音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

山の夜

2024-11-10 22:19:00 | 国民楽派
近江富士。

長男が出張するのに「スーツケースが無いので買いに行くから手伝って。」
と聞いた夫。
「スーツケースあるから持っていくよ。」
と、言うことで

いつもの京阪鉄橋。

見えてきました近江富士。



スーツケース長男宅に運びました。
新しい家電が増えていました。

大型テレビの次は。


コーヒーメーカー。
1人を楽しんでいるみたいです。
野菜を買って、先月持ち込んだカセットコンロでお鍋をして久しぶりの家族団らんして食べました。

コダーイ・ゾルターン(1882ー 1967年)オーストリアハンガリー帝国ハンガリー王国ケチケメート生まれ、ハンガリー ブタペスト没

作曲家、民俗音楽学者、教育家、言語学者、哲学者。 

幼少時代の多くをガラーンタとナジソンバト(現在のスロバキアのトルナヴァ)で過ごしました。

父親は熱心なアマチュア音楽家で、コダーイは子供の頃からヴァイオリンの学習を始めます。系統的な音楽教育を受けることはほとんどありませんでした。

1900年、ブダペスト大学のハンガリー語・ドイツ語学科に入学し、同時にブダペストのハンガリー王立音楽院(現在のリスト・フェレンツ音楽大学)で音楽を学びました。 
そこでコダーイはハンス・ケスラーに作曲について学びました。ケスラーは、マックス・レーガーの従兄で、ブラームスの音楽を信奉する保守的な作曲家でした。

後にコダーイは民俗音楽学の分野における重要人物のひとりとなりました。

1905年から人里離れた村を訪れて曲を集め、1906年にはハンガリー民謡に関する論文「ハンガリー民謡の詩節構造」(A Magyar népdal strófaszerkezete) を書きました。

この頃、コダーイは後に妻となるシャーンドル・エンマ


と出会っています。

さらにエンマを通じて生涯の僚友となるバルトーク・ベーラに会い、彼にハンガリー民謡の手ほどきをしました。
2人は共に民謡集の出版を手がけました。

コダーイ(左)と2番目の妻のピーツェリー・サロルタ(中)、そしてベーラ・バルトーク(右)(音楽院にて)1960年代

哲学と言語学において博士号を授かると、コダーイはパリへ行き、シャルル=マリー・ヴィドールに師事。
そこでクロード・ドビュッシーの音楽に出会い、その影響を受けます。

1907年にブダペストに戻り、ブダペスト音楽院教授となります。
コダーイは第一次世界大戦中も休みなく民謡収集の旅へ出かけました。

1910年には19歳年上のエンマと結婚しました。



エンマは作曲家・ピアニストで、著名な作曲家とコダーイを繋ぎました。

コダーイはこの間に2曲の弦楽四重奏「チェロとピアノのためのソナタ」と「ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲」を発表します。

これらはすぐには成功しませんでしたが、1923年にブダ・ペスト合併50周年記念の演奏会で「ハンガリー詩篇」が初演され、大成功を収めました。

この後、コダーイは自作の指揮でヨーロッパ中を巡る事になります。

1925年の児童向け合唱曲 「ごらん、ジプシーがチーズを食べている」の作曲をきっかけに、コダーイは音楽教育に大きな興味を持つようになります。

教育用の曲を多数書き、同様に書物も出版します。
この分野におけるコダーイの研究はハンガリー内外を問わず音楽教育に重大な影響を与えました。

カーウェンのソルフェージュ手話の描写。これをコダーイは流用しています。

著作の数々は音楽教育を理解するための原理を定めました。

コダーイはまた、プロの合唱団のための曲と共に、「マロシュセーク舞曲」「ガランタ舞曲」「『孔雀』による変奏曲」「ミサ・ブレヴィス」を作曲しました。

オペラ「ハーリ・ヤーノシュ」の組曲も、有名となりました。

1920年代にも引き続き、ハンガリーの村々を回り、民謡を収集・録音する作業を続け、民俗音楽における多数の論文を執筆し、また民謡に基づく合唱を作曲していきました。

1930年にはブダペスト大学の哲学科で学生に講義を行い、その中の討論で民俗音楽の歴史と意義についての議論を深めていきました。

コダーイは第二次世界大戦中もブダペストに残り、1942年に教職から退きました。

戦争中は「いくさ歌」や「神の奇跡」などペテーフィ・シャーンドル(1823-1849年詩人ハンガリー革命影響を与えた)


の愛国・革命の詞に対して数曲の作曲をしました。

戦闘がブダペストで始まると、修道院に待避し、そこでオルガン曲のミサ・ブレヴィスを合唱・独唱・オーケストラ用に編曲しました。

戦争が終わった1945年ハンガリー国民芸術会議の議長となり、1962年にはハンガリー人民共和国の勲位を受けました。

コダーイはその他に国際民族音楽評議会会長、国際音楽教育協会名誉会長の職につきます。

1956年のハンガリー動乱では大統領候補に推されました。

1958年に妻エンマが亡くなります。

翌年12月には当時19歳でリスト・フェレンツ音楽院の学生だったピーツェリー・サロルタと再婚しました。

その後、1960年から66年にかけては毎年、海外に長期旅行し、様々な講演や会議への出席をこなしました。

コダーイは1967年に亡くなり、ブダペストのファルカシュレート墓地に埋葬されました。84歳没。

「山の夜」は女性合唱のために作曲されました。



行商人

2024-11-09 21:02:00 | ロマン派
レッスンの時は、京都今出川通りをバスで出町柳駅から、大宮まで行きます。
途中に同志社が見えたり

考古学博物館で「平安ファッション考古学」をやっていたりします。


すっかり見かけなくなった研屋さんの看板がいい味出しています。

スペインにも研屋さんがいてafiladorといいます。この言葉にはプレイボーイ、女たらしと言う意味もあるそうです。
彼らは笛を吹きながら街角にやってきて、ハサミや包丁を研いでくれます。
その研屋の笛 チフロと言います。

パンフルートや、サンポーニャと同じ音の出し方です。
英語ではシャープナーパンフルート。
こんな感じ。 

研屋のように街から街へ商売をして回るのは行商人。

フリードリヒ クーラウが、オンスロウの作ったオペラ「行商人」の主題による前奏とロンドop98を作っています。

もともとのオペラ「行商人」についての資料は少なくあまり見つけられませんでしたが、当時流行っていたようで、クーラウはピアノ独奏にも主題を使っています。

フレデリック カルクブレンナーも間奏曲と行進曲をピアノ独奏曲を書いています。


アンドレ・ジョルジュ・ルイ・オンスロー(1784 - 1853年) フランス王国クレルモン フェラン (オーヴェルニュ) で生まれ、1853 年 10 月 3 日にクレルモン フェラン没



は、イギリス貴族の伯爵父ドワート
は1781年フランスに移住し、ブラントーム家の親戚であるマリー・ロザリー・ド・ブルデイユ (1761-1842) と結婚。

ジョージは1803年から1805年にかけてイギリスでクラマーからピアノのレッスンを受けました。

ジョージは1803年から1805年にかけてイギリスでクラマーからピアノのレッスンを受けます。

1808年7月にシャルロット・フランソワーズ・デルフィーヌ・ド・フォンタンジュ(1790-1879)と結婚しました。

1829年、彼は狩猟の事故で聴覚の一部を失い、その痛みを「デ・ラ・バレ」として知られる五重奏曲の中で描写しました。

1829年、彼はメンデルスゾーンとともにロンドン・フィルハーモニー協会の名誉会員に昇進し、それを記念して第2交響曲作品42を作曲し、1832年3月4日に初演しました。

1839年、相続を争った兄弟たちに対する訴訟で敗訴しました。彼はチャレンドラット城を去り、ベルリーヴェに別の城を建てました。

「行商人または木こりの息子」はオンスローの3つのオペラのうちの2番目の作品で、1826年に作曲され、1827年11月22日にオペラ=コミック座で初演されました。
台本は、ウジェーヌ・ド・プラナール(1783-1853年)
によって書かれました。

架空のロシアを舞台にしたこの作品は、皇帝の若き皇太子アレクシスの冒険物語です。  


王を虐殺した王位を狙う悪党から逃れた後、アレクシスは自分の正体を知らない木こりの世話になります。

数年後、行商人に変装した簒奪者の手下に見つかり、刺されます。

しかし、アレクシスはその裏切り者を倒し、地位を回復し皇帝となり、長年愛していた船乗りの女性と結婚します。

ジョージ・オンスロー作『行商人』(1827年)のバレンタイン役のマリー・デブロス
オペラ「行商人」序曲


謎は謎のまま

2024-11-08 21:00:00 | 近代
京都今出川大宮の富久田晴彦先生のレッスンにうかがいました。
急に寒くなって晩秋の様相でした。
雲は冬。
さすがに冬ほど寒くはないですが

一度来た薄めのシャツを厚手のに着替えて行きましたが、みんなウィンドブレーカーのようなジャケットを着ていて、こっちが今日は正解だった。と思いました。

ハンガリー田園幻想曲を見てもらいましたが、初めのところはカデンツァのように考えていたら、拍をちゃんと取らないとだめということがわかってこってり絞られました。
まだまだだなぁ…。

帰り京阪出町柳の駅構内で見かけた3人。
京都らしい着物…と一瞬思ったけれど、この季節になぜ浴衣?

私はわりとドレスコードなど気にしない方ですが、さすがに今の季節に浴衣は無い。

何のための浴衣だったのか?
本当にプロが着せたようにきっちり着ているし、崩れもないし。
足袋もはいて裾捌きもサッサッと慣れた感じだったし、観光のようなにこやかな緩やかな感じも無い。

3人の着物もバラバラ。
何かのお仕事だったのかもしれない。
もしかしてモデル?

なんて、特急の中であれこれ妄想してしまいました。

樟葉で乗り換えたら先頭車両は誰も乗っていない思わず降りて、表示板を確認してしまった。
運転士さんは外を確認されていて、見えたかっただけでした〜。



初代準男爵サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(1857--1934年)イングランド ロウアー ブロードヒース生まれ、イングランド ウスター没

『独創主題による変奏曲』 
( Variations on an Original Theme for orchestra)
『エニグマ変奏曲』または『謎の変奏曲』( Enigma Variations)作品36は管弦楽のための変奏曲は

出版に際して「エニグマ」(Enigma)を付記することをエルガーも認めました。本作品は「描かれた友人たち (My friends pictured within)」に献呈されています。

「エニグマ」とはギリシア語で、「なぞなぞ」「謎かけ」「謎解き」といった意味です。

実はほとんどの「謎」は解けています。
しかし主題についての「謎」についてはまだわかっていません。

エルガーによると、
「その謎については説明しまい。その「陰の声」については想像できないようにしておこう。 諸君に警告しておくが、変奏と主題の明らかなつながりは、しばしば、ごくわずかなテクスチュアの問題でしかない。 もっと言えば、曲集全体を、もう1つのより大きな主題が貫いているのだが、それは演奏されないのである。 (中略)かくて基本主題は、その後の展開においてさえ、決して登場せず、(中略)その主要な性格は決して表舞台には出てこない」

エルガーは「隠された主題」がそれ自体、「よく知られた」ものであるとも仄めかしています。

仮説はいろいろ立ったものの、完全に合点がつくような謎解きはいまだに1つも出されていません。

英国国歌『国王陛下万歳』とする説、スコットランド民謡『オールド・ラング・サイン』(蛍の光)であるとする説、『エニグマ変奏曲』の初演コンサートで一緒に演奏されたモーツァルトの『交響曲第38番「プラハ」』がそうだとする説などがありますが、完全に納得する説はありません。

その第9変奏曲「ニムロッド」の謎はまず、その名前でしたが、楽譜出版社ノヴェロに勤めるドイツ生まれのアウグスト・イェーガー(August Jaeger, 英語式にはオーガスタス・イェイガー 1860 - 1909年)

にエルガーが付けた愛称だということが分かっています。

「ニムロッド」は、旧約聖書に登場する狩の名手「ニムロデ」を指します。

この愛称は、ドイツ語の “イェーガー” (Jäger)が「狩人」や「狙撃手」に通ずることにちなんでいます。

エルガーは第9変奏において、イェーガーの気高い人柄を自分が感じたままに描き出そうとしただけでなく、2人で散策しながらベートーヴェンについて論じ合った一夜の雰囲気をも描き出そうとしました。

また、この曲の旋律は2人が大好きだったベートーヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』の第2楽章の旋律が下敷きになっています。


エルガー自身の言葉によると

「私がJaegerにつけたあだ名である。Jaegerは批評家として、そして音楽家たちの友として、よく知られていた。

この変奏曲は、すべてが“肖像”であるわけではない。いくつかの変奏は雰囲気だけを表しているし、またいくつかのものは、描かれた人と作曲者の2人だけが知る出来事を描写している。

もしA. J. Jaegerの人格と気質を描写しようとすれば、このゆったりした第9変奏に加えて、何か情熱的で気まぐれなものが必要になっただろう。

夕方の散歩をしながら、Jaegerは「緩徐楽章に関して、全盛期のベートーヴェンに匹敵する者はいないだろう」と言った。私はその意見に心から賛成していた。

この変奏の最初の小節が、ピアノソナタ第8番『悲愴』の緩徐楽章を暗示するように作曲されていることに気づくだろう。

Jaegerは長年の親友であり、私や他の多くの音楽家たちにとっての大切な助言者であるとともに、厳しい批評家であった。Jaegerと同じ立場に立った人はいても、Jaegerに匹敵する人はいなかったのだ。」




ご当地のお菓子

2024-11-07 21:00:00 | ロマン派
台湾のお土産の台湾動物クッキー。

パッケージもおしゃれ

センザンコウ穿山甲 

哺乳類だそうです。これだけの種目でアルマジロみたいに硬い鱗で覆われているそうです。

コウテイキジ皇帝雉

霧が濃く、天気が悪く、薄暗いときに出てくるのを好むため、「霧の王」と呼ばれているそうです。
台湾のみに生息しています。

台湾ツキノワグマ

やはり台湾の固有種で絶滅危惧種に指定されています。

台湾イノシシ

台湾固有種で少数民族の食肉となっていて、食文化と種の保存で論争になっているそうです。

私の中で台湾土産のお菓子といえば、パイナップルの入ったパイやクッキー、月餅でしたが、このお菓子はイメージを一変させました。

お客様にも出してみましたが、評判が良く、見た目もユニークなので盛り上がるし、材料も台湾で採れた黒糖を使うなど厳選されていて、優しい甘さで美味しかったです。
また、お土産買ってきてね💖

1876年までライプツィヒではヒバリの肉が食べられていました。

ライプツィガー レアヒェという料理はライプツィヒの名物で、ヒバリ(レルヒェ)が使われ、ハーブと卵と一緒にローストされ、パイ生地のフィリングとして提供されていました。
1720年には、ライプツィヒで40万羽のヒバリが販売されたと言われています。

農業の重要性を認識したザクセン王アルブレヒト1世(1828-1902年)により

によりヒバリの狩猟が1876年に禁止されます。 (ヒバリは穀物類につく虫を捕食するので)

ウィーン食文化辞典(1894年発行)

によると、19世紀末までライプツィヒからヒバリは輸出されていました。

禁止後は、伝統的なペストリーは牛肉のペストリーに取って代わられました。

狩猟禁止が課されて間もなく、地元のパティシエがライプツィヒのレルヒェの新しい甘いバージョンを作り出し、ヒバリの保存に貢献したそうです。
 
砕いたアーモンド、ナッツ、チェリーを混ぜたショートクラストでできています。

チェリーは鳥の心臓を象徴しています。
その上に、交差した2本の生地の格子が乗っています。

ライプツィヒのレルヒェ(ヒバリ)という名称は、1998年以来ザクセン州パン職人組合によって保護されています。

ライプツィヒの名物と言えばおそらくこの方もヒバリ料理を食べていたかも。

フェリックス メンデルスゾーン (1809-1847年) 自由都市ハンブルク生まれ、ザクセン王国ライプツィヒ没

1847年メンデルスゾーン
は、1839年、ヨハン ウーラント (1787-1862年)の詩に 曲をつけています。
混声アカペラ合唱曲集「最初の春の日」op48の4番目の曲

「レルヒェゲサング」
「ヒバリの歌」
何と愛らしい響きだ!
おおヒバリたちよ!
お前の歌は空高く上り 
幸せに飛び交う
お前も運んでくれ 
私をそこまで
私も歌おう 
お前と一緒に
私たちは昇って行こう
雲を抜けて太陽まで




骨の悩みが解決しました。

2024-11-06 21:01:00 | ルネッサンス
次男骨折の最終診断。
レントゲンを撮って、術後最終検診。
ようやく病院を卒業できます。

写真は「照射中」だけが昭和なレントゲン室。

次男、今年2月に職場で転倒し左膝蓋骨を骨折。チタンの杭で骨をくっつける手術をしたら手術失敗して杭がゆるゆる。
骨が早くくっつく超音波機器をかしだされ1ヶ月毎日20分、それを当て、半年後の先月に杭を抜きました。

左膝に15センチほどの縫い合わせた傷がありますが、ほぼ痛みはないそうで卒業になりました。

労災なので料金は掛かりませんでしたが、2ヶ月は休職。車で通勤。
家族もいろいろ影響がありました。
怪我はしないのが1番です。 
私もほっとしました。

聖母マリアのカンティガ
聖母マリアのカンティガ集(Cantigas de Santa Maria)は、中世ガリシア・ポルトガル語(イベリア半島北西部で使われていた言語)で書かれました。
420曲からなる頌歌(カンティガ)集です。

カスティーリャ王アルフォンソ10世(アルフォンソ賢王、1221年~1284年)
アルフォンソ1世カンティガ集の一部の作者とも言われています。
の治世に成立しました。

中世の単旋律曲集としては最大のもののひとつで、すべての曲が聖母マリアに言及しているのが特徴です。
エル・エスコリアル修道院のE写本は、様々な楽器を奏でる2人組の音楽家たちを描いたカラーのミニアチュールで彩られています。

また、物語の挿絵になっているのもあります。

カンティガの322番目の曲は
貪欲に食べた男が喉にウサギの骨を詰まらせてしまい、マリアの奇跡で骨が取れて助かったと言う内容になっています。


乾いた花でも

2024-11-05 21:01:00 | ロマン派
連休最終日は実家でレッスン。
詳しくは言えませんが、いろいろな事情、お仕事、健康問題などなどあってもずっと通ってくださる生徒さんたちに、本当に感謝です。

写真のお花は母が毎月活けているのですか、いつもは植えている菊を切ったり、買ってきて活けるのですが、「庭の菊が、葉ばかり多くなって花が咲かない。買ってきても暑くてすぐ枯れるし…。」と言っていると思ったら…。

まさかの菊の花のフェイク品。

「今年は父のお墓の生花がすぐ枯れる、そりゃそうだね。暑すぎるよね。」と言っていました。

周りのお墓を見たら、美しいお花がたくさん。よく見たら造花。
「これもいいかも。」
ということで母もフェイクを使うことになりました。
生きた葉を一緒に入れているので本物みたいに見えます。

それもいいかもうちも南向きの部屋は暑いので生花は好きですがすぐ枯れるので何年も活けていません。
ドライフラワーを活ける?くらいで。

愛(気持ち)があればフェイクフラワーでも赦してくれるよね。たぶん。


ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国ヴァージナル没

が1875年にパリオペラ コミック座で、初演した「カルメン」は初演時は不評でした。
しかし、客の入りは悪くなく、ビゼーの元へは改作して上演しないかと声がかかります。
ビゼーはそれに応じようとしていましたが、突然慢性扁桃炎に倒れ、療養中に心臓発作を起こし亡くなってしまいます。

オペラ「カルメン」はそれから徐々に人気が出て、現代ではもっとも上演回数の多いオペラの1つです。
初演時のポスター

その中の
「花の歌」は、第2幕で、ドン・ホセ(テノール)によって歌われるアリアです。

歌詞から「おまえの投げたこの花を」(La fleur que tu m'avais jetée)の題名でも呼ばれています。

形式上は二重唱の一部ですが、単独のアリアとしてよく取り上げらています。

第2幕の後半のカルメンとドン・ホセの二重唱の場面。

帰営ラッパに気づいて兵営に戻ろうとするドン・ホセに、カルメンは愛を疑う言葉をかけます。
それに対してドン・ホセは二人が初めて出会ったとき(第1幕、「ハバネラ」の場面)に受け取った花を取り出し、愛を歌います。

「花の歌」
おまえが投げた この花を
俺は牢の中でも手放さなかった
しぼんで ひからびてしまっても
甘い匂いは変わらなかった

何時間も 何時間も じっと
まぶたを閉じたまま
その匂いに酔いしれながら
闇の中で おまえを 思い浮かべた

おまえを呪ってやりたいと思った
おまえを憎んで こう言いかけた
なんでまた あんな女に
俺はめぐりあったんだろう?と

そのあとで  そんな自分を責め立てて
気がつけば 俺の望みはただひとつ
ただひとつ 希望はひとつ もう一度 おまえに会うこと
おお、カルメン!おまえに会うことだけ!

なぜなら おまえはやってきて
俺をちらりと見ただけで
もう 俺をとりこにしてしまったんだ
おお!俺のカルメン!
俺はおまえのものだったんだ!
カルメン!おまえを愛している!





ミルリトンはフランスのお菓子

2024-11-04 21:01:00 | ロマン派
月曜日は渡辺橋駅近くのサロン・ド・プリンシパルでフルートアンサンブル「エスカル」定演前大阪での最終練習でした。
これてす。

実は六甲アイランドオルフェオでは、9日にもう一度練習があります。

プログラムは
ビゼーの「アルルの女」第2組曲
エルガーのエニグマより「ニムロッド」
ドビュッシーの「小組曲」
チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の組曲

私は「小組曲」をコンサートフルートで他をバスフルートで演奏します。
バスフルートはGの音が出なくなって、何度締めても緩むので、榎田先生が「キーのネジをボンドで止めなさい。」といわれるのでボンドで止めるという暴挙に出てからまあまあ音が出るようになりました。
タンポがだめなのはどうしようもありません。
ノーブランド、ノーメーカーの古い楽器をお借りしたので、楽器屋さんも調整する部品が無いし、取り寄せるにも情報が無いのでわかりません。ということで断られました。

が、今回はこのまま、頑張ります。
ベストを尽くすしかありません。

榎田先生、今頃になってドビュッシーが終わってバスフルートに持ち替えようとすると、「あれ?フルートはこれだけだったかな?」ですって!
まあ、そんなものでしょうね。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

が1892年に作曲したバレエ音楽「くるみ割り人形」はマリインスキー劇場で初演されました。

1892 年12 月6 日 (18) 、 サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場でのバレエ初演

1892年に帝国マリインスキー劇場で上演された劇「くるみ割り人形」の断片:マリアンナ - リディア・ルブツォワ、クララ - スタニスラヴァ・ベリンスカヤ、フリッツ - ヴァシーリー・ストコルキン
エルンスト テオパルド ホフマン(1776-1822年)プロイセン王国 ケーニヒスベルク生まれ、プロイセン王国ベルリン没
の寓話「くるみ割り人形とねずみの王様」に基づいています。
台本は、1844年に父アレクサンドル・デュマによって作られた童話の改作からなっています。

「葦笛の踊り」はクララがネズミの王様から救ったくるみ割り人形が王子の姿を取り戻し、招待されたお菓子の王国でクララと王子の前で踊られるディベルティスマン(気晴らし)の中の一曲です。

ロシアの初めの台本では
羊飼いの踊り (デンマークのマジパン)
となっていました。 

マジパンはアーモンドと砂糖を練ってペースト状にしたもので、デンマークではケーキやタルト、チョコレートに入れるなど、スイーツづくりには欠かせないものです。


このチョコの中に入っているものがマジパンだそうです。

フランス語では
Danse des mirlitons
ミルリトンの踊り

それがなぜミルリトンになったのか?
謎はすぐ解けました。
アンデルセンのホームページにあったこのケーキ。

デンマークケーキと書いてあって中にマジパンが入っています。

フランスのミルリトン

ミルリトンはアーモンドクリームのタルトだそうです。
フランス ルーアン(ノルマンディー地方)の伝統菓子で

似ているでしょう?

ミルリトンのもう一つの意味は、
1つはカズーという声を音に変換する仕組みを使った笛の意味ですが、チャイコフスキーの葦笛とは似ても似つかない音色です。

もう1つが騎兵の帽子とのこと。

ルイ15世のルイドール金貨も、

ミルリトン。関係ないですね。

なぜ葦笛?

ロシアの次に初演サれたのがアメリカでその時「Dance of Reed pipe」葦笛の踊りが使用されました。
それをフランスに入れた時に誤訳された…。
では、デンマークと羊飼いはどこに行ったのか?
フランスのお菓子のミルリトンに引っ張られて無くなった?

謎は消えません。
ミルリトンはすっかりフランス風に葦笛を持って、踊られたりもしています。







聖なる御子

2024-11-03 21:00:00 | バロック
金曜日1週間ぶりに赤ちゃんの保育に行ってみると
「ずいぶんしっかりしましたね。」
お母さん「うつぶせになってずり這いしそうなのですが、まだそこで止まっています。」
しばらく抱っこして遊んでいましたが、結構動くので和室で寝かせて遊んでいたら寝返り。
「どうかなぁ?」と思って少し離れたところにおもちゃを置いて見守っていると、ゆっくりですが、ずり這いしておもちゃをつかみました。

それから、少し遠くの別のおもちゃ、またおもちゃへと結局和室中をぐるぐる。
子どもが成長するのは早いです。
うれしくなってしまいました。

連休初日の土曜日。
枚方市は午後から大雨警報で、次男は職場に呼び出されて出勤していきました。
全国で警報がでているようです。
どうか被害がありませんように🙏

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ライプツィヒ没

カンタータ第1番
「あしたに輝く たえなる星よ」
BWV 1用途:受胎告知の祝日(3月25日)
Wie schön leuchtet der Morgenstern

「 明けの明星はいかに美しく輝くか」は、フィリップ・ニコライによるルター派の賛美歌です。

ニコライにより1597年に書かれ、1599年に初めて出版されました。

この賛美歌は、何世紀にもわたって音楽作品に影響を与えてきましたが、特にバッハのコラールカンタータ『明けの明星の美しく輝くもの』BWV 1が有名です。

ペーター・コルネーリウス、フェリックス・メンデルスゾーン、フーゴ・ディスラー、エルンスト・ペッピング、・カーゲル、ナジ・ハキムもこの歌詞に作曲してぃます。

ニコライの 1599 年のFrewdenspiegel deß ewigen Lebensに初掲載
これは受胎告知のための教会カンタータです。
カンタータが作曲された1725年当時、受胎告知(3月25日)は枝の主日フィリップ・ニコライの歌「明けの明星のなんと美しく輝くこと」(1599年)に基づくバッハのコラールカンタータの一つです。  

カンタータの初演で使用された最初のソロヴァイオリンパート
ニコライは1597年の疫病への対応としてこの歌詞を書きました 7つの節からなるこの賛美歌は、神秘的な結婚の歌である詩篇45篇に基づいています。ヨハネの黙示録22章16節によれば、イエスは明けの明星と同一視され、詩篇の花婿です。
(写譜:ヨハン・アンドレアス・クーナウ)
ライプツィヒトーマスカントル(聖トーマス教会のカントル)

新教会、1749年

に就任して2年目に作曲した曲で、四旬節この種の音楽は受胎告知(3月25日聖枝日の頃)と枝の主日(復活祭前の日曜日に当たるキリスト教の移動祝日である。この祝日は、キリストがエルサレムに入城した際に群衆がヤシの枝を振ってキリストを迎え、敬意を表したことに由来します)の両方に適していて、キリストの到来を待ち望む気持ちを表現しています。

バッハのコラール・カンタータ連作、この賛美歌は同時代の詩人によって言い換えられ、賛美歌の最初と最後の節はレチタティーヴォとアリアが交互に続く連続なっています。

1.合唱

あしたに 輝く

恵みと まことの

たえなる 星よ

ダビデの 裔(すえ) なる

イェス 君こそ

わが 心の 主なれ

いとし

やさし

栄えに 満ちたる わが イェス

いと 高き 君よ

(Philipp Nicolai „Wie schön leichtet der Morgenstern“1599 第1節)

2.レチタティーヴォ(テノール)

まことの 神の 子

いかに うるわし

なが 命の 言葉

民ら みな 久しく

待ち望みし もの

み使いの 訪れ

ベツレヘムに 現わる

おお 天(あめ)の み糧(かて)よ

怖れも 死も はや

こを 奪いえず

(以下5.までPhilipp Nicolai 同上 第2~6節の書き換え)

3.アリア(ソプラノ)

充たせや 天なる 神の 炎

あこがれ 望む わが 胸を

心に 迫るは

いと つよく 燃えさかる 愛

地にて 受くる み国の 幸


4.レチタティーヴォ(バス)

この 世の 輝き

心に 触れず

喜びは み神より いず

主の 血に より

わが 糧

備えらるればなり

されば われら

主に 向かい

ともに 捧ぐべし

喜びと 感謝の

ほめ歌をば


5.アリア(テノール)

歌と 楽の音(ね)もて

なれを 讃(たた)えん

感謝と

捧げもの そなえん

心と 念(おも)いは

大いなる 主を 讃えて

高めらる

生ける かぎり


6.合唱

げに 幸なるかな

とこしなえの 主に

より頼めば

あまつ み国にて

主は われを 招き

友と したまわん

アーメン

アーメン

来たれ 喜びの 冠(かむり)なる

主こそ わが 望み

(Philipp Nicolai 同上 第7節)
原詞:作者不詳(フィリップ・ニコライ同名コラールに基づく)
訳詞:大村恵美子


万霊節

2024-11-02 21:00:00 | ロマン派
10月31日5歳児を幼稚園にお迎えに行って、1時間ほど預かりました。
ハロウィンパーティーが幼稚園であったそうで、

こんなのを頭に着けて幼稚園から出てきました。
「ジャック オー ランタンとか、骸骨がいた。」
「明日から11月、カレンダー作ろう!」と言い出し、カレンダーを作りました。

ハロウィンはすっかり根付いているようです。
地元の商店街でも扮装をして「トリックオアトリート!」と言うとお菓子を貰えるお祭りと模擬店が出ていました。

ハロウィンの起源はケルトのドルイド僧の儀式と言うのはどうも捏造だそうです。
といっても近世にはもう信じられていたようで、民間のお祭りという位置づけでした。

キリスト教の万聖節の前夜祭(All Hallow's evening→Hallow's even→Hallowe'en)とされますが、万聖節自体はローマやフランク王国で7世紀~9世紀に始まり、17世紀には万霊節(11月2日)としてイングランドやウェールズ、アイルランドで、これと似たお祝いがあったそうです。

現在、万聖節は祝われず、カトリックでもプロテスタントでも、キリスト教ではハロウィンは正式な祝祭ではありません。

冬の始まりが新年の始まりとされ、11月1日が万聖節、その前日10月31日が万霊節。

あらゆる死者の霊が地上に帰ってくる…日本のお盆のような感じ?

19世紀になりアイルランド、英国から大量に移民がアメリカへ到着し、万聖節が伝えられました。

案外、歴史は浅いです。

リヒャルト・シュトラウス(1864-1964年)バイエルン王国ミュンヘン生まれ、 ドイツ連邦共和国バイエルン州オーバーバイエルン行政管区
ガルミッシュ=パルテンキルヒェン郡
ガルミッシュ=パルテンキルヒェン没

が1885年ヘルマン・フォン・ギルムの詩につけた
歌曲「万霊節」Allerseelen

初めて作った歌曲集『「最後の葉」("Letzte Blätter" )による8つの歌曲』作品10の中の一曲です。

シュトラウスの歌曲の中でも特に演奏機会の多い作品で、畑中良輔は、「この比類のない美しさと清純さは、彼の壮大な交響詩が滅ぶことはあっても、おそらく永遠のものとして残るであろうと思われる」と言っています。

「万霊節」
テーブルの上に香り高い木犀を置いて
名残の赤いアスターをこちらへ

そしてまた愛について語り合おう
かつてのあの五月のように

手を伸べておくれ
僕はひそやかに握ろう

もし人に見られても気にしない
甘いまなざしをひとめ僕に

かつてのあの五月のように

今日はどのお墓も花と香りに満ちて
1年に1度だけ死者が自由になる日

僕の胸においで もう一度君を抱きしめよう
かつてのあの五月のように

かつてのあの五月のように


バロック絵画と音楽

2024-11-01 21:00:00 | バロック
多田有里さんのさをり織り個展に行ってきました。
さをり織りは、いろいろな人が織っていますが、有里さんのさをりは、地模様がうっすらと浮き出て
特別です。

カラフルな色味は見ているだけで元気が出てきます。

今回はちょっと渋目のバッグも!
私はグリーン系の小さなバッグを手に入れました。

温かい手作りの味。

交野カフェチアーズの日替わりランチも量が絶妙でちょうどよかった。
お味噌汁も野菜たっぷり。
美味しかったです。

音楽と絵画は強く結びついています。
バロック時代の
セオドア ロバーツは
アンソニー・ヴァン・ダイク作「セオドア・ロンバウツの肖像」

フランドルの画家で、主に活気に満ちた劇的な集まりを描いたカラヴァッジョ 風の風俗画や宗教的なテーマの作品で知られています。中には音楽をテーマに描かれた絵画があります。

ロンバウツは、裕福な仕立て屋のバルトロメウス・ロンバウツとバルバラ・ド・グレーヴの息子としてアントワープに生まれました。

1608年にフランス・ファン・ランクフェルトの弟子となり、後にアントワープでアブラハム・ヤンセンス、おそらくニコラ・レニエにも師事しました。

1616年にローマに渡り、1625年までそこに滞在しました。

彼は、フランチェスコ・トルネッリ(トゥルニエ?)とロベール・ドルテイユという2人のフランドル人画家とともに、ローマのサンタンドレア・デッレ・フラッテ教区に記録されています。
フィレンツェを訪れた際にカラヴァッジョ派のバルトロメオ・マンフレーディと出会い、コジモ2世・デ・メディチ

ユスタス・サスターマンスの後のコジモ2世
のために働いた可能性があります。1622年にはピサにも旅行しました。

1628年から1630年にかけて、ロンバウツはアントワープのギルドの助祭を務めました。

1635年、ロンバウツは他の芸術家と共同で、ルーベンスが総指揮を執ったアントワープのフェルディナンド王子枢機卿の歓喜の入場の装飾計画を手がけました。

彼はこの装飾プロジェクトの完成後間もなくアントワープで亡くなりました。


「二人の音楽家」は1616-1625年に描かれました。

「バッカスとの音楽団」
ロンバウツと妻と娘

描いたヴァン ダイクの2枚のペンダント肖像画を参考に、この構図の中央のカップルは、ロンバウツとその妻を表していると考えられています。
この2人がカップルとして解釈されるのは、女性が男性の腕に手を置いているところからです。

17世紀の芸術や文学では、カップルが一緒に音楽を奏でたり歌ったりすることは、愛を表す一般的な表現でした。

さらに、左側の音楽家がリュートを調律しているのは、結婚生活の調和の象徴として意図されています。

音楽はさらに、悲しみを癒すものと信じられていました。ここで描かれている構図では、音楽と愛の喜びが、バッカス(酒の神)が持ってきたワインによって高められています。

「リュート奏者」1620年頃
これは単なる音楽家の肖像画ではなく、構図に含まれる物体を通じて五感を暗示している連作の1枚です。
聴覚(リュート)、味覚(ジョッキ)、嗅覚(パイプ)、視覚(楽譜)、触覚(ナイフ)があります。

「音楽コンサート」は
セオドア ロンバーツ(1597-1637年)によって1625-1637年の間に描かれました。


エマニュエル・アドリアエンセン( 1554年頃アントワープ生まれ - 1604年2月27日アントワープに埋葬)は、フランドルの リュート奏者、作曲家、音楽教師でした。

彼はPratum Musicum


を著しました。 

これにはリュート独奏の楽譜と、さらに重要なことに、複数のリュートとリュートと声楽を含む様々なアンサンブルのためのマドリガーレの楽譜が含まれています。

彼はまた、自身の音楽学校で音楽教師としての活動を通じて、次世代のリュート奏者に重要な影響を与えました。

エマニュエル・アドリアンセンは1540年から1555年の間にアントワープで生まれました。

彼の幼少期や訓練についてはほとんど知られていません。

1574年に音楽を学ぶためにローマに渡ったことは知られています。

アントワープに戻ると、兄のギースブレヒトとともにリュート学校を開きます。

兄弟は1587年にアントワープの音楽家ギルドと対立しましたが、それは彼らがギルドのメンバーにならずに音楽家として活動していたためです。エマニュエルは後にギルドのマスターになりました。

彼は1584年にシビラ・クレランと結婚し、6人の息子と1人の娘をもうけました。

彼らの息子である

アレクサンダー(1587年 - 1661年)、ヴィンセント(1595年 - 1675年)、ニクラエス(1598年 - 1658年)は、それぞれ静物画家、戦争画家、肖像画家になりました。

アントワープ陥落(八十年戦争(オランダ反乱)中の1584年7月から1585年8月までの1年以上続いた包囲戦の末、1585年8月17日にアントワープが陥落しました。)  


ジブラルタルの戦い、1607年
の前、エマニュエルはカルヴァン派だったようで、アントワープ陥落後に長男にのみカトリックの洗礼を受けさせました。 

アントワープ陥落後のアントワープ市民衛兵の粛清記録には、彼はカトリック教徒として登録されています。

彼の富とアントワープ社会の上層部との良好なコネが彼を守ったのかもしれません。

エマニュエルは後に市民衛兵 の隊長に任命され、定期的な収入を得られるようになりました。


聖セバスティアヌスを守護聖人とするアムステルダムのアーチェリー民兵隊、1653年、バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト作

1595年、彼はネーデルラント共和国の軍隊に占領されていた隣町リールの解放に参加しました。

アドリアンセンは裕福な市民となり、おそらくは貴族を含む地元の名士たちと頻繁に会い、リュートの妙技を高く評価されました。

またリュート音楽の出版により、国際的に名声を得ました。 

教師として、彼は出版した優れたタブ譜と、おそらくデンスやヨアヒム・ファン・デン・ホーヴェらを生徒にしていたアントワープのリュート学校の創始者であったことから、重要な役割を果たしました。

エマニュエル・アドリアンセンは、1604年2月2日に遺言を残してから、1604年2月27日にアントワープの聖ジェームズ教会で葬儀と埋葬が行われるまでの間にアントワープで亡くなりました。

彼の死後、妻は再婚し、後に末息子のニクラエスを連れてネーデルラント共和国のライデンに移住しました。

ロンバウツの絵画に出てきたリュートは、このような音楽を奏でていたのかもしれません。

リュート独奏曲

Nonette ノネット

(Une Jeune Fillette若い女の子), Almandアルマンド -

Emanuel Adriaenssenエマニュエル アドリアンセン