中日新聞に「永六輔は生きている」という表題で、サブタイトル「いま何を語るか 死者にはもっと敬意を」とのタイトルで隈元信一さん(ジャーナリスト)がエッセーを書かれています。
タイトルを見て「あれっ」と思った方もおられよう。
永六輔さんは2016年7月7日に亡くなった。
こんな言葉を遺して。
「人は、死んだときが死じゃない。
死者を覚えている人がいる限り、その人の心の中で生き続ける」
「『大往生』というのは、死ぬことではない。往生は往(い)って生きることである」
コロナ禍の中で「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」が歌われる。
作詞の永六輔を覚えている人も多いに違いない。
放送作家、作詞家、ラジオタレント・・・。
「いろんなことをやってきましたねえ」。
密着取材を許された私がそう言うと、「ぼくの本業はね、旅の坊主です」。
東京・元浅草の最尊寺の次男坊として生まれ、旅をこよなく愛し、
「遠くへ行きたい」を作詞、同名のテレビ番組も始めた。
今なら、こう怒るのではないか。
「コロナで亡くなった人が遺族に看取られず、遺骨で家に戻るなんて、とんでもないよ!」
「人間にとって一番大事な移動の自由を簡単に奪っていいの!」
声が聞こえてくる気がしてテレビを見ていたら、
イタリアの哲学者、アガンベンが似た発言をしていることを知った。
(NHKのBS-スペシャル「コロナ新時代への提言〜変容する人間・社会・倫理〜」)。
番組内で言及した国分功一郎東京大准教授によれば、アガンべンが言いたいのは
「死者の権利」と「移動の自由」だという。
「死者に敬意を払わなくなったとき、社会はどうなってしまうのか」
「移動の自由は何としてでも守らなくてはいけない」。
アガンベンの主張に膝を叩き、ラジオ番組や講演で引用する永さんの姿が目に浮かぶ。
二〇〇二年、妻の昌子さんを在宅看護」で看取ったあと、こう語っていた。
「痛みや苦しさを癒すのに、家族が肩を揉んであげたり手を握ったりすることが、いかに患者に安心感を与えるか・・・」(『妻の大往生』)
自身も在宅看護で、家族に看取られながら息を引き取った。
感染の恐れがあるとはいえ、隔離状態で死を迎えた人に心を寄せ、怒らないはずがない。
国分さんは「哲学にとって大事なのは、問いを立てること」と話す。
永さんは問いを立てる名人だった。
例えばこんな問いだ。
女性の乳首は赤ちゃんにとって大事なものだが、男にも乳首があるのはなぜか。
医者や哲学者に聞き歩く。
進化論を研究している東大の先生が「こんなすばらしい質問をしてくれた生徒はいない」と感激。
三十五億年前の生命誕生から語り始め、
「男の胸に残っている乳首は、お母さんのお腹の中で最初、女だったときのなごり」と解き明かす。
この話を永さんは女子刑務所の講演で語った。
「女性の体がいかに人間の生命というものを受け継ぎ受け渡していくうえで大事なものかということを、女の人にわかってもらいたい」
「焦らないでゆっくりと生きてください」(『悪党諸君』)
刑罰として移動の自由を奪われた受刑者への激励。
コロナ自粛で移動が不自由な私たちにも温かく響く。
永さんは、問いに答える名人でもあった。
TBSラジオの長寿番組だった「全国こども電話相談室」の常連回答者。
ある子の質問に絶句したことがあった。
「どうせ死ぬのに、どうして生きているの?」
この質問に答える本にしたいと思ったのが、大ベストセラー「大往生」だった。
「老い」「病い」「死」について語る「巷(ちまた)に生きる人たちの言葉。
いま読み直しても古さを感じない。
「ほら、ぼくは死んでないでしょ」。
あの声と笑顔がまたよみがえってきた。
以上です。
「大往生」、読んだ覚えがあります。
内容はまるっきり覚えていませんが、
「人は、死んだときが死じゃない。
死者を覚えている人がいる限り、その人の心の中で生き続ける」
「『大往生』というのは、死ぬことではない。往生は往(い)って生きることである」
こんな事が書かれていたんだ!
>「コロナで亡くなった人が遺族に看取られず、遺骨で家に戻るなんて、とんでもないよ!」
確かにそうですね。
死者にあまりに敬意が無さ過ぎますね。(苦笑)
>「人間にとって一番大事な移動の自由を簡単に奪っていいの!」
コロナをうつさないようにする為、他県へ移動しないように言われています。
私は、その現状をやむ得ないと思っていますが、人間にとって一番大事な自由と語られると、
もう一度、考えてみたいと思いました。
いのちの歌
タイトルを見て「あれっ」と思った方もおられよう。
永六輔さんは2016年7月7日に亡くなった。
こんな言葉を遺して。
「人は、死んだときが死じゃない。
死者を覚えている人がいる限り、その人の心の中で生き続ける」
「『大往生』というのは、死ぬことではない。往生は往(い)って生きることである」
コロナ禍の中で「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」が歌われる。
作詞の永六輔を覚えている人も多いに違いない。
放送作家、作詞家、ラジオタレント・・・。
「いろんなことをやってきましたねえ」。
密着取材を許された私がそう言うと、「ぼくの本業はね、旅の坊主です」。
東京・元浅草の最尊寺の次男坊として生まれ、旅をこよなく愛し、
「遠くへ行きたい」を作詞、同名のテレビ番組も始めた。
今なら、こう怒るのではないか。
「コロナで亡くなった人が遺族に看取られず、遺骨で家に戻るなんて、とんでもないよ!」
「人間にとって一番大事な移動の自由を簡単に奪っていいの!」
声が聞こえてくる気がしてテレビを見ていたら、
イタリアの哲学者、アガンベンが似た発言をしていることを知った。
(NHKのBS-スペシャル「コロナ新時代への提言〜変容する人間・社会・倫理〜」)。
番組内で言及した国分功一郎東京大准教授によれば、アガンべンが言いたいのは
「死者の権利」と「移動の自由」だという。
「死者に敬意を払わなくなったとき、社会はどうなってしまうのか」
「移動の自由は何としてでも守らなくてはいけない」。
アガンベンの主張に膝を叩き、ラジオ番組や講演で引用する永さんの姿が目に浮かぶ。
二〇〇二年、妻の昌子さんを在宅看護」で看取ったあと、こう語っていた。
「痛みや苦しさを癒すのに、家族が肩を揉んであげたり手を握ったりすることが、いかに患者に安心感を与えるか・・・」(『妻の大往生』)
自身も在宅看護で、家族に看取られながら息を引き取った。
感染の恐れがあるとはいえ、隔離状態で死を迎えた人に心を寄せ、怒らないはずがない。
国分さんは「哲学にとって大事なのは、問いを立てること」と話す。
永さんは問いを立てる名人だった。
例えばこんな問いだ。
女性の乳首は赤ちゃんにとって大事なものだが、男にも乳首があるのはなぜか。
医者や哲学者に聞き歩く。
進化論を研究している東大の先生が「こんなすばらしい質問をしてくれた生徒はいない」と感激。
三十五億年前の生命誕生から語り始め、
「男の胸に残っている乳首は、お母さんのお腹の中で最初、女だったときのなごり」と解き明かす。
この話を永さんは女子刑務所の講演で語った。
「女性の体がいかに人間の生命というものを受け継ぎ受け渡していくうえで大事なものかということを、女の人にわかってもらいたい」
「焦らないでゆっくりと生きてください」(『悪党諸君』)
刑罰として移動の自由を奪われた受刑者への激励。
コロナ自粛で移動が不自由な私たちにも温かく響く。
永さんは、問いに答える名人でもあった。
TBSラジオの長寿番組だった「全国こども電話相談室」の常連回答者。
ある子の質問に絶句したことがあった。
「どうせ死ぬのに、どうして生きているの?」
この質問に答える本にしたいと思ったのが、大ベストセラー「大往生」だった。
「老い」「病い」「死」について語る「巷(ちまた)に生きる人たちの言葉。
いま読み直しても古さを感じない。
「ほら、ぼくは死んでないでしょ」。
あの声と笑顔がまたよみがえってきた。
以上です。
「大往生」、読んだ覚えがあります。
内容はまるっきり覚えていませんが、
「人は、死んだときが死じゃない。
死者を覚えている人がいる限り、その人の心の中で生き続ける」
「『大往生』というのは、死ぬことではない。往生は往(い)って生きることである」
こんな事が書かれていたんだ!
>「コロナで亡くなった人が遺族に看取られず、遺骨で家に戻るなんて、とんでもないよ!」
確かにそうですね。
死者にあまりに敬意が無さ過ぎますね。(苦笑)
>「人間にとって一番大事な移動の自由を簡単に奪っていいの!」
コロナをうつさないようにする為、他県へ移動しないように言われています。
私は、その現状をやむ得ないと思っていますが、人間にとって一番大事な自由と語られると、
もう一度、考えてみたいと思いました。
いのちの歌