旧一号線、この辺の人は誰も府道13号線とは呼びません。
夕方になると、なんだかさびしいような、胸がざわざわして、落ち着かなくなるのはなぜでしょう?
子どもの頃読んだ、アストリッド・リンドグレーンの「ミオよ、わたしのミオよ」は、黄金色の夕暮れ、亡くなった父の国への入り口が開き、少年は黄昏の国にいざなわれます。
レイ・ブラッドベリーの「10月はたそがれの国」は、圧倒的な黄昏の描写の中、不思議な物語が展開します。
夕暮れは、いつもは、日常の喧騒の中に埋もれていて、見えないけれど、しかし誰もが、あると言うことをどこかで、知っているこの世ならぬ何かが、湧き出てくる時間。ある人にとっては、死者との対話だったり、ある人にとっては、普段抑えている自分の感情だったり、ある人にとっては、良心だったり。
合理性や科学では割り切ることの出来ない、情の世界だったり。
日本においては、能の中の情念そのもののようなものかもしれない。
西洋音楽の世界では、オペラ。西洋と言うと、日本との対比でドライであるとよく言われますが、オペラの世界では、社会の狭間で、あきらめられない思いや、恨み、恋、熱情など、涙や感情の嵐でみちみちています。
ビゼーのカルメンで、ホセは社会的地位を捨て、盗賊団に入ります。誘うのはカルメンですが、カルメンは自分が生きるために、獄吏のホセを利用しただけ、ホセは?カルメンへの愛に翻弄されたと言うより、彼女によって、自分の中の、欲望や執着が解き放たれ、身も体もゆだねてしまった。しかし、盗賊団の世界でも、欲望を満たし続けるためには全身全霊でそれを求め、能力を使って支えなければならないのに、彼はいつも悩み、奪いきることもできない。欲しいのか欲しくないのか。
欲しいものを欲しいといい、いやなことはしないカルメンが輝いているのに比べると、ホセは本当に煮え切らない。唯一執着しているのは、カルメンへの所有欲。
ホセは、何を言われても、カルメンが一緒の時はよかったけれど、闘牛士の元へ去ろうとするのは、赦せなくて、殺してしまう。
ホセにはいつも選択肢があります。官吏でいるのか、盗賊団に走るのか?田舎の恋人の元へ戻るのか?とどまるのか?殺すのか、殺さないのか?
理性の世界の住人でもあるホセが、あふれ出る情念に翻弄され、コントロールできない。欲望に負け、ついには破滅します。物語は理性と、欲望のせめぎあいに全編彩られています。
この噴出する感情の世界が、この時代のオペラのお約束です。トスカや、マノン・レスコーも然りです。
西洋の合理主義と、科学が幅を利かせ、世界中に植民地をもち、派遣を伸ばした時代です。
抑えられたものは、はけ口を求め、黄昏の国を求め、絢爛たるオペラの情念の世界を育てたと思います。