中日新聞の「寝たきり社長の上を向いて」の29回目 「コブクロがくれた希望」のタイトルで、佐藤仙務さんのコラムが掲載されていました。
隔週水曜日に掲載されています。
私には大好きなミュージシャンがいる。
「コブクロ」だ。
きっかけは中学三年生のころ、音楽の授業でバンド演奏をすることになり、選曲がコブクロの「桜」になったことだ。
初めて彼らの音楽を耳にした時、真っすぐな詞と心に響き渡る歌声に衝撃を受けた。
何より、二人の「歌を届けよう」とする情熱と誠実さにひかれた。
いつもコブクロの音楽を聴いていた。
気持ちがどん底に落ちても、コブクロの音楽のおかげで、心にすむ「諦め」という魔物を追い払うことができた。
彼らの音楽はすべて好きだが、ピンチの時は必ず「光」という曲を聴く。
歌詞にはこうある。
「暗闇に差し込む光にかざした その手でいつしか 夢をつかむ君に
僕ができる事はただ1つ 君が この道の果てに 目を伏せてしまっても
『こっちだよ』って手をたたいて 君が前を向けるように 君の進むべき方へ」
集中治療室(ICU)でもCDをかけてもらい、聴いていた。
生死の境をさまよい、生きることがつらくて目を閉じてしまいそうな場面でも、
「諦めないで、こっちだよ」と励ましてくれた。
コブクロがいなければ、今の私は私でなかったとも思う。
子どもの頃から「いつか、コブクロの二人に会う」と口に出していた。
周りの人は笑っていたが、私は本気だった。
ファンになって約十年がたった時、私の夢を知った友人につてがあり、
「コブクロの二人に会わせてくれる」という。
私は歓喜した。
しかし、東京へ会いに行く準備をしていた二〇一六年三月、私は入院することに。
肺炎による呼吸器不全で、ICUに入った。
一時は声まで失いかけ、どん底に突っ伏していた。
だが、奇跡は起きる。
<佐藤仙務(ひさむ)=「仙拓」社長>
以上です。
歌の力は凄いですね。
>生死の境をさまよい、生きることがつらくて目を閉じてしまいそうな場面でも、
「諦めないで、こっちだよ」と励ましてくれた。
佐藤さんにとっては、コブクロの「光」という歌が生きる力になっているようです。
私もいろんな歌が好きですが、学生時代一番落ち込んでいた時、親友の訪問と舟木一夫さんの「仲間たち」の歌に
勇気づけられました。
人にはそれぞれ生きる力をもらった歌があるように思います。
このコラムの作者を、Wikipediaを検索しますと
さとう ひさむ
佐藤 仙務
生誕 1991年6月28日(28歳)
愛知県東海市
出身校 愛知県立港養護学校商業科
SBI大学院大学経営管理研究科
職業 実業家、教員、コラムニスト、タレント
佐藤 仙務(さとう ひさむ、1991年6月28日 )は、日本の実業家・重度の身体障害者・椙山女学園大学の非常勤講師。
自らを「寝たきり社長」と名乗る。株式会社仙拓の創業者で代表取締役社長。
講演・イベント出演をはじめ、タレント活動としては芸能事務所「セントラルジャパン」に所属している。
経歴
1992年に脊髄性筋萎縮症の診断を受ける。
2010年、愛知県立港養護学校商業科を卒業。当時、障害者の就職が困難であることに挫折を感じたという。
ほぼ寝たきりという生活を送りながら、2011年に19歳でホームページや名刺の作成を請け負う合同会社「仙拓」(2013年に株式会社に改組)を、
同じく重度の障害を持つ幼馴染とともに立ち上げた。
「働く場所がないのであれば、自分たちで会社を作ろう」という理由で起業したという。
株式会社仙拓では代表取締役社長である。
パソコンを介して、両手によるマウス操作と会話や表情により業務をおこなっている(2018年現在は、左手の親指がわずかに動くだけ、ほかには口だけが動く状態である)。
障害区分は6(認定の最重度)
経営する「仙拓」は、一般社団法人日本経営士会のビジネス・イノベーション・アワード2013において「会長特別賞」を受賞した。
2013年にネットで知り合った筋ジストロフィーの重度障害者を、2014年より「社員」として「仙拓」で雇用している。
雇用者の数は2018年現在は8人となっている。
2015年 SBI大学院大学に特待生制度で入学(経営管理研究科 アントレプレナー専攻)。
2016年11月、地元である東海市から「ふるさと大使」の委嘱を受けた。
2019年現在は、SBI大学院大学を修了し、MBA(経営学修士)を取得。
また、執筆活動としては中日新聞・東京新聞・中日北陸新聞にて「寝たきり社長の上を向いて」を隔週水曜にコラム連載している。
<会社の立ち上げ時、下記のようなエピソードがあるようです。>
株式会社「仙拓」の8年(2)初めての客 秦融(編集委員)
ともに重度の障害がありながら、特別支援学校を卒業後に株式会社「仙拓」を創業した自称「寝たきり社長」の佐藤仙務(ひさむ)さん(27)と、松元拓也さん(30)。
八年間の道のりと、時代の先端を行く二人の夢を追う。
仙拓を立ち上げた当時の佐藤仙務さん(2011年9月3日の中日新聞夕刊から)
右も左も分からないまま起業した二人には、立ち上げ当初の忘れられない思い出がいくつかある。
その一つが、初めて名刺を依頼したお客さん。それは、佐藤さんの近所に住む伯母だった。
「あれはインパクト大きかったですね。僕の伯母って、思ったことストレートに言うんですよ。ものすごく頑張って作って、まさかぼろくそに文句を言われるとは」
◆無知のスタート
最初は「名刺を作る会社を始めたんだよ」「じゃあ、お願いしようかしら」という軽いノリの会話だった。
佐藤さんが松元さんに「伯母に頼まれたんで、作ってあげて」と依頼。
松元さんが複数のオリジナルデザインを見せると、佐藤さんは伯母に聞くこともなく「こんな感じで」と選んでしまった。
「主婦の伯母からは『友達に渡すため』と言われたんです。
バッグなどは派手な色だったので、その感じで進めた。
当たり前だけど、普通は、伯母に見せて『これでどうか』と聞くじゃないですか。
だけど、ぼくらは『できたよ』って。そりゃ文句を言うの当たり前ですよね」
赤を基調にしたデザインの完成品を見せた途端、「えー、何だ、これ!」という反応。
「夜のお店のお姉さんならともかく、主婦がこんな派手な名刺、どこで使えるの!」。
当時は二十枚で五百円。「こんなのじゃ、五百円でも高いわ!」。
すでに作ってしまい、後の祭りだった。
「ぼくら、学校を出た後、仕事をしてたわけじゃなく、仕事のやり方がわからなかった。
子どもの延長で、一般常識も足りてない、そんなレベルだったんですよ」と佐藤さんは苦笑い。
だが、この出来事を前向きにとらえている。
「これが赤の他人で『障害者に頼んであげる』ということで、気に入らなくても『ありがとう』となったら、二人ともだめになっていたと思う」
不評だという連絡を佐藤さんから受け「言われてみれば、なんで見せなかったんだろうな」とつぶやいた松元さんも
「もう悔しくて。やっちゃったな、おれ、甘く見てるんじゃないよ、自分、みたいな。その時に、クリエーター魂に火がついた。
当たり前だけど、ご要望の情報が不十分なまま、既存のもので対応するだけではだめだ、と気づいた。で、もう一度作ったら、ご満足いただいたので」。
仙拓を立ち上げた当時の松元拓也さん(2011年9月3日の中日新聞夕刊から)
伯母の早川厚子さん(60)も当時を思い出して言う。
「覚えています。名刺にも好みがありますよね。
それなのに、赤色がかなり多い名刺で、友達に『こんなのをおいっ子が作ってさ』と笑いのネタにして配った」。
笑いながら「その時、二人目のお客さんは小学校の先生で『お任せでいいよ、と言われた』と言ってて。
見たら、そっちは逆に香典返しみたいなデザインに感じたので
『一回は好意で頼んでくれるかもしれないけれど、こんなんでは二回目はないよ』と言いましたかね」と振り返った。
身内での仕事を基本的に封印した二人は、本格的なビジネスの世界に乗り出す、とはいかなかった。
仕事の取り方が分からないことに変わりはない。ある日、松元さんが佐藤さんに言った。
「おまえが仕事を取って来てくれないと俺、何もできないよ」。まだ、二人きりの仙拓は社長の佐藤さんが営業を担っていた。
「会社を立ち上げたら、誰かが仕事をくれると思っていたんだよね」(佐藤さん)「それは甘いだろ。
障害者だからって仕事なんかくれないぜ」(松元さん)。そんなやりとりの後、佐藤さんがふと気づいた。
◆ネットで開拓へ
「じゃあ、僕たちに仕事をくれたとすれば、それは障害の有る無しなんて関係がなくってことじゃない?」。
松元さんも「確かにそうだな。案外ビジネス社会のほうが俺たちにとってバリアフリーなのかもしれないな」。
その言葉で佐藤さんの営業魂に火が付いた。ネットで仙拓をPRし、面識のない相手にもSNSで積極的に営業を仕掛けていくことにしたのだ。
「彼も自分が何ができるかわかっていなかったと思うので、苦しかったと思う。
それが、SNSを使って営業ができることが分かり、それを武器にするようになった」(松元さん)
とはいえ、本格的な社会の荒波はそこからだった。
<脊髄性筋萎縮症(SMA)> 筋萎縮性側索硬化症(ALS)と同じ運動神経系の難病で、小児期に多く発症する。
食事、入浴、寝返りなど全介助で睡眠時は人工呼吸器を装着。佐藤さん、松元さんともマウスのクリック程度以外の動作はほぼできない。
>食事、入浴、寝返りなど全介助で睡眠時は人工呼吸器を装着。佐藤さん、松元さんともマウスのクリック程度以外の動作はほぼできない。
このような境遇なのに、8人もの社員を雇用されて会社を経営されている。
凄いの一言です。
コブクロ/光