の子ども
だけは戻ってこなかった元迷子係は、水槽で泳ぐ熱帯魚のように、
今、ちいさな四角に守られている。
「寄生」
恋人にプロポーズしにいく途中で、見知らぬおばさんに、
文字通り、右半身に巻き付かれてしまった「僕」。
春樹氏の「貧乏な叔母さんのはなし」を思いださせるが、
違っているのはこちらのおばさんは、実在していて他人にも
ちゃんと見えているところ。
僕の説明を最後まで聞かずに彼女は言った。
「無事に果たせた?」
右腕に手をやり、そこにある空洞をさするようにしながら、
僕はうなずいた。
「それはよかった」彼女は微笑んだ。
「黒子羊はどこへ」
異国から流れ着いた羊から生まれた黒い羊を育てるうちに、
いつしか「子羊の園」の園長先生と呼ばれるようになった女。
かつての幼子Jの歌声をクラブの勝手口のごみ箱の上で聴き、
誰にも知られずひっそりと死んでいった。最後の場面は
その葬列‥
死者に相応しい場所を目指してどこまでも歩いてゆく。
「巨人の接待」
「巨人」と呼ばれているけれど、実はちっとも大きくない
異国の作家。彼が来日する際通訳を務めることになった「私」。
鳥をこよなく愛するようになった作家の過去がひどく悲しい。
ラストの場面は二人だけで行った「野鳥の森公園」
誰も乗らなくなったメリーゴーランドを私は動かす。
カートはすべて絶滅した鳥たち‥たとえば
ワライフクロウ(1914年)
カロライナインコ(1918年)
ドードー(1681年)
これに乗っている限り、どこへも移動しなくていいのだという
安堵に包まれるように、巨人はうっとりと目を細める。私には
聞こえない小さな声で、ドードーに話し掛ける。
『看守の流儀』が思いのほか面白かったので、余韻に
浸るべく色々検索していたら、続編があることを知りました。
冒頭部分で、火石教官の顔の傷はこれが原因だったの‥?!
という描写がありますが、真相は明かされないまま、
別の短編が続き、最後のさいごで、冒頭の場面に繋がると
いうしくみ。そして、ああそういうことだったか!!
で、終わります。
次に読む本が決まってなかったので、どうしようかと
思案し、伊坂幸太郎に戻ってもよいかな、よいよね、まだ
読んでないの、たくさんあるし。。と『AX アックス』を
選びました。(アックスとは斧のことで、最初にカマキリの
話がでてくるので、そうかだからなんだ、とひとり納得)
殺し屋三部作と呼ばれているものの三作目で‥確かに
主人公は「兜」という名で呼ばれる殺し屋で、前作、前々作
に登場した殺し屋たちも出てきますが、恐妻家であること、
一人息子が居る家庭人であることが全面に描かれていて、
殺し屋シリーズというよりも、家族を描いた『重力ピエロ』
なんかに近い印象を持ちました。そして、やはり二度続けて
読んでしまいました。(伊坂作品、大概2回続けて読んで
しまうのです)
最初に殺し屋シリーズを教えてくれた会社の同僚が、この本が
一番好きと言っていた理由が読み始めてすぐにわかりました。
彼にも息子が居て、彼も父親だから。
以下、解説より。
殺し屋の男を主人公にする『AX』にも、そうした
(死への不安に対抗するための根拠)要素が備わって
いるのである。引き裂かれた自己を持つ男が、家族を通じて
本来の自分は何かを考える小説なのだ。
図書館でどれも好みの数冊を借りてきて、どうしようかと
迷ったあげく、未読だった『輪舞曲ロンド』に。
とても魅力的な、表紙に描かれた方は、伊澤蘭奢という大正期の
女優さんだということを読み始めてから知りました。
今年からの読書記録。
1冊読み終わってからよりも、1か月単位でどんな読書を
したのか、何を思ってその本を読もうと思ったのか、を
残しておいた方が、数年後の自分が楽しいのでは
と思いました。
***
付録の、植田真さんのカレンダーが欲しかったのと、
「思い通りの人生なんて」
という、巻頭の、ささめやゆきさんの文章に惹かれて
久しぶりに購入。
包み紙で作るコサージュとか、おじいちゃんのお菓子と型、
とか他の記事も面白そうだなあと思い、新年から読み始めた
ものの、また読み終わらず‥。
(今回に限らず、雑誌はきちんと読み終えられたことが
あまりありません。眺めてる段階で満足してしまうこと多し)
昨年末から、会社の同僚から借りていた本を、お正月休みが
終わってからやっと読み始めました。
ミステリー好きの(読書はもっぱらミステリーと決めていると
思われる)彼は、今までにもいろんな本を貸してくれて、その
どれもがわりと面白かったのですが‥『ノースライト』は
主人公が建築士ということと、表紙に描かれている椅子に
とても興味を惹かれました。
そして、バブルの前後の様子が描かれていたのがなんだか
懐かしかったです(笑)。
ブルーノ・タウトのこともこの読書で得た知識。
地元の図書館で、電子書籍の貸し出しが始まっていて。
手頃な本はないかしらと探していたら、植田真さんの
イラストが目を引いたので借りてみました。
13歳の少女が主人公だけど、彼女の母親やその友だちの
気持ちに沿って読んでしまいますね、どうしても。
横山秀夫といえば、『64』ですよね、と以前に言われて
いたのに、未読だったので、電子書籍で借りてみました。
タブレットで寝る前に読んでいると、顔の上に落ちてきそうに
なり、はっと目が覚めことが2度ほどありました。
前半はというか、大半は、警察組織の上下関係や部署間での
ぎくしゃく度合にうんざり。
警察に限らず、私の知らない世の中はこんなふうに成り立って
いるのだとしたら、そこで揉まれている方々はさぞ大変だ、
と思う次第。ラストは、なるほど、そういうことか!と。
この本もなかなか面白かったです、と職場の彼から
借りていたもう1冊。
看守と言えば、刑務所の話に違いなく、死刑が絡んで
きたりするのは嫌だなと「積読本」でしたが、なんとなく
読んでみたら‥主人公がそれぞれ違う短編集でありながら
全体通しての「ミステリー」要素があり、最後にきて
えー---そうだったの!!と驚かされました。
読み終わったあとの余韻がなかなか消えず、いろいろ
検索していたら、続編を発見(笑)。2月の読書へと続きます。
2022年 おめでとうございます。
なんとなく偶数並びが好きなので、今年は
なんかいいことありそうな気がします(笑)。
今年も「好きなもの」の記録を、残していこうと
思います。どうそよろしくお願いいたします。
さて、年末は『水底の橋』にどっぷり浸り、あやうく
三度目に突入しそうだったので、いかんいかんと、
借りてあった3冊のうちこちらから読み始めました。
インスタで何度も
推されているのを見て、ついに手にしました。
面白かったです。マンガです。「赤」の使い方が
うまいなあと思いました。フジモトさん、お亡くなりに
なってからもう6年もたったのですねー残念です。
次はこちら。お正月休みなんだから、頭も休めないと
と思い、読みはじめました。
すべての悩みは
全部まとめて貝塚へ
今年最初のお気に入りフレーズになりました。
そうだよね、貝塚があったじゃない、全部自分
ひとりで抱え込む必要なんかないんだーと。。
今日現在半分くらいまでしか進んでいないのですが、
それとなく、縄文土器のことなどもわかり、なかなか
興味深いです。土器の文様をセーターの模様にしている
イラストが可愛い。
ですが、毎晩どーでもいいような(失礼)お悩みを
読んでいるうちに、物語が読みたくなり、寝る前には
こちらを開きました。
2021年本屋大賞
翻訳小説部門の第2位に選ばれたものだったと、
読みおわった後に知りました。オリジナルは
フランス語で、作者のジャン=クロード・グランベールさんは
フランス演劇界の最も権威のあるモリエール賞を6度も
受賞されたのだそうです。
大戦やホロコーストが、10代の子たちが読んでも
わかるように、平易に淡々と書かれていることが
胸に迫りました。
昔話や寓話の中にたびたび残虐な箇所がありますが、
これもそうなのでは?とふと思ってしまうような
場面もあって‥でもそんなふうに大量の人を殺したり
簡単に銃の引き金を引いたりは、本当にあったこと
なのです。。。
数々の、悲しく恐ろしくやるせないシーンがあった
中、貧しい木こりのおかみさんが、ユダヤ人輸送の為の
貨物車をこう思う場面が一際印象に残りました。
森、おかみさんの森、おかみさんの山林は広く、
木々は、寒さも飢えもどこ吹く風で生い茂っていた。
ところが世界大戦が始まると、そこを、かりだされた
男たちが強力な機械でまっすぐ切りひらき、線路を敷いたのだ。
そしてその一本の線路を、変わった列車が行き来するように
なった。冬も夏も。
貧しいおかみさんは、その列車を見るのが好きになった。
〈わたしの列車〉、そう思った。おかみさんは熱い
まなざしで列車を眺めながら、飢えからも寒さからも
孤独からも脱けだして、旅する自分を思いえがいた。
まさに表紙に描かれてますね。
カズオ・イシグロの、ノーベル文学賞受賞後の
第一作ということで、話題になっていたので
図書館に予約してました。どれくらい待ったでしょう。
表紙を飾る福田利之さんのイラストは可愛らしく、
タイトルだって絵本チックで‥AIロボットと少女との
友情を描く感動作と謳われていましが。。。
AI(見た目はまったく人間‥のアンドロイド)のクララは
仲間と一緒に「お店」で、子供が親と一緒にやってくるのを
待つ毎日。子供に気に入られるのはもちろんのこと、購入
してもよいと決断するのはその子の親なので、大人にも
もちろん好感を与えなければなりません。
外のセカイを観察するのが大好きなクララ。
店の中のどのAIよりも周りの「空気」を察知する
ことができます。
クララたちの「栄養源」は太陽の光なので、クララに
とってお日さまは特別なもの。日の出から日の入りまで、
お日さまの動向はクララにとってのすべて、です。
彼女が賢く、無垢であればあるほど、読み手の私の
気持ちに陰りが現れるという、不思議な反比例を経験しました。
お日さまは限りなく輝き、その存在は唯一無二であるのに、
私の中に次々と影を落とし、気持ちを鈍らせていくのは、
曇天と強い風に翻弄されている丈の高い草、草、草。
話の中は、すこし先の未来であると思われるのに、納屋に
向かって必死に歩いていくクララの姿や通りやビルは、
訪れたことはないけれど、すこし前の、イギリスはこんな
感じだったのではないかーと思いながら読みました。
読後の印象は『わたしを離さないで』に近似していて‥
こんな未来が来ないことを祈るばかりです。
「感動」とは違う種類のココロの揺れがあり、クララのことを
どうしても思い出してしまうので、ここに書き残して
おくことにしました。
朝井まかてさんの新刊が出たと知って、図書館で
予約しました。
どれくらい待ったでしょう。
(例によって)順番が回ってきたときには、どんな
内容で、どうしてそれを読みたいと思ったのか、
忘れかけていました。
森鴎外の子供といえば、作家の森茉莉しか知らず、
タイトルの『類』が、三男に付けられた名前だと
知ったのも読み始めてから。
冒頭の朝のお庭のシーンはとても美しく、ココロ
惹かれましたが、他の朝井さんの著作の時のような、
ページを繰るごとに前のめりになっていく自分の気持ちが
このたびは感じることができず、森類の生涯がどのような
ものであったのかを、確認したいがために、最後まで
読み切ったような気がしています。
なぜそのような読書時間であったのかー。
偉大な父を持ち、母違いの兄も、二人の姉も、義理の父も
文章や絵画で名前を馳せた方々で、そんな名家の中で、
絵を習い、文を書きながらも「なにものでもない自分」を
生きていくということが、いかほどに大変でつらいことで
あったのかは、ひしひしと伝わってはきたのです。
が、最後までどうしてもぬぐいきれなかったのは、やはり
お坊ちゃまはお坊ちゃま、という気持ちでした。
どなたかがレビューで、妻の美穂の立場から、森類という
人を語ったら、もう少し面白かったのでは、と書いていて‥
なるほどそうかもしれない、と思いました。
戦後、父の遺産ではもはや食べていかれないとなった時に、
4人の子供を育てねばならないと必死になっている妻美穂に
自分の気持ちはどうしても重なっていきましたから。
物語の終盤に、夫婦喧嘩の後に、類が回想するこんな箇所が
ありました。
どうして何もしないで、ただ風に吹かれて生きていては
いけないのだろう。どうして誰も彼もが、何かを為さねば
ならないのだろう。
僕の、本当の夢。
それは何も望まず、何も達しようとしないことだ。質素に、
ひっそりと暮らすことだ。
森類という人をもっと知るために、次はこの本を
読んでみようと思っています。
読了。(2021年8月18日)
気になったのは132~133ページにかけてのこの部分。
こんなふうに冷静に自分を「観察」していたのですね‥。
僕は、父の生きているあいだは、その足もとの影の中で
育ち、父の死後は杏奴の足もとへその身をよせたのである。
母が杏奴をかわいがることは僕をもかわいがることであり、
姉の友だちが「杏奴さん」と言って親しむことは僕にも
親しみを感じることであった。僕は杏奴さんの「弟」で
あって、「類さん」ではなかった。僕はそれで満足し、
杏奴もそれを当然だと思っていたようだ。二人は一つの
魂になっていたので、杏奴のきらいな人間を僕もきらい、
すきな人間を僕もすいて、その度合まで同じであった。
世間から圧迫をくわえられている母や茉莉に属していた
ので、一致団結がややその度を越したものであろう。
そして、書店主になったときの感想が、後書きの中に
ありました。
「四十を越してはじめて外気にあたったので、人生の
出発点が人のばあいと反対である。老いに手がとどいている
ことは残念であるが、それだけに手足がきかなくなるまでは
前進したい意欲がさかんである。風にあたると、まわりの
物事や人の心がはっきり見えてくるから、これからは
おもしろい人生を文章に書きたいと思っている」
久しぶりのブログの、久しぶりの音楽の話しは、
これまたものすごーく久しぶりの野音で観たハナレグミ。
(グループ名みたいですが、永積タカシさんのソロユニットです)
数年前からラジオで流れる曲と声がいいなあと思っていて、
昨年のJ-waveのギタージャンボリーで初めてライブを観る
ことができて、ますます、いいじゃない感が高まっていた
ところに、今回の野音。
夏の夕暮れに、野音にいることができる!を考えただけで、
沈みがちな気持ちが浮上してくる7月の日々でした。
(気持ちが沈みがちなのは、6月中旬から悩まされている
腰痛のせい。なかなか良くならないのです‥‥)
チケット申し込む時に、なんとなく娘といくことを想定して
2枚にしたのですが、後からその日はピアノ発表会の前日なので
無理と言われ、それならばと、夫と行くことになりました。
野音の入口をくぐるうちの店長。
ツアータイトルの「発行帯」は8枚目のアルバムのタイトル。
それについてのロングインタビューはこちらに。
お天気も時間帯も、会場の規模も、すべてが歌と曲とマッチしていて。
至福ってこういう気持ちだったよなーと思い出しました。
※ここでライブの様子がわかります
ほんのすこしのココロ残りは、体調が万全だったら、もっと早くの
うちから踊ったのに~ということです(笑)
近所の読書好きの方から、以前貸していただいた
『一路』が思いのほかおもしろく、浅田次郎って
やっぱり上手いんだなーと思っていたのですが。
このたび同じような道中ものがあると知り、図書館で
予約して読みました。
いやいやいやいや、なかなかの読み応えでした。
江戸幕府末期が舞台で、今観ている大河ドラマの時代と
ちょうど同じ頃の設定なところも、(勝手に)「偶然」を
感じました。
昨日の夜に読み終えて、本日いちばん感じ入っているのは、
自分は自分の信じたことをただ為すべきなのだということ。
些細な習慣であっても、一度決めた信条であっても、
シゴトに対する姿勢であっても、なんでもいいんですが、
対している「人」で、自分のやり方を変えていくのは
違うのですよ、やはり。
どんなにいい加減なことをされても、礼儀知らずな人だと
思っても、そこでその人と同じようなことを自分もして
しまったら(同じ土俵に立ってしまったら)なんにもならない
ということ。
たとえ誰が気づかずとも、誰に評価されなくても、自分の
姿勢は貫ける人で居たいと、強く思いました。
(そう、誰が見ていなくても青山玄蕃は毎日きちんと薪を
積んでいく人なんです)
腹立たしいこと(自分に対しても)たくさんあるけど、私も
自分で決めた薪は積んでいくのだ。
昨年9月におともだちのFBで見かけ、その後も
いろんなところで見かけてたこの本。
図書館に予約しておいたら、忘れた頃の6月になって
やはり予約していたエッセイと一緒に順番がまわってきて、
(自分ひとりで)大慌ててになったのでした。
翻訳小説部門で、
本屋大賞だったんですね‥人気あるのも納得。
図書館の予約はいつどんなふうに予約本がまわってくる
のかわからないところも含めて好きなのですが‥。
今回ばかりは、エッセイの前に時代小説の上巻を読んでいた
ので、早く続きが読みたいところに、エッセイとこの本が
きてしまった、という状況で‥プラス、家のリフォームも
あるしで、最初はなかなか物語に入っていけませんでした。
なぜ、1950年代~70代はじめの、アメリカの湿地地帯の話を
私は読んでるんだろう?
村一番の人気者だったチェイスが、ある日、櫓の下で死んいる
のが発見され、事故ではなく事件なのではないかと、保安官が
犯人探しを始める章と、家族から見捨てられたどうしようもない
父親と湿地に建つ小屋に残されてしまった末娘カイアの、胸に迫る
日常が描かれる章が交互に続き、やがて、物語はひとつになって
いくのですが‥。
著者が動物学者でもあるということ、現在もアイダホ州に住み
湿地の保全活動を行っているということが、この物語をただの
犯人探しのミステリーに終わらせず、豊かな物語世界を描きだす
ことに繋がってるのだと実感したと同時に、この本に出会わなければ
そもそもそんな大きな湿地が広がっていて、そこに暮らしそこで
生きるものたちが居ることさえ、知らずに私は生きていったのだな
と思ったのでした。
何を書いても、この先この物語を読む人の邪魔になってしまい
そうなので、タイトルについてだけ‥。
ザリガニの鳴くところ
それはどこなのだろう?(そもそも)ザリガニは鳴くのかなと
思っていたら、本文にこういう箇所がありました。
「どういう意味なの?゛ザリガニの鳴くところ”って。母さんもよく
言ってたけど」カイアは、母さんがいつもこう口にして湿地を探検
するよう勧めていたことを思い出した。゛できるだけ遠くまで行って
ごらんなさいーずっと向こうの、゛ザリガニの鳴くところまで”
「そんなに難しい意味はないよ。茂みの奥深く、生き物たちが
自然のままの姿で生きてる場所ってことさ」
そう教えてくれたのは、長い年月カイアを、そばで見守っていて
くれたテイトです。「母さん」はいなくなってしまったけど、
テイトが居てくれて本当によかった。
これからホタルを見る機会がもしあったら、カイアのこと思い出して
しまうかも、と思います。
この本も、SNSでとてもよく見かけて‥
タイトルと表紙に惹かれて図書館に予約してました。
(そしてやっと読了)
岸本さんのエッセイを読むのは初めてでしたが、
お名前は『掃除婦のための手引き書』で知ってました。
いや、正確には、その後書きの、岸本さんの文章が
わかりやすかったので、それからお名前を意識し、
だったかもしれません。
でも、よく思いだしてみれば、その前からこの絵本や
あの絵本の、翻訳者ということで知っていたのです、たぶん。
『死ぬまでに行きたい海』
残念ながら、そこはどこの海なのか、表題作のエッセイは
ありませんでしたが、代わりに、海芝浦駅とか、養老天命反転地
とか、ディープな場所を知ることができました。
お父さんのお墓があるという丹波篠山の従姉たちとの記憶や、
三崎、バリ島、上海のはなしも面白かったです。
テンポのよい語り口調と、さらけ出した日常に、ほんの少しの
非日常が混じっているあたりが絶妙でした。
(いろんな書店の人が推してくるのも納得です)
ちなみに、表紙を飾っている「猫の形の陶器の枕」は作者が
上海で買ったもので、今も家の中でいちばん大切な物だそう。
4月のはじめに、南米が舞台の短編集を読み、やっぱり
バリ島のも読んでおこうと思って読んだのち、1と3を
読んだのなら、2も読まないとね、と続きました。
世界の旅 1 世界の旅 2
この2冊が3と違うのは、小説の他に、取材旅行の日程表
だけでなく、1の半分は旅行のエッセイになっているし、
エジプトも仲間たちとの楽し気な写真やエピソードが、
たくさん掲載されているところです。
『SLY』は先に取材旅行があって、そのあとに小説を書いた
とあり、バリ島の方はもうとっくに読み終わり返却して
しまったので、どっちが先が忘れましたが、たぶん旅行が
先なのでは‥。
いずれにしても、それぞれの旅先の空気や人や温度や湿度を
とても効果的に、取り込んでいて、それが作者の力量なんだと
感心した次第です。
バリ島の方は、幼い時の虐待が元で多重人格症になって
しまったマリカと、ジュンコ先生との旅‥マリカの体の中に
複数の別の人が現れては消えていく‥。
『SLY』は、HIVポジティブだとわかった元彼と、元彼の元恋人の
男子と三人でエジプト旅行をする話‥旅先でさらに一人旅を
している女子が加わり、風変りなグループ旅行になる‥。
(グループでバリ島に行くのももちろん「有」だけど、それよりも
HIVポジティブからエイズが発症し、その場に居る3人を残して
一人だけ先に逝く可能性が有るグループには、「生と死」がより
濃く感じられるエジプト旅行の方が、数倍も相応しい‥ですよね)
『SLY』の中にこんな箇所がありました。
‥人が美しいものにひきつけられるのは、それが死から最も遠く、
死を忘れさせてくれるから。醜いものをうとましく思うのは、
それが死を思わせるから。死んで少しずつ腐ってゆくものを
連想させるから。ミイラとかそういうとんでもないないものは、
そういうことを一挙に飛び越してしまって、未来の美しさを
重ね合わせて幻想として成り立っている。
なるほどね~そうかもね、と思い‥そして、これは余談ですが。
友人たちが部屋にいて、今夜もひとりになることはないだろう。
(中略)家族でもなんでもないのに、それから「すてきな仲間
たち」というのとも少し違うのに、そのような夕暮れを静かに
共有することがある。
今から30年以上前に、夫の友人2人と、私の友人とその友だちの
計6人でタイのバンコクに旅行したことを、↑の箇所から懐かしく
思い出しました。
バンコクの匂いや美味しいと思って食べたタイ料理のことは
ほとんど思い出すことはないけれど、河を眺めながら朝食を
食べたことや、パタヤまで行ったバスの中に、友人がムギワラ帽子
を置いてきてしまったことや、観光した寺院の塔を登る階段の幅が
異常に狭い!と思ったことや、小さな船に居たガイドさんが日本語の
テキストを持っていて、「はな」+「ち」で「はなぢ」と書いて
あったことなどははっきりと思い出すことができて、あのとき
グループ旅行に行っておいて本当によかった、と今、思うのでした。