団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

人のイノチの価値は同じでも、同情心の大きさは違います。

2018-10-01 04:19:09 | 日記
中日新聞の日曜日版に「おじさん図鑑」という飛島圭介さんのコラムがあります。
今回は「イノチの差」というタイトルでした。



 全ての人間の<イノチは等価>だ、というのは当たり前のことであろう。
一人一人のイノチはかけがえのない大切なものだ。
そこに、男女・人種・国籍・年齢その他の「差」はない。
また、あってはならないことである。

 しかし、事件や事故などで、幼い子どもがその犠牲になった場合と、
高齢者が被害者となった場合を比べるとどうだろう。

 こんなことを書くと、大変なお叱りを受けるかもしれないが、
一般世間の同情心や憤り、あるいは哀悼の度合いは大きく違ってくるのが
本当のところではないか。
はっきり言って、子どもが被害者となった場合の方が、
世間の反響は鋭く大きくなる。
ニュースに接した多くの人々が涙を流し、
「絶対に許せない」と力を込めたりする。

 ところが、高齢者が被害者となった場合、
「え、90歳を過ぎてんの。だったらまあ・・・・」と
なんのためらいもなく断じられがちだ。

 「老」の側になったおじさんとしては、ムッとせざるを得ない。
「年寄りだからといって、何の落ち度もないのに
突然人生を断ち切られた無念は合理化できない。
イノチの価値に老幼の差などない。
高齢者だって、未来はあるぞ。」

 以上です。

 
 確かにその通りです。(苦笑)
私も「老」の側になったおじさんですが、
「イノチの価値に老幼の差などない。」と言って力むつもりはありません。

 やはり幼い子が被害者になった場合と高齢者が被害者になった場合の
同情心の大きさは違います。
人のイノチの価値は同じでも、同情心の大きさは違います。
シニアになった方は、ある程度自分の人生を歩めただろうと
思い諦めもつきますが、幼い子が被害者になった場合は、
人生これからなのにと、涙してしまいます。

 私はその差は仕方ないと思うのですが。(苦笑)







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コメント (6)
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