気ままに

大船での気ままな生活日誌

ラッフルズ卿とシンガポール川 (シンガポール旅#6)

2015-02-22 10:47:57 | Weblog

ぼくらの泊まったホテルの、通りを挟んだ向かいにラッフルズホテルがある。シンガポールでも随一の名門ホテルで、サマセットモームやチャーリーチャップリンら名士が宿泊している。ホテルだけではなく、ラッフルズの名を冠した場所(プレイス)、ショッピングセンター、学校、駅などもある。シンガポール人にとってはラッフルズは国の建設者として、特別な人なのだ。

田村慶子著の”シンガポールを知るための62章”から、ラッフルズの生い立ちを少しメモしておこうと思う。彼は1781年にロンドンと西インドを往復する小さな定期船の船長の子として船の中で生まれた。家庭は貧しく、14歳で学校を離れ、英国東インド会社の臨時職として就職した。満足な教育を受けられなかったラッフルズは、職務を忠実にこなした仕事の余暇をすべて学問に費やした。上司に認められ、正社員に抜擢され、さらに、ジャワ副総督など重要なポストに就き、英国のアジア植民地政策遂行の一翼を担った。

そして、1819年1月、ラッフルズはシンガポールに上陸した。シンガポール河口にその記念碑がある。当時のシンガポールは、マレー漁民数百人が住む、淡路島程度の面積の寂れた漁村であったが、彼は地政学的な重要性を見抜いていた。マレー半島の南端にあり、インド洋と太平洋を左右にみて、また大陸と島々を結ぶ十字路的な位置にあったからだ。そして、その考えは見事に当たり、世界に開かれた中継貿易港として発展するのである。

さて、19世紀末になると、英国がゴムのプランテーションと錫鉱山開発のためにマラヤに本格的に介入するようになる。中国、インドから労働者が大量に移入してきて、中継基地としてのシンガポールは発展する。そして、貿易関係者や港湾労働者がシンガポールに居住するようになり、人口も急増する。1931年には、人口55万人となり、そのうち、華人が75%、マレー人12%、インド系9%という比率であった。因みに現在の人口は500万人を超している。ただ人種の比率は当時と変化はないようである。

そして太平洋戦争が勃発し、英国極東軍はあっけなく敗退し、1942年から3年間、日本統治となり、シンガポールは、”昭南島”というに名に変わる。官僚組織の中では、マレー人、インド人が優遇され、華人は冷遇されたという。

戦後、シンガポールは1963年、英国から独立し、マレーシアに組み込まれるが、さらに、1965年8月9日、リー・クアンユー(初代首相)はマレーシアからの分離独立を宣言する。そして今年が50年目となるのである。

独立当時は貧乏国で、人々が国外に逃げないようにと、持ち家制度を推進したんですよ、とガイドさんが教えてくれる。持ち家率、90%だそうだ。ジャングルは水資源確保のため残し、畑もなく、食料はすべて輸入、園芸品として蘭だけは輸出しているとのこと。衛生管理も徹底していて、ボウフラが湧くような水溜まりは一切つくらない。抜き打ち検査があり、屋根に水がたまっていれば罰金刑。ゴミはもちろん、落葉も、毎朝掃除する。水道水も安心して飲めるし、街はきれいだ。

なお、ラッフルズは植物学、動物学にも造詣が深く、自分が隊長となり密林を探検し、マレー半島と東南アジア島嶼部に分布する、世界一大きな花をつける寄生植物を発見した。のちに、その学名は、彼の名に因んで、ラフレシア(Rafflesia)と名付けられたそうだ。その実物大模型が上野の科博にあるようなので、その内、見に行きたい。

今朝はちょっと、シンガポールの歴史的なことをメモしてみた。この文章に相応しい写真といえば、ラッフルズ卿上陸地点の碑なのだが、撮ってこられなかった。ぼくらのホテルから真っ直ぐ行くと、シンガポール川に着く。川の上流側にその記念碑があるのだが、てっきり河口方面にあると勘違いし、見逃してしまったのだ。

でも、シンガポール川の遊覧船で、その地点は観た。そこからの景色でラッフルズ卿を偲んでみたい。

では、クラークキーから出発

クラークキーのカラフルな建物

クラークキーから2つの橋をくぐりぬけ、ボート・キーに入る。ここは、シンガポール川の河口に位置する。アジア文明博物館がみえる。ラッフルズ卿上陸地点はここより、少し、上流側。

そして、河口にはシンガポール観光のランドマーク、マーライオンが。

新ランドマーク、マリーナベイサンズも向かいに。

ラッフルズ卿が礎を築いたシンガポールは、現在、世界第4位の金融センター、世界最繁忙の5港の一つ、世界三位の一人当たり国民所得という国家に成長した。
 

 

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