仏教について大まかなことは知っていると思っていたが、実は意外と知らないことが多かった。
以下、私のメモである。【写真は、東大寺大仏を除いて、他からの引用】
釈迦はインドに実在した人で仏教の基本を作ったが、彼が仏教の全てを作ったとは言えない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/a3/7d5514d7b59ce7a3844bd6b82a4548ac.jpg)
彼は、悟りを開いて仏=如来となった。
如来とは、インドの古語サンスクリット語で真理に達した人という言葉の中国語への音写=訳である。
【中国語への意訳ではなく音写であった。それがそのまま日本に移入された。後述するがこのことが理解をむずかしくした。】
釈迦如来を表す梵字[インドの古語サンスクリット語]
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/2d/1412c355929786454d5ef2ec65790a67.jpg)
釈迦如来とは、仏(如来)になった釈迦と言う意味である。
日蓮宗・法華宗では、釈迦如来を信仰する。
法隆寺の釈迦如来像 室生寺の釈迦如来像
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/ad/35191e0a0732f6cab1fbc9e4f0bd353d.jpg)
仏になることが出来るのは人間だけでない。
阿弥陀如来は西方浄土にいて人を救う仏であり、毘盧舎那如来は宇宙的真理のことである。
浄土真宗は、阿弥陀如来を一番に信仰する。
鎌倉の大仏は、阿弥陀如来像である。
京都東大寺の大仏は毘盧舎那仏像で、華厳経がこの如来を詳しく説いている。
その教えを最高とするのが華厳宗である。
真言宗などの密教においては、毘盧遮那如来を大日如来と呼び、それを信仰する。
真如園の大日如来像
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/1d/509f1832973066ef4077269d015b7dc3.jpg)
釈迦如来だけを現世の唯一の仏とする仏教は小乗仏教と言われ、主に南方に伝わった。
他方、大乗仏教では、釈迦如来は多くある仏の中の一つの仏であり、その他にも仏は沢山あるとし、北方に伝わった。
[小乗・大乗の違いはこれだけでなく多岐に渡っているが。]
密教では、真理・仏の教えは言葉では表現・伝えることができない、
それは師から弟子に直接伝えられる秘密の教えとされる。
密教以外の宗派を顕教と言う。
顕教では、真理・仏教の教えは言葉に表すことが出来、そこから学び人々に伝承できるとされる。
日本では真言宗とやや密教度が薄い天台宗が密教と言える。
天台宗の最澄、真言宗の空海は、奈良から平安にまたがる時代に中国の密教寺院で修行し日本に仏教を伝えた。
当時の仏教はまだ貴族の間だけの貴族仏教であった。
平安末期から新しい仏教の波が起こり、鎌倉時代になると新しい仏教が民衆の間に急速に広がった。
浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、 曹洞宗(道元)、 時宗(一遍)、 法華宗(日蓮宗、日蓮) 等が次々生まれた。
さて、如来等をはじめ多くの仏教用語は元々は古代インド語に由来するのだが、
それらの言葉が中国語に音写・当て字化され、日本には漢文でそのまま伝わった。
中国語の文字の読み方は日本式に変化し、そのことがかえって理解の難しさを増した。
例えば南無妙法蓮華経の南無だが、それは帰命[=帰依するの意]の音写であって、南無の漢字そのものには意味はない。
文字を読めなかった民衆にとって、経本を見たり、お経を聞いたりしてもそれを理解することはむずかしかった。
念仏を唱えるだけで救われるという新しい宗教が生まれた背景には、仏教用語の難しさという事情も関係していると私は思う。
さて、釈迦のような生物の人間ではなく、宇宙・実体のない自然の真理や摂理のようなものも仏と言う。
先に紹介した、阿弥陀如来や毘盧舎那如来のような。
キリスト教でも、人間としてのキリスト、神の子としてのキリスト、そして宇宙的絶対真理としての神が存在する。
一神教では、唯一絶対神だけが神である。
仏教では神々もいち仏であり、また釈迦のような人間も悟り、そして仏となることができるのである。
宗派によっては、全ての人間に仏性が宿っていて、念仏を唱えることで極楽往生できると説く宗派もある。
悟りを得て仏に至る前の存在を菩薩という。
例えば、観音菩薩、地蔵菩薩などはそのままではまだ仏ではないが、いずれ仏になることが約束された存在であり、
それらは次々と姿・形を変えて民衆の前に現れて民衆を導き・救う存在で、民衆の身近な信仰の対象となった。
聖観音像 法隆寺の観音像
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/14/edc1dd824cb6707ca59618c3280fab13.jpg)
チベット仏教のダライラマは、観音がダライラマの姿となって現世に現れ、人々を導くと信仰されていると言われる。
弁財天や韋駄天等天と天がつくものは、元々はかつてインドや西アジアに存在した神々だった。
それらの中にはかつては仏の敵であったが、仏に帰依し従い、仏の守り神となり、そして信仰の対象となっていった。
不動明王や阿修羅などはかつて仏と対立した存在だったが、同様に悔い改め仏の家来となり、仏の守り手となり、信仰の対象となっていった。
キリスト教でも、キリストの弟子達・母は神ではないが、聖人・マリアとして信仰の対象となるのとよく似ている。
一神教でも多くの宗派に分裂していった。
仏教の場合は、信仰対象が唯一絶対神ではないのだから分裂と言うより新しい宗派が次々生まれるのは必定と言えるかもしれない。
だが、宗派間の争いは血を流して争う時代もあった。
抗争は今も当然あるが、今日はだいぶ落ち着いてはいるようだ。
仏教の考え方の違いは、読む経も違い、本尊も異なり、合掌の方法も異なり、
戒名と言ったり、法名と言ったり、入棺に際していわゆる死に装束を着たり着なかったり、
線香の建て方や仏壇の整え方などの儀式も宗派によって色々のようである。
さて、私は、個人的には密教は少し肌が合わない。
曹洞宗などの禅宗は、いわば救いを求めないみたいな思想で好ましくも思うのだが、
座禅と言う形にかえって拘り過ぎるようでいて違和感を感じるし、
権力に迎合した臨済宗は、わびさびを言うが逆に貴族趣味的華美に感じる。
私には、浄土宗や浄土真宗の教えが一番あっているように感じるのだが、それが絶対的であるとか唯一の真理とはとうてい言えない。
いずれの考え方にも共感性と違和感が同時にある。
だが、私はそれ以上にキリスト教やユダヤ教イスラム教のような一神教には絶対的違和感・拒否感を感じる。
以下、私のメモである。【写真は、東大寺大仏を除いて、他からの引用】
釈迦はインドに実在した人で仏教の基本を作ったが、彼が仏教の全てを作ったとは言えない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/a3/7d5514d7b59ce7a3844bd6b82a4548ac.jpg)
彼は、悟りを開いて仏=如来となった。
如来とは、インドの古語サンスクリット語で真理に達した人という言葉の中国語への音写=訳である。
【中国語への意訳ではなく音写であった。それがそのまま日本に移入された。後述するがこのことが理解をむずかしくした。】
釈迦如来を表す梵字[インドの古語サンスクリット語]
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/2d/1412c355929786454d5ef2ec65790a67.jpg)
釈迦如来とは、仏(如来)になった釈迦と言う意味である。
日蓮宗・法華宗では、釈迦如来を信仰する。
法隆寺の釈迦如来像 室生寺の釈迦如来像
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/f8/2d6c9c707a20dc400275e64a41bcf3f6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/ad/35191e0a0732f6cab1fbc9e4f0bd353d.jpg)
仏になることが出来るのは人間だけでない。
阿弥陀如来は西方浄土にいて人を救う仏であり、毘盧舎那如来は宇宙的真理のことである。
浄土真宗は、阿弥陀如来を一番に信仰する。
鎌倉の大仏は、阿弥陀如来像である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/4c/e5905c104e7b6221da732a8d42a673cb.jpg)
京都東大寺の大仏は毘盧舎那仏像で、華厳経がこの如来を詳しく説いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/90/3ba4bff7bd606026594b41ca66777df8.jpg)
その教えを最高とするのが華厳宗である。
真言宗などの密教においては、毘盧遮那如来を大日如来と呼び、それを信仰する。
真如園の大日如来像
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/1d/509f1832973066ef4077269d015b7dc3.jpg)
釈迦如来だけを現世の唯一の仏とする仏教は小乗仏教と言われ、主に南方に伝わった。
他方、大乗仏教では、釈迦如来は多くある仏の中の一つの仏であり、その他にも仏は沢山あるとし、北方に伝わった。
[小乗・大乗の違いはこれだけでなく多岐に渡っているが。]
密教では、真理・仏の教えは言葉では表現・伝えることができない、
それは師から弟子に直接伝えられる秘密の教えとされる。
密教以外の宗派を顕教と言う。
顕教では、真理・仏教の教えは言葉に表すことが出来、そこから学び人々に伝承できるとされる。
日本では真言宗とやや密教度が薄い天台宗が密教と言える。
天台宗の最澄、真言宗の空海は、奈良から平安にまたがる時代に中国の密教寺院で修行し日本に仏教を伝えた。
当時の仏教はまだ貴族の間だけの貴族仏教であった。
平安末期から新しい仏教の波が起こり、鎌倉時代になると新しい仏教が民衆の間に急速に広がった。
浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、臨済宗(栄西)、 曹洞宗(道元)、 時宗(一遍)、 法華宗(日蓮宗、日蓮) 等が次々生まれた。
さて、如来等をはじめ多くの仏教用語は元々は古代インド語に由来するのだが、
それらの言葉が中国語に音写・当て字化され、日本には漢文でそのまま伝わった。
中国語の文字の読み方は日本式に変化し、そのことがかえって理解の難しさを増した。
例えば南無妙法蓮華経の南無だが、それは帰命[=帰依するの意]の音写であって、南無の漢字そのものには意味はない。
文字を読めなかった民衆にとって、経本を見たり、お経を聞いたりしてもそれを理解することはむずかしかった。
念仏を唱えるだけで救われるという新しい宗教が生まれた背景には、仏教用語の難しさという事情も関係していると私は思う。
さて、釈迦のような生物の人間ではなく、宇宙・実体のない自然の真理や摂理のようなものも仏と言う。
先に紹介した、阿弥陀如来や毘盧舎那如来のような。
キリスト教でも、人間としてのキリスト、神の子としてのキリスト、そして宇宙的絶対真理としての神が存在する。
一神教では、唯一絶対神だけが神である。
仏教では神々もいち仏であり、また釈迦のような人間も悟り、そして仏となることができるのである。
宗派によっては、全ての人間に仏性が宿っていて、念仏を唱えることで極楽往生できると説く宗派もある。
悟りを得て仏に至る前の存在を菩薩という。
例えば、観音菩薩、地蔵菩薩などはそのままではまだ仏ではないが、いずれ仏になることが約束された存在であり、
それらは次々と姿・形を変えて民衆の前に現れて民衆を導き・救う存在で、民衆の身近な信仰の対象となった。
聖観音像 法隆寺の観音像
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/76/48aae1cfbbd416f9e170d708dac83e22.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/14/edc1dd824cb6707ca59618c3280fab13.jpg)
チベット仏教のダライラマは、観音がダライラマの姿となって現世に現れ、人々を導くと信仰されていると言われる。
弁財天や韋駄天等天と天がつくものは、元々はかつてインドや西アジアに存在した神々だった。
それらの中にはかつては仏の敵であったが、仏に帰依し従い、仏の守り神となり、そして信仰の対象となっていった。
不動明王や阿修羅などはかつて仏と対立した存在だったが、同様に悔い改め仏の家来となり、仏の守り手となり、信仰の対象となっていった。
キリスト教でも、キリストの弟子達・母は神ではないが、聖人・マリアとして信仰の対象となるのとよく似ている。
一神教でも多くの宗派に分裂していった。
仏教の場合は、信仰対象が唯一絶対神ではないのだから分裂と言うより新しい宗派が次々生まれるのは必定と言えるかもしれない。
だが、宗派間の争いは血を流して争う時代もあった。
抗争は今も当然あるが、今日はだいぶ落ち着いてはいるようだ。
仏教の考え方の違いは、読む経も違い、本尊も異なり、合掌の方法も異なり、
戒名と言ったり、法名と言ったり、入棺に際していわゆる死に装束を着たり着なかったり、
線香の建て方や仏壇の整え方などの儀式も宗派によって色々のようである。
さて、私は、個人的には密教は少し肌が合わない。
曹洞宗などの禅宗は、いわば救いを求めないみたいな思想で好ましくも思うのだが、
座禅と言う形にかえって拘り過ぎるようでいて違和感を感じるし、
権力に迎合した臨済宗は、わびさびを言うが逆に貴族趣味的華美に感じる。
私には、浄土宗や浄土真宗の教えが一番あっているように感じるのだが、それが絶対的であるとか唯一の真理とはとうてい言えない。
いずれの考え方にも共感性と違和感が同時にある。
だが、私はそれ以上にキリスト教やユダヤ教イスラム教のような一神教には絶対的違和感・拒否感を感じる。