まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第4番「施福寺」~西国三十三所めぐり3巡目・10(前置きは施福寺の参道より長い)

2020年01月27日 | 西国三十三所

2016年から5年にわたり展開されている西国三十三所草創1300年の記念事業。2020年はその最終年度となる。さまざまな記念行事や昨今の朱印ブーム、JR西日本のキャンペーンも合わせて、参詣する人も増えているという。昨年参加した先達研修会でも、先達補任者の数の伸び率がアップしているとの話も出ていた。

その記念事業の一つに「記念印」がある。これは通常の本尊の朱印とは別に、各札所ごとにオリジナルにデザインされた特別な印を希望者に無料で納経帳に押すもので、2017年から始められ、2020年の事業終了日(時期は未定)までの期間限定である。デザインは朱印というよりはJR駅のスタンプに似たようなもので、寺のお堂や見どころ、シンボルをイラスト化したものもあれば、シンプルに「西国三十三所草創一三〇〇年」の文字を角印にしたものなどいろいろある。

この記念印が始まった時、私は西国三十三所めぐりの2巡目に入っていたところで、先達用の巻物納経軸にも記念印が入っていて賑わせている。ただ2020年初めの時点でまだ埋まっていないのが、4番の施福寺、8番の長谷寺、12番の岩間寺、13番の石山寺と4ヶ所ある。いずれも2巡目で早いうちに回ったところだが、一方でそれから間隔が開いているも言える。いずれも自宅からそう遠くはないところなのでいつでも行こうと思えば行けるが(施福寺は30分の山道の参道、岩間寺はバス停から1時間の上り坂だが)、記念事業の終わりまでには行っておきたい。

その中で1月19日、施福寺に行った。天候もよくこの時季にしては暖かかったのだが、このタイミングで訪ねたのは鉄道絡みである。その内容が一風変わっていた。

施福寺への公共交通機関でのアクセスは槇尾中学校前からの和泉市オレンジバスだが、槇尾中学校前に行くには南海泉大津~JR和泉府中~泉北高速和泉中央を経由する南海バスに乗る。ただ一方で、私の地元藤井寺からだと近鉄で河内長野に南下して、南海バスで横山高校前まで乗るルートがある。横山高校前から数百メートル歩くと槇尾中学校前に着くことができ、トータルではこちらのほうが短時間である。1巡目は河内長野ルートを知らなかったのと、JRのキャンペーンのスタンプのために泉大津からバスに乗ったが、2巡目は河内長野市内にある新西国三十三所の札所、金剛寺や観心寺との組み合わせもあり、河内長野ルートを通った。

3巡目も行きは河内長野ルートを取るのだが、鉄道絡みというのは近鉄の河内長野駅にある。

近鉄のトピックスにて「河内長野駅設置の『字幕回転式行先表示機』が令和2年1月30日に役目を終える」というのがあった。「字幕回転式」というのは、列車の行き先や種別の案内表示が「準急 あべの橋」などと書かれたフィルム式の行先幕がくるくる回るタイプのものである。車両の前や横で行き先を表示させるのにも使われている。

この行先表示機、河内長野駅には1976年に設置されたものがそのまま使われているが、これは近鉄の駅の中で最後まで残っていたものだそうだ。私の子どもの頃は他の駅でも普通にあったが、いつしかパタパタ・・と行き先がめくれるものや、電光掲示板、最近だと大型ディスプレイでの表示に置き換えられ、近鉄では河内長野が最後まで残っていたそうだ。さらに、他の鉄道会社を見渡しても字幕回転式の案内というのはほとんどないのではともされており、日本で最後かもしれないという説もあるようだ。

別に路線や列車、車両がなくなるわけではなく、それほど大げさにすることでもないと思うが、最後というのなら一応見ておこうと思う。なお近鉄では字幕回転式の終了を記念した入場券を1月23日から河内長野駅で限定発売したのだが、翌日にはもう完売御礼が告知ポスターに貼られていた。

例によって前置きが長くなったが、今回はそういうわけで河内長野駅に行ったついで?に施福寺まで足を延ばすことにした。朝の列車で藤井寺から河内長野に移動する。
 
河内長野は南海高野線の主要駅で、近鉄長野線は端の1本だけのホームに間借りのように停まる。そのホーム中央、に1台あるのが字幕回転式行先表示機である。同じ列車で来た人が3~4人、カメラを向けていた。そして折り返しとなる大阪阿部野橋行きの準急が出発すると、字幕が回転するのを心待ちにしていた人もいたようだが表示はそのままである。

沿線の人なら周知のことだが、日中にこの駅を出る列車は全て「準急 あべの橋」である(ひょっとしたら回送もあるのかもしれないが)。早朝や深夜なら「急行 あべの橋」や「普通 古市」などもあるが、日中はパターンダイヤで同じ行き先のため字幕を回転させる必要がない。隣の南海高野線は特急「こうや」をはじめとして急行、準急などいろんな種別があるし、河内長野止まりの列車などさまざまなパターンがあり、パタパタ式の行先表示機がホームで活躍している。近鉄は字幕回転式の次はどのようなタイプにするのだろうか。この記事を掲載してあと数日は残っているので、もしご覧になりたい方は、ぜひ。

ホームには字幕回転式のこれまでの歴史を紹介したポスターがある。長い間使っていたために修復の跡があるとの記載があり、よく見るとテープでも貼ったような跡もわかる。

行先表示機は一応見たことにして改札を出る。次に乗るのは8時36分発の光明池駅行きで、これが横山高校前を通る。手前の金剛山ロープウェイ行きの乗り場にはトレッキング姿の中高年が列を作っている。金剛山は私の小学生当時は冬の耐寒登山の場所で、雪が積もる中アイゼンをつけて歩いたり、アルミホイルに包んでもやっぱり冷たかったおにぎりを食べたのを今でもかすかに覚えている。今は暖冬傾向だし、学校教育も時代が変わっているのでそうした行事はやっているのだろうか。

光明池駅行きのバスは10人ほどの客で発車するが、金剛寺に着くまでに下車してしまい、私だけになった。国道170号線の旧道沿いの集落を縫いながら走り、30分ほどで横山高校前に着く。泉大津から槇尾中学校前を結ぶ系統との交差点だ。ここから数百メートルの歩き。
 
ここまで何度か「横山高校前」とバス停の名を書いているが、その高校は現在閉校である。跡地は和泉市のスポーツセンターとして、人工芝のサッカーグラウンドや照明設備もついた野球場になっている。日曜の朝、グラウンドではボールに触れる姿が見られる。横山高校が閉校になったのは10年以上前のことで、今なら「スポーツセンター前」とでもしたほうが実態に合っていると思うが、地元の人や南海バスには横山高校というのに思い入れがあるのだろう。

さて、槇尾中学校前に着いた。オレンジバスの発車まで時間があるので隣接のコンビニで過ごす。この後9時40分発の便で施福寺の入口を目指す・・・。
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第2番「紀三井寺」~西国三十三所めぐり3巡目・9(秋の和歌浦)

2019年12月15日 | 西国三十三所

海南から紀勢線で紀三井寺に移動する。駅から歩いて10分足らずで門前に着く。

山門の下で入山料200円を支払い、境内に入る。山門下と合わせてここから231段の石段が続く。案内板には坂の紹介が書かれているのだが、何やら見慣れぬ記載がある。この石段の「登段最速記録」というもので、タイムは21.9秒。陸上100メートル走の元日本記録保持者で五輪にも出場した青戸慎司さんだという。ただし「無謀な挑戦はおやめください」とある。

後で知ったのだが、2018年にこの石段を上がるタイムを競うイベントが初めて開かれたそうだ。今年も1月に行われ、いずれも100人以上が参加したという。最速の男女それぞれに「速駆王」、「速駆姫」の称号が与えられるそうだ。西宮戎神社の福男選びとはまた違った「種目」になるが、来年もやるかはわからないが、上りに自信のある方は参加されてはいかがだろうか。

さて私はそうした競走とは無縁で、石段は黙々と上がるのだが、紀三井寺の場合は途中に立ち寄りができるので苦にはならない。紀三井寺の由来となった清水やら、塔頭寺院にある波切不動明王や身代り大師など、手を合わせるスポットがいろいろある。

本堂のある境内に着く。絵画教室か、スケッチする人がちらほら見える。青空も広がっているし、寺のお堂や、あるいは高台から見る秋の和歌浦を描くのにぴったりの天気である。

本堂にてお勤め。参拝者から見て左手にあった納経所が右手に移っている。西国1300年の記念印がまだだったので押してもらうが、それだけ2巡目との間隔が開いていたわけだ。

紀三井寺に来ると本堂の対面にある仏殿は立ち寄り必須である。巨大な金ぴかの千手観音像は好き嫌いが分かれると思うが、はるか昔に制作された仏像も、できた当時はこのような姿をしていたものだと考えると、これはこれで信仰の対象である。

仏殿3階からの展望も紀三井寺の楽しみの一つである。先ほど訪ねた禅林寺の辺りは見えないとしても、海べりの製鉄所やマリーナシティから、和歌浦、片男波というところ、さらには和歌山市街を見渡せる。

これで紀三井寺を終えて帰途に着くことにする。来る前は和歌山駅近くの大衆酒場に行こうかとも考えていたが、そのまま大阪に戻ることにする。帰りは変化をつける意味でバスで南海の和歌山市駅に向かう。

到着して、これも驚いた。現在改装工事進行中である。2020年4月の開業に向けてのことで、複合施設は「キーノ和歌山」という。JRの和歌山駅側と比べて寂れていたイメージの和歌山市駅周辺の活性化につなげたいところである。

南海の駅も仮営業中のようだが、ここから特急サザンの指定席車に乗る。特急車両ならばと、打ち上げ用に1本仕入れる。まあ、大衆酒場が特急車内に場所を変えた形で・・。

途中で淡輪の海を見たり、堺では古墳の世界遺産登録を祝うラッピング車両に出会ったりして、日のあるうちに大阪に戻る。

西国三十三所の3巡目も4分の1を過ぎた。記念印は何とか記念行事の期間中にコンプリートしたいので、またいろいろかこつけて回ることに・・・。

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第7番「岡寺」~西国三十三所めぐり3巡目・8(岡寺の紅葉)

2019年12月12日 | 西国三十三所

万葉文化館を見学した後、岡寺の入口にある鳥居にやって来る。ここから坂を上っての寺参りである。

山門に着く。この前の2巡はいずれも夏の暑い時季だった。秋に来るとまた違った景色を楽しめる。

境内の鐘を撞いた後、本堂でのお勤めとする。中での撮影は禁止なので外からの画像しかないが、外陣に上がり、本尊の如意輪観音とご対面。高さ4.85メートル、塑像としては日本最大とされている。弘法大師が日本、唐、インドの土を混ぜて制作したとされ、岡寺を開いた義淵僧正の徳を讃えたものと言われている。この像と対面のうえお勤めである。

これまでにも内陣に上がって阿弥陀如来や三十三所の観音像は拝んだことがある。今回の秋の特別拝観では、内々陣の扉を開放している。人1人が体をかがめて覗き込む形だが、如意輪観音が手の届くところにおわす。ちょうど左斜め下からお顔を見上げる位置だ。これはありがたみが増す。もちろん直に触れることはできないが、水晶玉が間にあり、これを通して本尊と縁を結ぶことができる。

ちょうど私の後に団体が2組やって来た。1組は某旅行会社主催の巡拝ツアー。もう1組は女性の講のような感じのグループである。旅行会社のツアーは聞きなれた順番によるお勤めだが、講のグループは観音経偈にご詠歌も一通り行っていた。私も2巡目以降観音経偈を取り入れているが、ご詠歌まではできていない。たんに歌の文字を読めばよいというものではなく、節回しも求められる。となると独学は難しく、誰かに教えをいただくことになる。

先達用の納経帳への1300年記念印がまだだったのでいただく。先ほどの巡拝ツアーからも、先達用納経帳への朱印を自身でいただきに来る人が何人かいる。

さてこの後は境内を一回り。まずは奥の院の洞窟にて弥勒菩薩に手を合わせる。

一周ルートは義淵僧正の御廟を通って三重塔に続くが、この間にもみじのトンネルがある。訪ねたのは11月末だが、まあまあ見頃というところ。先ほどの本堂を見下ろすのだが、紅葉の間にお堂の瓦が浮かぶ姿も風情がある。画像ではなかなか上手く写せないのだが・・。

最後に弘法大師堂に手を合わせて一周したが、先ほどいた団体の姿はとっくになくなっていた。奥の院やもみじを見た様子もなさそうだ。巡拝ツアーはあくまで観光ではなくお勤めがメインであり、時間の制約があるのはわかるが、もう少し寺で時間を作って自由に散策してもよいのではと思う(もちろん、そうした余裕があるツアーやコースもあるのだろうが)。

岡寺を後にして岡寺前バス停に出たが、次のバスは橿原神宮前駅行き、飛鳥駅行きの両方にも中途半端な待ち時間である。かと言って他の観光スポットに行くのも中途半端だし、周りにも時間をつぶせそうなところが見当たらない。

ならば、飛鳥駅まで歩くか。真夏で汗だくになる季節でもないし、地図を見れば案外近いものである。そこで、川原寺や橘寺、亀石に天武・持統天皇陵などを眺めながら過ぎる。岡寺前のバス停からは徒歩30分ほどで飛鳥駅に着いたが、ちょうど飛鳥駅行きのバスが岡寺前を出たタイミングであった。

さて帰りはいったん藤井寺を素通りして阿部野橋に出るとして、普段乗る機会がない特急に乗る。まあ、15分おきに列車が出るが、特急と急行が交互に出ていて、次に来るのが特急だったこともあるが。

この形式の歴史も長い。近鉄はこのところ新型特急車両を積極的に投入している。なお南大阪・吉野線には「青の交響曲」があるが、あれはあくまで通勤型車両の改造。

その近鉄の新型特急といえば2020年3月から「ひのとり」が名阪アーバンライナーとして順次投入される。このお出かけの後12月に入って、先行の試乗会(有料・無料)、お披露目会が2月に行われることが発表された。抽選による参加とのことで、無料の試乗会、五位堂車庫でのお披露目会のそれぞれにエントリーしたのだが、果たしてどうなるか。なお応募は一人1口限りで結果は1月下旬にわかるそうだが、倍率もさぞ高いのだろうな・・。

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第7番「岡寺」~西国三十三所めぐり3巡目・8(万葉文化館と全国一の宮)

2019年12月11日 | 西国三十三所

11月27日、この日は所用のため有給休暇を取得。用事そのものは午前中で終わったが、さて午後の時間をどうするかである。

天気は青空とはいかず雲が広がっているのだが、ここは西国三十三所の「ちょこっとお出かけ」ということにする。札所めぐりでは西国四十九薬師めぐりもあるのだが、次の行き先は和歌山の海南ということで、これは休日に改めて午前中から行きたいところだ。

地図を見て、そういえば先日壺阪寺に行ったこともあり、今回はその隣にある岡寺はどうだろうかとなる。こちらもちょうど秋の特別拝観中ということで、本尊の塑像の如意輪観音像を内陣にて拝観することができるという。紅葉も見頃を迎えているようだ。

昼間の列車にて藤井寺から橿原神宮前まで移動する。岡寺へは橿原神宮前駅から飛鳥を周遊する路線バスで行くのが便利。もっともこれまでの2巡の訪問では、最初が飛鳥駅のレンタサイクル、次が橿原神宮前駅から飛鳥駅まで全て徒歩移動だったから、バスに乗るのは初めてである。

橿原神宮前に近づくと、駅前に結構な人だかりができているのが見える。また列車を降りて改札や京都線ホームに向かう通路にも人があふれていて、警備の数も物々しい。ニュースを見ていなかったのでこの時初めて知ったのだが、ちょうど前日から天皇皇后両陛下が関西に来られているそうだ。一連の即位の礼や大嘗祭が終わったことを皇室の御先祖に報告するということで、前日に奈良に入り、この日は橿原の神武天皇陵に参拝。この後京都に移動して孝明天皇陵、明治天皇陵に参拝するために近鉄特急で移動されるという。それを見送ろうと待つ人々である。

西国めぐりと橿原神宮前で思い出すのは、以前に長谷寺に参詣しての帰り、「全国豊かな海づくり大会」に臨席のため奈良に来られた現在の上皇ご夫妻に遭遇したことがある。今回も急ぐわけでなし、新たな天皇皇后両陛下の姿を直に見ようかとも思ったが、時間ももう少し後のようだし、まあいいかなということでそのまま改札の外に出る。駅の周囲も制服・私服姿の警察官であふれている。見送りの人については混乱を避けるためかエリアが決められているようだ。

乗るのは橿原神宮前から飛鳥のスポットを回って飛鳥駅に行く周遊路線バスの「赤かめ」。平日ながらそこそこの乗車があるが、運転手に「万葉文化館に行きますか」と確認する姿が目立つ。万葉文化館は過去に訪ねたことがあるが、何人も「行きますか」と確認するということは、この日何か特別な行事でもあるのだろうか。まさか天皇皇后両陛下が万葉文化館に来るというわけでもないだろうが、万葉文化館といえば「令和」改元で注目された万葉集に関するスポットである。岡寺に行く前に私も立ち寄ることにする。

バスで30分近く揺られて万葉文化館に到着する。同じバスから20人くらい、車内のほとんどの客が下車したのだが、皆さんがやって来たのは「万葉集を読む」という月例の講座のようである。平成の時から講座じたいは行われているそうだが、やはり令和になってから受講する人も増えているとか。ミュージアムショップにもさまざまな書籍が置かれているのだが、やはり令和を意識したものも目につく。またこの元号を考案した中西進氏の著作も過去のものも含めて結構並んでいて、私も思わず1冊買い求める。先に「積ん読」状態の本が何冊かあるので、開くのは少し先のことになるが。

乗客のお目当ては万葉集ということだったが、当初は何か特別な展示を目当てに来る人が多いのかと思っていた。現在開かれている企画展は「全国一の宮展」というもので、西田眞人という日本画家による全国の一の宮を描いた作品展である。これはこれで私は興味を引いたので入ってみる。

西田さんは神戸市出身の日本画家で、「端正で清潔、透明感あふれる日本画」、「詩情あふれる独自の世界を表現する気鋭の画家」などと評される。その作品はこういったもので(撮影可)、日本の他にイギリスの田舎の風景なども作品にしている。そんな中、2010年から新たなテーマとして全国の一の宮をめぐり、独自の世界観を描いている。

全国一の宮。日本の六十余州のそれぞれに一の宮がある。これは朝廷や国司が制度として定めたものではなく、由緒ある神社、多くの信仰を集めている神社の最上位をいつしか一の宮と崇めるようになった。また時代の移り変わりもあり、一つの国に複数の一の宮がある。そのため、現在は北海道や沖縄も含めて全国で101社ある。ミュージアムショップに全国一の宮のガイドブックがあったので購入したのだが、これを全て回るとなると実に大がかりなことかと思う。「日本百名城」よりハードかもしれないと感じた。

一の宮に当たる神社はこれまでに訪ねたことがあるところもそれなりに含まれているが、今のところは意識していないとしても、もし改めて「全国一の宮シリーズ」としてサイコロで行き先を決めるとなると、相当壮大なテーマとなるだろう(さすがにそこはサイコロで決めなくてもいいのでは?神社だからおみくじ方式にするとか・・・って)。

大和の国ということで三輪の大神神社を描いた作品がメインに展示されている。またこれに関連して大神神社ゆかりの遺物や史料もあり、信仰の歴史も紹介している。

そして北から順に、作品となったもの、その下絵としてスケッチされたものが並ぶ。単に風景を描くのではなく、そこに詩情を挟むことができるのも絵画ならではである。まだ101社全てを作品化しているわけではないそうだが、いずれはその国の風土を感じられるとして一の宮を回るのも面白いかなと思う。

この後は人形や歌劇で万葉や歌の世界を紹介する「万葉劇場」や「歌の広場」を見て、万葉文化館を後にする。ここまで来れば岡寺もほど近く、歩いて向かうことに・・・。

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第6番「壺阪寺」~西国三十三所めぐり3巡目・7(秋のお身ぬぐい参拝)

2019年11月17日 | 西国三十三所

11月も中旬になると、職場にも来年の挨拶回り用カレンダーが届いたり、お歳暮の贈り先のとりまとめがある。最近では「虚礼廃止」の方向でそうしたものを取りやめる流れが強くなっているし、私の勤務先企業でもトップはその方針を出しているが、まだまだ現業レベルではこうしたものは挨拶のツールであるのが実情である。まあ、相手先は精査する必要はあるが。

年末年始、青春18きっぷを軸にどこに行くか、夏のうちからああでもないこうでもないとプランニングして、宿のチェックもしていたが、ここに来て大筋は決まった。後は予約が必要な交通機関の席が取れるかどうか。

そんな中、16日の午後にすっぽり時間が空いた。この時間に何をするということもなかったところ、ふと、西国三十三所めぐりの近場に行こうという気になった。とはいうものの、山道を上る槇尾山施福寺はまた別の機会に行くとして、1ヶ所行くならばと近鉄電車とバスで訪ねる壺阪寺にした。1巡目は秋の高取城との組み合わせ、2巡目は近鉄特急「青の交響曲」との組み合わせだったが、今回は単純に寺との往復である。西国三十三所開創1300年の記念印がまだなので、早めに押してもらおうという思いもある。

雲一つない秋晴れの下、近鉄の壺阪山駅に降り立つ。この時間からだと次のバスは14時20分発。乗り込んだのは私だけで、山道を登ること10分あまりで参詣入口に到着した。

壺阪寺に来たのは、12月1日までの期間、秋の特別拝観ということで、本尊の十一面千手観音像の「お身ぬぐい」ができるためである。1巡目、ちょうど5年前だが訪ねたのが秋の時季で、ちょうど同じようにお身ぬぐいを体験した。このお身ぬぐいがどのくらいの頻度で行われているかは知らないが、今回は西国三十三所開創1300年記念と、天皇陛下即位記念として行われるそうだ。

まずは大講堂で諸仏に手を合わせる。そうするうちに外で賑やかな声がする。ちょうど札所めぐりの団体が到着したようで、先達の案内で本堂にぞろぞろと向かっている。この後、団体の後について境内に向かう形になる。

山門をくぐる。境内も少しずつ紅葉が進んでいるようだ。見頃にはまだまだほど遠いのだろうが、壺阪寺もこの奥にある高取城ともども紅葉のスポットとして紹介されている。

本堂前のめがね供養像、舛添要一・元東京都知事寄進の石灯籠も健在だ。舛添氏といえば東京オリンピックのマラソンが札幌開催に変更されたことに対していろいろ発言して、久しぶりに存在感をアピールしていたなあ。

本堂に着く。先ほどの団体が先に中に入るところである。この後のお参りもかぶりそうなので、先に納経帳への朱印をいただくことにする。先達用の巻物は重ね印だが、開創1300年の記念印がまだである。それもいただくようお願いすると、「ほんまにええんですか?」となぜか二度も念押しされてから押される。その一方で、西国観音曼荼羅の八角形の台紙は、書き置きか直筆かの選択を確認されたので、ならばと直筆をお願いした。ドライヤーで乾かす必要があり、先ほどの団体の添乗員が納経帳や納経軸の整理をしているところだったが声をかけて場所を空けてもらう。

本堂に入る。ちょうど団体が先達のリードでお勤めの最中である。そこは外陣の片隅に控えて終わるのを待つ。団体の中も皆さんそれぞれ熱心に読経されているのに感心する。お勤めが終わり、「集合は16時ですが、揃い次第出発します」という先達の声で団体はそれぞれ動く。それを見終えてから私もお勤めとする。外陣には常に椅子が並べられているので楽だ。

せっかくお身ぬぐい参拝があるので団体も多くが体験するのかと思いきや、多くはそのまま本尊が祀られる八角円堂をぐるりと回ってそのまま出たようである。そのため、八角円堂に入ってのお身ぬぐいも待ち時間なしで自分だけ体験することができる。

特別参拝料の500円を納める。手にお香をまぶし、笈摺を着せられる。そして布をいただき、十一面千手観音像の前に立つ。室町時代制作という貴重なものなので、保護の意味もあってぬぐうことができるのは胡坐をかいているその足から下である。貴重な体験の後は、係りの人から「ちょうど外でお参りしている人もいませんし、よかったら観音様の写真を撮っていただいても結構です」と言われる。このご本尊、これまでも撮影してよいものかどうか迷いながら写真に残していたのだが、お身ぬぐい参拝だけでなく誰でもOKのようである。心の広い観音様である。ぬぐった布は枕カバーと枕の間に挟んで眠るとご利益があるそうで、その夜から実践してみるのだが・・・。

この後は、インド渡来の大観音石像、大涅槃石像のエリアに向かう。開放的な壺阪寺にあって大和盆地を望むことができるスポットである。ちょうど1時間後の15時35分発のバスに乗って、壺阪山駅に戻る。居合わせた団体よりも少し短い滞在時間だった。

今回は思いつきで慌ただしい参拝となったが、秋の一時を過ごすことができた。西国三十三所めぐりについては引き続きボチボチと・・・。

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第20番「善峯寺」~西国三十三所めぐり3巡目・6(桂昌院と西山門跡)

2019年11月07日 | 西国三十三所

天候がよいためか、また連休中ということもあり、善峯寺を訪ねるクルマも多いようだ。

山門にて入山料を納めて、早速正面の本堂に向かう。本堂の左手の一角が納経所だが、朱印を求める行列ができていて(とはいっても10人程度だが)、ちょうど正面の拝み所まで伸びている。

幸い、善峯寺は本堂の中に上がって自由にお参りができるので、靴を脱いで畳敷に上がる。通常は秘仏である本尊千手観音は、善峯寺を開いた源算上人の手によるという。

本堂の中でお勤めの後、私も朱印の列に加わる。待ち時間が少し長かったが順番となり、先達用の納経軸への重ね印と、西国開創1300年の記念印がまだだったので合わせていただく。西国観音曼陀羅の八角形の台紙を出すと、ここまでは書き置きと交換というところが多かったが、この時はそのまま墨書していただいた。墨書にするとにじむので、少しの時間だがドライヤーを当てる必要がある。ひょっとしたら持参の台紙と書き置きを交換するのは、この手間を省くための札所の配慮なのかもしれない。先日の西国先達研修会での連絡で、この八角形の台紙が先達への無料進呈と一般への販売を合わせるとすでに3000セットほど出ているとあった。これを得るために西国をもう一度回ろうという動機づけには一定の効果があるということか。1枚の朱印墨書は500円なのでコンプリートすると結構な値段だが、それでも揃えて額に飾る人はすでにそれなりの数いることだろう。かく言う私もそれを目指す中の一人だ。

本堂に隣接する寺宝館が秋の特別展示として、10月と11月の土日祝日に開放されている。この後帰りのバスまでに境内を回る時間がちょっと気になるが、せっかくの機会なので見学する。

善峯寺は戦乱の中で一時廃れたが、江戸中期に桂昌院(5代将軍綱吉の母)により再興された歴史がある。境内の建物にも桂昌院の寄進によるものが多い。非常に仏教への帰依が深い人だった。館内には桂昌院と綱吉の肖像画とともに、桂昌院が使っていたという本式の数珠や、位牌も展示されている。

寺宝館は文殊堂でもあり、正面奥には文殊菩薩や聖観音、不動明王の像が祀られている。ここで法要を行うこともあるのだろう。また今回は企画展として、令和に改元された記念ということで、皇室と善峯寺の関わりについて紹介されていた。善峯寺という名前は平安中期に後一条天皇の勅願寺となったことからついたが、その後は京都の青蓮院門跡(青不動を祀る)との関係が強く、歴代の住職である法親王の中には善峯寺にも住み、そのまま葬られた人もいるそうだ。そのため善峯寺は「西山門跡」とも呼ぶそうである。桂昌院の印象が強かったのだが、門跡寺院の歴史もあったとは私は今まで気づかなかった。

ここから境内を回る。帰りのバスが12時24分発で、ちょっと時間が気になるので駆け足で回る。その中でポイントの一つは、樹齢600年以上と言われる遊龍の松。

さらには石造の釈迦如来像が真横から拝める釈迦堂。

そして奥の院にあたる薬師堂である。本堂から薬師堂に至る参道、というより遊歩道と呼んでもいいだろう、ここから見る京都の街並み、東山、比叡の山々というのも善峯寺の売りである。昼間の青空の下の景色は素晴らしい。なお紅葉の時季、そして元旦には特別に朝6時半に開門するという。澄んだ空気の下、知る人ぞ知る初日の出スポットのようだ。

バスの時間も近いので奥の院もすぐの折り返しとなり、12時24分発のバスに何とか間に合う。急な下り坂をエンジンブレーキと助手の手でクリアして、バスの系統が分かれる灰方まで下りて来た。ここからは西国四十九薬師めぐりにチェンジして、2つの札所に向かう・・・。

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第20番「善峯寺」~西国三十三所めぐり3巡目・6(西山、大原野を行く)

2019年11月06日 | 西国三十三所

熱戦が続いた第45回の社会人野球日本選手権、大阪に拠点を置くチームどうしとなった決勝戦は、大阪ガスが4対1で日本生命に勝利して、この大会初優勝を果たした。後半の場面をテレビで観たのだが、やはり地元の名門どうしということで応援も実に盛り上がっていたようである。

前にも記事にしたが、私の勤務先企業は2日の準々決勝まで勝ち上がった。この試合はドームで観戦、応援したが、延長13回、タイブレークで惜しくも敗れた。この大会では延長12回以降、無死一・二塁の場面から始める。いろいろな攻め方が考えられるし、その時の打順の巡り合わせにもよる。結果は敗れたが野球のある種の面白さを目の当たりにできたのはよかった。各チームの皆さん、熱戦お疲れさまでした。

さて、野球があのまま勝ち進んでいたら3日、4日もドームに行くことになっていたが、逆に2日間が空きになった。4日、晴れの予報で気温もまずまずということで、札所めぐりとする。何やかんやで季節は行楽の秋である。

記事のタイトルは西国三十三所の第20番の善峯寺となっているが、元々の目的地は西国四十九薬師めぐりである。前回、長浜の総持寺で出たサイコロの目で出たのが第41番の正法寺、第42番の勝持寺で、いずれも京都市西京区にある。それなら同じように区内の善峯寺との組み合わせが可能だ。

後はどう回るか。正法寺と勝法寺は大原野神社を挟んで比較的近いところだが、善峯寺とはさすがに離れている。歩いて結べない距離ではないが(阪急は周囲の山を巡ってこれらの寺も通るのをバイキングコースに推奨しているようだが・・)、善峯寺へのバス道、一度歩いて上ったことがあるが結構ハードだったのを覚えている。そんな中で地図とバス路線図を見ると、JR向日町から阪急東向日を経由して善峯寺に行く系統と、正法寺、勝持寺の最寄りのバス停の南春日町に行く系統が、途中の灰方というところまで同じルートを走るとある。それぞれの行き先へは1時間に1本だが、灰方までは30分に1本、交互に走る形となる。また、正法寺、勝持寺へは南春日町の手前の灰方からでも2キロあまり、こちらは極端な上りでもなさそうなので徒歩圏内と見ていいだろう。

そこで順番としては、JR向日町からまず善峯寺行きに乗る。参拝後、バスで灰方まで戻る。灰方から南春日町行きのバスは間隔が空くので歩いていく。帰りは2つの寺のお参りのペース次第で南春日町からバスに乗るか、タイミングが合わなければ灰方まで戻って善峯寺からのバスを待つか。ちょっと何言ってるかわからないという方は、阪急バスの路線図をご参照いただければ。

11月4日、JR向日町に現れる。善峯寺行きのバスは1時間に1本で、10時35分発に乗ることにしてそれに合わせて到着。バス乗り場からは向日市の競輪場への無料バスも出ていて、そちらに向かうおっちゃんたちもいる。

善峯寺行きはJR向日町、阪急東向日で席がほぼ埋まる。札所めぐりとおぼしき人もいれば、さらにハイキングをしようという格好の人もいる。ハイキングといえば、前回2巡目に善峯寺を訪ねた時は、新西国三十三所の一つ、眼の観音様として知られる長岡京市の楊谷寺から山道を伝って来た。この辺りは京都の西山地区として手軽にハイキングを楽しめるところだ。

帰りに降り立つ灰方から、運転席横に係員が立つ。先ほど東向日から制服姿で乗ったが、ここから仕事である。道幅が狭い上に沿道からいろんなものがはみ出ているのでクリアランスを見てOKと言うし、離合する車両の確認も行う。安全配慮ということでのツーマン運転だが、こうした運転も珍しいのでは。それも京都市内で。

灰方の次の小塩からの急坂も無事に上り、終点の善峯寺に着く。係員はバスの方向転換の誘導も行う。他のバス会社なら運転手が一人でやるところかもしれないが、そこは阪急バスの姿勢なのだろう。

バス停から山門までも短いとはいえ急な坂が続く。この坂も路線バスや徒歩ならではの体験である。何回かジグザグした後で、堂々とした造りの山門に到着する・・・。

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第18番「頂法寺六角堂」~西国三十三所めぐり3巡目・5(先達研修会の後の急遽参詣)

2019年10月29日 | 西国三十三所

西国三十三所の先達研修会を終えたその足で、阪急京都線の特急に乗る。着いたのは京都市街に入った烏丸である。

ここから歩いて5分で、第18番の六角堂に着く。新阪急ホテルを出てから1時間後のことだ。

研修会を終えたらどこかに行くつもりで出て、近場なら中山寺、勝尾寺、総持寺もある。ただ中山寺は3巡目の一番初めに訪ねているし、勝尾寺はバス乗り継ぎなので時間がかかる。総持寺は前回の参加後に訪ねていて、続けて同じところというのはどうか。それなら、距離は離れるが駅からのアクセスがよい六角堂はどうかということになった。

また、前週に行われた天皇陛下の即位礼の日に合わせてある札所に行こうと出かけたが、西国観音曼陀羅の八角形の台紙を荷物に入れるのを忘れたために行くのをあきらめ、結局淡路屋の即位記念弁当だけ買った・・ということがあった。実はこの時行こうとしたのが六角堂(と革堂)である。この日限定で皇室の紋にも使われている菊を用いた祝賀の生け花が飾られるというのをローカルニュースで目にしたこともある。時間的に行こうと思えば行けたのだが行かず、ちょっと六角堂に申し訳なかったなと、数日後ながら行くことにした。菊の花はもうないが。

こうした街中の札所、あるようでなかなかない。今同時にやっている西国薬師や中国観音霊場も結構駅から歩かされる・・もとい歩かせていただくところが多く、たまにはこうした都市型の寺があってもよい。洛中のど真ん中、何といっても「へそ石」があるくらいだ。

正面の本堂にて手を合わせてお勤めである。他に先達用の輪袈裟をしている人は見かけなかった。

時間的に天皇賞の出走のようで、納経所でも係の人どうしが馬の話をしていた。気になる人は寺で競馬の話をするとはケシカランと思うだろうし、私もこれが山の上で修行しているのが似合いそうな寺でなされた会話なら違和感を覚えるところだが、なぜか六角堂ではすんなり耳に入ってきた。やはり街中の、札所というよりは生け花の総本山的な寺ということで、俗世間とも気さくな間柄のところならではと思う。

歴史的に聖徳太子や親鸞上人との関係が深いというのも庶民的な雰囲気を醸し出すように思う。境内の池というか水のところで白鳥がいるのもなかなか見られない光景である。

六角堂といえば、「本堂が確かに六角形をしている」のを上から見ることができるとして、隣接する池坊ビルのエレベーターが人気である。展望台があるわけではないが、これも都市型として一度体験することはお薦めである。

時刻は15時半を回ったところ。今からでも例えば第19番の革堂とか、第17番の六波羅蜜寺まで歩けば、何やかんやで数時間で西国三十三所の二つの霊場を回ることになる。確かに、札所めぐりだけならそうしたであろう。ただこの日は、ここからすぐに大阪に戻らなければならない。これは先ほど梅田を出る時からわかっていたことである。

再び烏丸から阪急の特急に乗り梅田に戻る。ここでJRに乗り換えて降り立ったのは大正。夕方の時間にわざわざ大正駅に来るというのは、この後大正ドームに向かうことを意味する・・・。

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西国三十三所先達研修会に参加

2019年10月28日 | 西国三十三所

10月27日、西国三十三所の先達研修会が梅田の新阪急ホテルで開かれた。毎年秋に開かれていて、今回で15回目である。先達としての意識を高めるとか、西国三十三所に関する情報交換、情報共有の場という位置付けで、また別の面ではファン感謝デーのようなものでもある。私は2016年初めにヒラの先達になってから今回2回目の参加である。隔年で平日開催と日曜開催が入れ替わるので、一昨年以来のことである。まあ、平日でも有給休暇が取れれば参加できるのだが。

会場は新阪急ホテルの紫の間。11時開始の30分ほど前に会場入りすると、すでにテーブル席の多くが埋まっている。前回と同じく、まだ席に余裕があった一番奥のテーブル席に陣取る。後方にはテーブルなしの椅子席もあるのだが、開始時刻となるとこちらもほぼ満席となった。周りを見ると皆さん共通のオレンジ色の輪袈裟をかけているが、「特任先達」のワッペンが縫い付けられたり、金色の名札をする姿が目立つ。私は今3巡目にようやく入ったところだが、こうした人生の先輩方に比べればまだまだガキである。

この日は446名の先達が出席とのことで、まずは開会挨拶で圓教寺の副住職が上がる。私の中では元プロ棋士の神吉宏充七段と勝手に呼んでいる方で、話がうまい。

続いては播州清水寺の僧侶による御法楽。ここで西国三十三所の勤行次第に沿ってのお勤めで般若心経を唱えるのだが、関係者も含めて500人近くが一斉に読経するというのもなかなかない光景である。外から見たらやはり異様に感じるのかな。

続いては『西国三十三所観音霊場記図会』と勉強会の案内。『図会』の勉強会は2年前から行われている。私も『図会』の書籍は購入して、勉強会に参加する機会はなかなかないということもあり、自分で読んでいるのだが、ただ第33番にはまだまだたどり着けない。この勉強会は1回の講座で一つの寺の章を読み、それについての歴史的解説がメインとなるが、講座に参加している人を対象に他にも読経やご詠歌を学んだり、フィールドワークということで外に出ることもあるそうである。教養の会やライフワークとしては面白そうだ。11月2日には「比較文化」ということつぁ四国八十八所の歩き遍路も日帰りで体験するそうだが、そうすると第1番から第6番、第7番辺りまでを歩くのかな。

そして特別講演。今回講師を務めるのは松尾寺の名誉住職である松尾心空猊下である。西国三十三所を徒歩で巡礼すること5回、かつては徒歩巡礼の「アリの会」というのを主宰されていた。松尾寺を訪ねた時にその記念碑があったのを覚えている。その他にも著作や講演活動もたくさんあり、現代における西国三十三所めぐりの「レジェンド」とも言える(レジェンドはさすがに言い過ぎかな)。1928年(昭和3年)生まれで数えで御年92歳というのも驚きで、さすがに登壇する時は付添いの手を借りていたが、講演はずっと立ったままでも平気だし、説明でホワイトボードを使う時にマイクから離れるのだが、声もしっかりとしている。これも徒歩巡礼の賜物だろう。

この日の記念に、松尾猊下の「人生往来手形」をいただいている。「松尾寺では1枚100円でお分けしているのを今回特別に無料ということで・・・・私がいただけるはずの45000円は世の中に『寄付』したと思って」として笑いを誘う。

演題は「巡礼の復活と終活」というもの。最近の事件や災害を引き合いに「四苦八苦」を取り上げ、これを乗り越える、解放させるのが巡礼であるとする。

笈摺の解説もあった。今西国や四国を回る時に着用するのは全部白色の白衣や笈摺だと思うが、長らくはこれに赤が入って区別がなされていたそうである。両親が健在なら両側が赤、片方の親が亡くなったなら真ん中が赤、そして両親とも亡くなったなら全て白という分け方。巡礼とは再び胎内に戻り、また生まれ変わる儀式ともとらえられていたそうで、第33番の華厳寺で満願となれば笈摺を納め、精進落としをしてまた世間に生まれ変わるということにつながるという。

他に松尾猊下の言葉として、四国八十八所の「同行二人」に対して「同行観音」とある。ただこれは「観音様といつも一緒に」ということではなく、「自分自身が観音様になる」という意味合いだという。また、浄土真宗の妙好人である浅原才市の歌の替え歌として「南無観音は観音(かみ)の息 わたしゃあなたの息にとられて 南無観世音」という歌をつくった。「観音力」という、大いなる生命の力、巡礼の智慧というのを現代の世の中でもう一度見直そうではないかというのが全体のテーマだった。

私の文章力では上手く説明できないのだが、さすがは法話や講演を数多くされていて、時折冗談や笑いも交えながらの話で聴きやすかった。またいつか松尾寺にも足を運ばなければと思う。

講演の後は、今年度の特任大先達の補任。今年は14名の方が該当し、欠席の1名を除いて壇上で栄えある称号を表彰された。

2年前の研修会の時にも先達の人数構成のことを書いたが、その時は全体で約8800名だった。それが現在の有効先達は11482名と、1万人を悠に超えている。2年で2600名以上が新たに先達に補任されたことになる。現在行われている西国三十三所開創1300年に関するさまざまな行事やPRが功を奏しているのではないかとしている。

記事が長くなるが、その構成について書いておく。

・先達     9107名

・徒歩巡礼先達   45名

・中先達     669名(先達で2巡=通算3巡)→私が今やっている3巡目が満願となればこれになる。

・徒歩巡礼中先達   4名

・大先達     911名(中先達で3巡=通算6巡)

・徒歩巡礼大先達   3名

・特任先達    370名(大先達で5巡=通算11巡)

・特任権中先達  121名(特任先達で6巡=通算17巡)

・特任中先達    78名(特任権中先達で6巡=通算23巡)

・特任権大先達   99名(特任中先達で6巡=通算29巡)

・特任大先達    75名(特任権大先達で5巡=通算34巡)

今回この場で補任された特任大先達の方々は、西国三十三所を通算34巡されたということだ。中には私よりも若い年格好の人もいて、西国三十三所に真摯に向き合っているのだなと感心するばかりである。私のように次に行く札所をサイコロで決めたり、他の札所めぐりとのついでで行ってみようかというのとはそもそもの姿勢が違う。

記念品の贈呈。今回は壇上に箱を設けて文字通りここでの抽選である。残念ながら私はハズレ。また記念品には新たな「商品」も含まれていた。西国巡礼の「奉納札」というもので、名刺サイズの納め札である。あらかじめ各札所の寺院名、本尊名などが書かれた33枚の札と、汎用で名刺代わりにもなるという札7枚がセットになったもの。札所でお勤めする際に、この札を両手に挟んで合掌し、本尊の真言を唱えた後に納札箱に奉納するという。今の3巡目では西国観音曼荼羅の八角形の台紙に朱印をいただくのをミッションとしているが、うーん、こういうのが出ると、「4巡目ではこの奉納札を各札所に納めてくること」という新たなミッションになりそうだ。憎いねえ。

次は一口法話。一乗寺の僧侶が登壇し、納経所を預かる立場の者として参詣者に「慈悲の心」を持ち、笑顔で接することが大切だという話があった。

最後に事務局がある紀三井寺の僧侶から、今後の取り組みについて案内された。その中に、「特任大先達のその先」というのがあった。上に書いたように通算34巡で特任大先達に補任されるわけだが、その先新たな目標があるのかという問い合わせはかねてから寄せられているとのことである。そこでこのたびさらに上位の称号を設けることにしたという。

今回は口頭での紹介だけで、詳細は2020年になってから発表されるそうだが、通算34巡プラス33巡=通算67巡で「喜達」、「喜達」プラス33巡=通算100巡で「真達」という先達の称号を設けるそうだ。それよりもっと驚いたのは、さらにプラス33巡=通算133巡で「ふみょう(普明?)」、さらにプラス33巡=通算166巡で「みょうじゅ(妙寿?)」という称号を出すという。ここに書いたのはあくまで耳にしただけのことで、ここに書いた文字すら合っているかどうかである。

予定では上位に補任されるために11巡分の日付が入る専用の納経軸を進呈されるそうで、特任大先達の先の称号を得るにはこれを3本コンプリートしなければならないことになる。これまで34巡と聞いただけでも気の遠くなるようなずっと向うの話しかと思っていたが、それが一気に5倍近くの166巡まで跳ね上がる。さすがに現時点で166巡という人はいないだろうし、札所会も思い切ったことをしたと思うが(逆ギレして、やれるもんならやってみろ?)、ただ特任大先達75名の中にはすでにガチで100巡以上回っているという人もいるはずで、その場合はこれまでの納経帳、納経軸を資料として個別に判定するという。

一連の行事が終わり、同じ部屋内で昼食である。参加者の年代に合わせてか和風の盛り付けだが、さすがは阪急の弁当である。般若湯の1本でもつけてくれればという内容で、美味しくいただくことができた。

さて時刻は終了予定の14時。せっかく西国先達の研修会に来たのだからということで、前回は阪急電車に乗って総持寺に向かった。今回はどうしようか。一応、どこでも行けるよう西国観音曼荼羅の八角形の台紙は全札所分持参している。

この時間からだと行けるところは限られるが、とりあえず阪急の大阪梅田からの特急に乗ることにした。目指すのは京都市内方面である・・・。

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第26番「一乗寺」~西国三十三所めぐり3巡目・4(とりあえず手を合わせよう)

2019年09月29日 | 西国三十三所

加古川の鶴林寺にお参りした後、加古川線と北条鉄道を乗り継いで法華口駅に到着した。

法華口駅といえば法華山一乗寺の玄関口というよりは、駅舎が「モン・ファボリ」というパン屋であることで知られている。地元産の米粉を使っているのが売りである。また委託の女性駅長が凛とした姿勢で列車を見送る光景も人気で、パン屋と合わせて、法華口駅は北条鉄道に乗って、あるいは北条鉄道ではなくクルマで直接乗り付けて訪ねるスポットになっている。この駅と女性駅長は『サザエさん』のオープニングの兵庫県版にも登場したくらいだ。

私が法華口駅に着いたのは昼下がり、パン屋は営業していたが商品はこれまでに売れたようで、店先にはわずかしか残っていない。ただ、残っているパンを買うかとなると、そこまで無理することもないかな。また、女性委託駅長が見送りに出ることもなかった。まあ、昼を過ぎた時間である。この日もパンは順調に売れたのだろうし、駅長といっても24時間詰めているわけではなく、この日の勤務は終わったのだろう。

駅を出て踏切を渡り、バス停に向かう。県道沿いの歩道もないこのバス停から乗るのは3巡目にして初めてだ。社から姫路に向かう系統。今回、両方からのバスの時刻を確認したところ、この時間帯なら14時39分発の姫路行きに乗って一乗寺前のバス停に着き、1時間後の15時51分発のバスで姫路に行くのがスムーズだ。この時間帯の他のコースだと、一乗寺の時間がほとんどないか、2時間以上ぽっかり開いてしまうかのいずれかになってしまう。

以前に歩いた道をたどり、10分ほどで一乗寺の正面に着く。一乗寺はかつて広い境内を持っていて、その名残はバス道とは別の旧参道にある。山門と呼んでいいのか、今もバス道の脇に小さな門が建っている。

一乗寺と書かれた石柱の前で、白衣姿の男性が一心に何かを唱えている。耳をすませたところでは、西国三十三所の各札所のご詠歌のようだ。西国めぐりも数をこなしている人はたくさんいる。こうして熱心に回る人も一定数いる。私なんかかわいいものだ。

拝観料を納めて境内に入る。正面には162段の石段が続く。とは言っても一気に上るというわけでもなく、途中にある常行堂や、平安末期に建てられた国宝の三重塔を見ながらである。

江戸時代に再建された本堂に上がる。縁台からは先程の三重塔や石段を見下ろすことができる。山の中の古刹の雰囲気がある。

本堂でお勤めとした後、先達用の巻物の納経軸に重ね印をいただく。一乗寺は2巡目も早い時期に訪ねたために西国1300年の記念印がまだ入っておらず、この機に押していただく。デザインはやはり三重塔だ。記念印は2020年の事業終了までのもので、別に全部揃えなければならないというわけではないが、まだの札所もそれなりにあるので、他のお出かけと上手く組み合わせて回りたい。

奥の院に向かう。確か大雨の被害で立ち入りができなかったが、今回は修復が終わったのか道が通じていた。少し坂道を上がると開山堂がある。一乗寺を含めて播磨の寺院の開創にいろいろ登場する法道仙人を祀っている。

さらに奥には賽の河原があるようで上り坂が続いているが、次のバスの時間もそろそろ気になるし、どのくらいの距離があるのかわからなかったため、ここで引き返す。そのまま石段とは別の坂を下り、西国三十三所の本尊お砂踏みの一角を抜けて入口に戻る。

15時51分発のバスまで、参詣者用の休憩所に入る。無人だが、椅子や給茶器もあり自由に過ごせる。中には西国三十三所めぐりのJRのキャンペーンのポスターや、一乗寺が属する天台宗関連のポスターがあちこち貼られている。一乗寺の本尊である聖観音像は秘仏だが、こういう姿なのだなというのがポスターからうかがえる。

姫路駅行きのバスが来た。一乗寺からは40分あまりかかるようで、山間地域や山陽自動車道、いろいろ集落を進むうちに町の景色になった。姫路城の東側に来るルートで、最後は天守閣もわずかながら見ることができた。

さて姫路駅着。ここから新快速で大阪に戻るのだが、コンコースがざわついている。東加古川駅で人身事故があり、JR神戸線は姫路から土山まで運転見合わせという。復旧までの時間も読めないので、青春18きっぷを引っ込めて、山陽電鉄の姫路駅に向かう。JRからの振替利用の客も多く、梅田駅行きの直通特急の先頭車両まで行ってようやく座れた。

その後JR神戸線も復旧したようだが、すでに梅田行きに乗っているし、わざわざ乗り換えるのも面倒だとそのまま乗っていた。青春18きっぷもこの日の移動だけ見れば1日分の元は取れなかったかもしれないが、ここまでの「貯金」があるし、この後9月7日にも最後の利用があるので問題ない。

・・帰宅後に、この人身事故に関するニュースがあるのかネットで検索してみた。事故があったのは姫路行きの新快速が東加古川駅を通過した時で、亡くなったのは加古川市在住の男子高校生。駅のホームから線路に下りたようで、これは自殺として扱われた。

この9月1日はカレンダーの並びでたまたま学校の夏休み最終日だが、現在では休み明けの始業式の日、あるいは休みの最終日は子どもの自殺率が他の日と比べて断然高いのだという。この日東加古川駅で新快速に飛び込んで亡くなった生徒もその一人ということか。学校でどのような悩みがあったのかはわからないが、電車に飛び込んで自殺するくらいだから相当思い詰めてのことだろうし、周りも支えきることができなかったと言える。「死んだら負け」と簡単には言いたくないが、どうにかして自殺を防げる方法はなかったのかなと思う。

こういうことに対して、仏教の側で何かできることはないか、今の時代に仏教も捨てたものではないと思わせるものはあるか。

とりあえず手を合わせることから始めるのかな・・・?

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第30番「宝厳寺」~西国三十三所めぐり3巡目・3(夏の琵琶湖横断)

2019年08月05日 | 西国三十三所

竹生島に上陸する。西国めぐりの3巡目だが、夏に上陸するのは初めてである。「夏の島」というと避暑とか、海のレジャーを楽しむとかいう連想もするが、竹生島はご案内のとおり「信仰の島」である。また、島全体が花崗岩の一枚岩で、切り立った岩壁に松の木が生えている形をしているので、島を歩いて一周するというのは不可能だ。唯一の入口は遊覧船が発着する波止場で、その横に釣りくらいできるかというところがちょこっとあるくらいだ。建物と言えば宝厳寺、竹生島神社に関するものと土産物店しかないが、寺社の関係者や土産物の店員も島の外からの通いである。もし昼間どこかに隠れていて、夜にこの島でひっそりと一夜を過ごす・・・仮にそういうことをすれば、やはり不法侵入とかの罪に問われるのかな。

今回は次の今津行きの遊覧船まで1時間ある。その次の便でもいいのだが、竹生島で2時間以上の滞在というのはさすがにもてあますので、さっさと入島料?拝観料?の400円を払って石段を上がる。

過去の参詣では石段をそのまま一番上まで上がって宝厳寺の本堂からお参りしたが、今回は途中で横道に出て竹生島神社からお参りする。昔から神の棲む島と言われており、奈良時代に聖武天皇の勅願で行基が弁才天を安置したのが竹生島信仰の始まりと言われている。その後長く、都久夫須麻神社と宝厳寺の神仏習合状態が続き、弁才天を本地仏として竹生島権現とも呼ばれ、弁才天は厳島神社、江ノ島と並ぶ日本三大弁才天の一つとされてきた。その中でも竹生島の弁才天が由緒あるそうで、年に一度、6月に行われる祭りには江ノ島と宮島の弁才天の分霊を竹生島に招くという。

明治の神仏分離で竹生島神社と宝厳寺に分かれ、弁才天は島のてっぺんに安置されることになった。厳密には別の神社と寺なのだが、普通に竹生島に来てお参りするぶんにはそのことを気にする様子の人は見なかった。

国宝の本殿に手を合わせた後で、琵琶湖に臨む龍神拝所に向かう。ここでは多くの人がかわらけ投げに挑戦する。かわらけ2枚を渡され、1枚目には自分の名前、2枚目には願い事を書いて投げる。鳥居の間を通過すれば願いが叶うとされているが、なかなか上手く行くものではない。投げる様子を動画で撮りあっていた若者グループもいたが、結局全滅していた。私も惜しいところまで行ったがだめだった。

豊臣秀吉の御座船の木材を使って建てた舟廊下を渡り、宝厳寺側の観音堂に向かう。唐門を含む建物の修復工事はまだ続いている。こちらの千手観音が西国三十三所としての本尊で、ここで観音経偈を含むお勤めとする。ただスペースは狭く、神社と寺の巡拝の通り道の途中で人の行き来も多いので、お勤めも気をつかう。西国巡拝の団体ツアーが一同に介するのは無理で、その人たちは広いスペースがある本堂でお勤めとするのだろう。その場合、観音堂や竹生島神社は帰りの遊覧船までの「自由参拝」にするのかな。

順序が逆のようだが、竹生島神社、観音堂と来てようやく本堂に着いた。ここは弁才天が祀られているが、先に書いた事情もあってか西国の納め札や写経も受け付けている。ただ、西国めぐりが目的で宝厳寺に来て、本堂にお参りしたはいいがその後観音堂を素通り、あるいはパスしてしまう人もいるのではといらん心配をしてしまう。本堂と同じレベルで納経所があるからなおのこと。

先達用の納経軸への重ね印と、西国曼陀羅の八角形の朱印をいただく。西国曼陀羅はここもあらかじめ書かれていたものとの引き換えである。いずれもこの仕組みでやっているのかな。私は別に書き置きのものが出てきても何とも思わないが、中には「ここでこれ(自分が持参した用紙)に手で書いてもらわんとアカン」という人もいるのだろう。この用紙に小さくまとめて墨書するのも結構大変だと思うのだが。

ここまで回り、最後は三重塔と宝物館も見る。宝物館ではさまざまな弁才天が安置されていて、改めて竹生島の歴史を語ってくれる。

そして時間が近づき、遊覧船乗り場に戻る。まあ、1時間がちょうどよかったかなと思う。土産物で琵琶湖のしじみの佃煮、近江八幡の赤こんにゃくを買い求め、さらに船上用でアサヒのナントカも手にする。お参りも終えたし、夏の船上である。ほら、昔のビールのCMの定番のシチュエーションですやん・・・。

・・CMと違うのは、船のデッキではなく客室の中。いや、帰りも湖の風を受けてと思っていたが、竹生島もあまりに暑かった。この場合はエアコンの冷気のほうがほしかった。

・・ということで、帰りは行きの「いんたーらーけん」より一回り大きい「べんてん」の客室最前列の座席に陣取る。客室からもしっかり景色は見えるし、また位置が低いぶん湖面の波を近くに感じられる。この日は湖西に向かう航路も穏やかだった。比叡、比良の山を越えてくる風は強いものがあり、特に冬だと琵琶湖にも高波が生まれる。過去から現在までも、西からの風で舟やボートが転覆して亡くなった事故も多い。それも琵琶湖の姿の一つである。

この日はそうしたことは全くなく、穏やかに琵琶湖の西岸、近江今津に到着した。『琵琶湖周航の歌』の歌碑を見ながら駅に着く。

帰りは新快速。京都方面から12両でやって来た敦賀行きのうち、敦賀に行くのは前の4両のみ。残り8両は近江今津止まりだ。この8両が折り返しの新快速(乗った列車は網干行き)となり、敦賀から来た4両を後につないで12両編成となる。近江今津からなら当然前の8両に乗るところ。

湖西線、文字通り琵琶湖の西側を通る。夏の琵琶湖は大いなる遊び場。特に近江舞子の辺りは砂浜もあるし、水上ボートも盛んである。列車で来たのか、遊び終えた人たちが歩く列が湖岸から駅までポツポツと見られた。

さて、竹生島を訪ねたのが7月の終わりで、8月となると夏本番で琵琶湖周辺もより賑わっていることだろう。ただ、今や夏といえば猛暑、そして熱中症というのがニュースでも大きく取り上げられている。もう、運動禁止、外出も控えろというレベルである。まあ、そんな中で相変わらず道楽をしているわけですが・・・。

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第30番「宝厳寺」~西国三十三所めぐり3巡目・3(またも野球中止の代替で・・)

2019年08月04日 | 西国三十三所

今年、というより令和になって初めてとなる台風6号が上陸したのが7月27日。

ちょうどこの日は、彦根で予定されていたBCリーグ・滋賀ユナイテッド対福井ミラクルエレファンツの観戦を予定していた。台風は三重県から東海、関東と進み、それほど甚大な被害や交通機関への影響が出ることもなかったが、野球はもちろん悪天候のため中止である。

実はこの彦根でのBCリーグの試合、滋賀ユナイテッドがBCリーグに新加入した2017年に1試合だけ予定されたことがある。私も彦根城の見物をした後に観戦しようと出かけたのだが、朝からの雨の影響で中止になった。翌年は開催そのものがなく、今年はこの7月27日に組まれていた。ただそれも中止である。彦根近辺在住の滋賀ユナイテッドのファンがどのくらいいるか知らないが、なかなかご縁がなく残念なことだろう(まあ、同じ県内にある甲賀や守山、湖東で観戦できるのだが)。8月にも試合が組まれており、そのうち25日の石川ミリオンスターズ戦なら私も行けそうなのでチェックしておく(また雨てなことにならんように)。

西国めぐりのことを書くのに彦根の野球が中止になったことが出るのも妙なものだが、実は琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺に西国2巡目で訪ねたのが、前回の彦根での試合が中止になったのを受けてそのまま長浜に移動し、遊覧船に乗ったものである。その日は朝からの雨で正直どうかなというのがあったので、リュックの中にはBCリーグの選手名鑑と西国の先達用納経軸の両方を入れていたのだ。長浜から遊覧船に乗る頃には雨が止み、竹生島は普通に訪ねることができた。

さて今回。さすがに27日は朝から台風が接近しており、進路によっては滋賀県を突き抜ける予報もあり、上記のような展開にはならないと思ったので外出はなし。そして翌28日は、台風一過というより本格的な猛暑の訪れとなったが、雨は大丈夫そうだ。中国観音霊場、西国四十九薬師めぐりもあるが、ここは青春18きっぷを投入しても元が取れる琵琶湖まで行くことにしよう。

夏の時季は長浜航路を中心に増便も出ている。大阪をゆっくり目の10時発の新快速で出発し、1時間40分で長浜に到着する。観光客の姿も多い。長浜の町並みから少し外れたところに、西国四十九薬師の札所である総持寺というのがある。長浜の町歩きはその時のお楽しみかな。

駅から歩いて数分で遊覧船乗り場に着く。次に出るのは12時05分発の増発便で、竹生島には12時35分に着く。そして13時40分発の今津行きに乗って琵琶湖横断ができる。竹生島滞在は1時間見ておけば十分である。

竹生島に向かうのはこれで3回目だが、真夏に行くのは初めてである。だから琵琶湖の景色もまた違ったもので、関西の夏の一時の楽しみをもたらしてくれる優しい、おおらかな表情を見せる。

乗船するのは「いんたーらーけん」という、琵琶湖汽船では高速船に当たる一隻。いんたーらーけんとは何ぞや?と見ると、スイスにある都市の名前である。湖に面しているというつながりで大津と姉妹都市提携があるそうだ。

船に乗るのだからと、上段のオープンデッキに陣取る。時間となり出航して、長浜の町を後方に見る。湿度が高いためか伊吹山は霞んでほとんど見えない。

夏だからか、琵琶湖には水上バイクが走り回っている。景色としてあまり歓迎するものとは思わないが、これも夏の風物詩だろう。遊覧船と着かず離れず、ジグザグに走らせながら後を追いかけてくる。遊覧船のデッキの客と手を振り合う場面もあった。ただ途中でさすがについてこなくなる。バイクが走れる範囲が決められているのかもしれないが、ふと、遊覧船に集まってくるカモメを連想する。天橋立や伊根の遊覧船で、客が投げるかっぱえびせんを目当てに集まってくるアレである。

水上バイクはおいとくとして、オープンデッキを抜ける風は猛暑日でも心地よい。夏の一時を体感しているなと勝手に思う。

前方に竹生島の姿が見えてきた。西国めぐりに限らず竹生島は夏の琵琶湖観光のメジャーなスポットである。折り返し便を待つ行列もある中、到着する。

さてこれから参拝とする・・・。

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第5番「葛井寺」~西国三十三所めぐり3巡目・2(令和改元に合わせて3巡目本格開始)

2019年05月23日 | 西国三十三所

話は、平成から令和にかけての旅を終えて帰宅した5月2日まで戻る。

この日は休養日ということで特に外に出る用もなかったが、近所にある西国5番の葛井寺に向かった。

先にも触れたが、このたび、百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録が内定したというニュースに驚いている。以前から世界遺産に向けた活動が進められ、堺市が中心となり羽曳野市、そして私の地元藤井寺市も参加してきたわけだが、ついにというか、ようやくの登録である。個人的には、世界遺産もそう濫発するべきものではないと思うし、日本国内でもそろそろネタが切れてきたのかなという思いはあるが、こうして地元がその一つになってみるとやはりうれしいものである。

正式決定は6月に行われるユネスコの委員会を経てということになるが、観光客が来る・・・としてもあの形というのはなかなか見ることができないし、天皇陵となると外の遥拝所から拝むくらいしかできない。まあ、元々は観光とは無縁のものである。また大阪はUSJやミナミ、道頓堀などはアジアを中心としたインバウンドで賑わっているし、万博も予定されているとなれば、そこまで「世界遺産で観光客を誘致」というのに血眼にならなくてもよいのではと思う。あ、これらはいずれも大阪「市内」の話か。

今回の世界遺産には、仁徳天皇陵や応神天皇陵のような立派な「御陵さん」があるかと思えば、その辺の丘にしか見えないものもある。そうしたところは柵もなく公園として整備されていたり、普通に子どもの遊び場にもなっている。私も昔遊んだ記憶がある。天皇陵は敷居が高いかもしれないが、そうした手軽なものを通して古墳を身近に感じるのもいいだろう。さて、藤井寺市にはどの程度の「世界遺産効果」が出てくるやら。

・・・とはいうものの、今のところ藤井寺市の中でもっとも有名な歴史スポットとなるとやはり葛井寺ということになるだろう(本当は、そこに藤井寺球場も加えたかったところだが)。

ようやく本題で、元号が令和に改まったのを機に、西国三十三所めぐりの3巡目を始めることにする。3巡目の最初として、近畿三十六不動めぐりの札所でもある中山寺を先に訪ねているが、本格的にはこれからスタートということにする。

仁王門から入る。連休中、また藤まつりの期間中ということで参詣者の姿も多い。

その仁王門脇に、遣唐使・井真成(いのまなり)の生誕地の新しい石碑が立っている。これを目にするのは初めてだ。日付を見ると平成31年4月とあるからつい最近のことである。奈良時代、吉備真備や阿倍仲麻呂らと同時期に唐に渡ったが、36歳の若さで現地で亡くなった留学生である。まさに「辞本涯」である。近年、中国で真成の墓誌が見つかり、「遺骨は異国に埋葬するが、魂は故郷に帰ることを切に願う」との内容が書かれていた。それから1200年の時を経て墓誌が藤井寺市に寄贈され、魂は故郷に帰ってきた。

この日はちょうど藤の花も見ごろを迎えており、青空が広がっているとあって多くの人がカメラやスマホを向けていた。

また参詣者が多いのは、改元記念として5月1日~6日限定で本尊の十一面千手千眼観音像の御開帳が行われていることもある。ポスターには、2018年に東京国立博物館で行われた真言宗御室派寺院の仏像の特別展示に千手観音が出展された際、新天皇が皇太子時代に視察された時の報道写真も載せられている。葛井寺の御開帳は毎月18日に行われているが、今回は特別開催である。

内陣に入る。まずは如意と呼ばれるひもを手にして本尊とご縁を結び、内陣の片隅にてお勤めとする。何でもかんでも「令和最初」というのもどうかと思いつつも、これが令和最初の札所めぐりということで、自分としても新たな時代において気持ちをリセットするような思いで観音経を読む。

そして納経帳への御朱印だが、本堂外の石段の下まで長い列ができている。本尊御開帳もあるし、改元の記念に何かほしいというのもあるだろう。令和初日の前日はもっと長い列ができていたそうだ。葛井寺でこの行列だが、ニュースによると5月1日の東京・明治神宮では御朱印を求めて最大で10時間待ちという事態にもなったそうだ。しかも、その御朱印が早くもネットで高額転売されるということもあった。何だかなと思う。

40分ほど待って私の番になる。納経帳は引き続き先達用の巻物型である。そこへの重ね印なので時間はそれほどかからない。西国1300年の記念印がまだ入っていなかったので追加でお願いすると、金色のスタンプで押してくれた。この金色というのが令和の改元記念になるのかな。さらに西国曼荼羅の八角形の用紙(これは寺で書置きしたものと、私の手持ちの白紙を取り替える対応)もいただく。

さて新たな時代の札所めぐり。西国三十三所めぐりは引き続き行うが、実は新たな札所めぐりに挑戦することも考えている。それもまたそのうち、ここで紹介することになるだろう・・・・。

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第27番「圓教寺」~西国三十三所めぐり2巡目・34(新たな年、新たな巡礼への祈り)

2019年02月06日 | 西国三十三所
2月3日、書写山圓教寺。

節分会、豆まきを前に大勢の人が摩尼殿に集まってきた。堂内の外陣はもうびっしりで、外の廊下にも立ち人が並ぶ。

13時から法要が始まるが、特に参詣の人たちが一斉に合掌することもなく、いつしか内陣から声が聞こえてきて始まった形である。声が聞こえてきたというのは天台宗の声明(しょうみょう)である。何と言っているかは私の不勉強のためわからないが、経文や真言に旋律や抑揚をつけて楽曲風に唱える、天台宗の流儀である。

内陣の中央にさらに幕で囲まれた中での法要で、何が行われているのかは見えない。声明が一通り終わったかというところで、祈願文やら何やら謎めいた呪文のような文句が早口で聞こえてくる。以前に比叡山の無動寺で阿闍梨が行っていた祈祷を思い出す。

その一方で、左手からは不動明王の真言をひたすら唱える僧侶の声が響く。中央の祈祷の真言と重なりあい、どちらに意識を向ければよいのだろうか。

この節分会では二つの祈祷が同時に進んでいるようだ。中央で行われているのは如意輪観音の星祭。如意輪観音は「星の観音」とも呼ばれるそうで、人々の生まれた年の星と、年ごとに変わる星の巡り合わせによる災難を除くために、星が変わる立春の節分に合わせて祈祷するものだという。

一方の不動明王は言わずと知れた災難除け。私が座ったところからは垂れ幕の向こうに護摩供養の火があがるのが見えるが、その様子を見てわざわざ立ち上がって撮影に行く人もいる。

法要が始まって30分もすると外陣のあちらこちらからザワザワするようになった。私語も聞こえるし、スマホを取り出してゲームを始める人もいる。法要の最中にそれはあかんやろと思いながらも、ただ座っているだけで何もなく時間をもて余すのも仕方ないのかなと思う。寺によっては「お不動さまのご真言をお唱えください」とリードも入るのだがそれもない。よほど篤心でないとついていけないのでは。

ようやく法要が終わり、中央から一人の僧侶が顔を出してマイクを握る。圓教寺の副住職だったか、以前の西国三十三所の先達委員会にいらした顔に見覚えがある(私の中では、元プロ棋士でトークの上手い神吉宏充さんが頭を剃った姿という印象)。「お待たせしました、今から豆まきです」と言うが、先ほど如意輪観音の星祭でさまざまな真言を唱えて祈祷していたのは、この神吉七段?である。

豆まきにはルールがある。説明によると・・・

・最初に枡に入った豆そのものをまくが、後は豆が入った紙袋をまく。なお豆は先ほど祈祷していたものである。

・豆は4人の年男が本堂内陣からまくが、参詣者は決して膝立ちも含めて立ち上がらないこと(怪我の防止)。

・紙袋は全部で8000袋あるが、半分の4000袋をまいたところで一時中断して、前後を入れ替える。その前後とは、外陣の中央に張った赤い紐の前と後である(紐は私が座った位置のすぐ前である。つまり、前半は後列の最前列で、後半はさらに前に行ける)。

・袋には、金の観音像への引換券が入っているのが1つ、銀の観音像への引換券が入っているのが2つある。他には紅白のお供え餅との引換券や、宝金として500円を最高とする硬貨が入ったものもあるという。

4人の年男が紹介される。芸能人というわけではないが、キンキサイン・山口会長、高岡病院・長尾理事長、AM神戸・森取締役、永井産業・永井会長という、地元の名士たちである。「豆をまいてほしかったら大きな声で名前を呼んでください」と神吉七段。

そして豆まきが始まると、もう堂内に歓声が響く。年男に声を出してアピールする人も多い。年男たちも豪快に豆袋をまき、前列だけではなく後列にも届く。神吉七段を含めた僧侶たちも応援でまく。空中の袋をダイレクトでつかんだのもあったが、多くは人々の間に落ちたものの争奪戦である。堂内でやや暗いこともあり、足元すぐのところに落ちていても案外気づかないものだ。

前後半合わせても10分くらいだったか。豆まきは終了し、堂内からは大きな拍手が起こった。気づけば私も35袋くらいを獲っていた。

その後、堂内で袋の中を確認するようにとのアナウンスがある。縁起物との引き換えはこの場でしかできないためである。あちこちで紙袋を開ける光景が広がり、歓声とため息が広がる。そのうちに金と銀の観音像の当たり札が出たとのアナウンスがあった。

私はといえば、宝金が計4枚、金額は165円だった。帰宅して豆の一部を枡に盛って宝金を乗せてみると、それぞれの硬貨もピカピカである。うーん、お守りというわけではないが、この硬貨は使うのではなく何らかの形で取っておきたいと思う。

西国三十三所めぐりの2巡目はこれでおしまいとして、ロープウェイ乗り場に戻る。予報どおり、境内には雨が落ちていた。

立春を前にした星祭、不動明王の護摩供、さらには豆まきということで、新たな年への活力になったと思う。また、西国も3巡目をやろうと思う。すでに中山寺で3巡目は始まっているが、3巡目は中先達への道となるし、先達の特典で無料でいただいた「西国曼荼羅」の八角形の色紙への朱印をいただくことになる。その意味でまだまだ楽しむことができるだろう。

またこれからも、よろしくお願いします・・・。
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第27番「圓教寺」~西国三十三所めぐり・34(2巡目の満願)

2019年02月05日 | 西国三十三所
西国三十三所めぐりの2巡目も、第27番の圓教寺で終わりとなる。2巡目も特に札所順にこだわることなく、またサイコロで行き先を決めることなく任意に回って来たが、圓教寺を最後にしたのは、西国めぐりのもっとも西に位置し、天台宗の名刹としてふさわしい佇まいを持つ寺ということがある。

訪ねたのは2月3日。この日は節分ということで各地の寺社では節分祭が行われる。同時に回っている近畿三十六不動めぐりで次に訪ねる聖護院や智積院でも行われるとあり、姫路に行くか京都に行くか迷ったが、ここはまず西国の2巡目を終わらせようと姫路に向かうことにする。

往路は阪神~山陽電車の直通特急で姫路に向かい、書写山ロープウェイ行きのバスに乗る。ロープウェイ下の停留所に到着したところで、次のロープウェイは11時15分発とある。

乗車するのは、昨年導入されたばかりの新型ゴンドラ。26年ぶりに入れ替えたそうでこれが4代目だという。発車時刻になるとびっしり満員となり出発する。この日は朝から雲が広がっていて午後からは雨の予報。ロープウェイから遠くまでの景色も霞んでいる。ちなみに左下に広がるのは菜の花畑。まだまだ冬は続くが、こうした春の景色もちらほら見えるのもよい。

4分間の乗車で山上駅に着き、本堂までの1キロ弱を歩く。なお書写山はロープウェイだけではなく手軽な登山の対象として、またかつての徒歩巡礼道を歩くとして歩いて上がる人も多く、ハイキングスタイルで参道を行く姿も見られる。

平成になってから設けられたものだが、参道には西国三十三所の各本尊の像が置かれている。今回は2巡目最後ということもあるので、改めてその一つ一つを紹介してみる。これまで回ったことを思い出しながら、である。

まずはここ、第27番「圓教寺」(如意輪観音)

第1番「青岸渡寺」(如意輪観音)、第2番「紀三井寺」(十一面観音)

第3番「粉河寺」(千手千眼観音)、第4番「施福寺」(十一面千手千眼観音)

第5番「葛井寺」(十一面千手千眼観音)、第6番「壷阪寺」(十一面千手千眼観音)

第7番「岡寺」(如意輪観音)、第8番「長谷寺」(十一面観音)

第9番「興福寺南円堂」(不空羂索観音)、第10番「三室戸寺」(千手観音)

第11番「醍醐寺(上醍醐)」(准胝観音)、第12番「岩間寺」(千手観音)

第13番「石山寺」(如意輪観音)、第14番「三井寺」(如意輪観音)

第15番「今熊野観音寺」(十一面観音)、第16番「清水寺」(十一面千手千眼観音)

第17番「六波羅蜜寺」(十一面観音)、第18番「頂法寺六角堂」(如意輪観音)

真ん中にあたるところに展望スポットがあるが、この日は眺望を楽しむには少し厳しい空模様だった。

第19番「行願寺革堂」(千手観音)、第20番「善峯寺」(千手観音)

第21番「穴太寺」(聖観音)、第22番「総持寺」(千手観音)

第23番「勝尾寺」(十一面千手観音)、第24番「中山寺」(十一面観音)

第25番「清水寺」(十一面千手観音)、第26番「一乗寺」(聖観音)

第28番「成相寺」(聖観音)、第29番「松尾寺」(馬頭観音)

第30番「宝厳寺」(千手千眼観音)、第31番「長命寺」(千手十一面聖観音三尊一体)

第32番「観音正寺」(千手千眼観音)、第33番「華厳寺」(十一面観音)

それぞれの札所に風情が感じられるのだが、私の場合は本尊の観音像の違いというよりは、札所への行き帰りの道のりとか立ち寄りスポットに印象が多いように思う。まあそれも観音様とのご縁、お導きなのかなと勝手に解釈している。

ここで山門を下りさらに山道を進んで、本堂である摩尼殿を見上げる石段に出る。この舞台造りの建物も様になる。

畳敷きの外陣に上がる。その中でブランケットや敷物がいくつか敷かれている。これは節分会のためだという。現在の時刻は11時45分。この後13時から法要が行われ、14時から豆まきが行われる。その豆まきは摩尼殿の中で行われるそうだ。テレビのニュースで流される寺社での豆まきは本堂や拝殿から外の境内にいる人に向けてまかれるのが多い。圓教寺のこの舞台下ははるか遠いのにどうやってまくのかなと思っていたが、そういうことか。ただそれなら参詣者も限られるのかなと思う。実際どうなるのかは後の楽しみとして、私も場所取りをする。ちょうど上に柱にくくられた赤い紐が通っているが、何か意味があるのだろうか。

まずは私個人のお勤めをその場で行い、納経帳に朱印をいただく。これで2巡目の上がりとなった。先達用の納経軸もまずはメインの欄が全て埋まった。

さて、法要が13時からでまだ時間はあるが、その頃には外陣も人でいっぱいになるだろう。まだ場所取りの人も少ないうちに、大講堂や食堂のある西谷エリアに向かうことにする。

山道を5分ほど歩くと、大講堂、食堂、常行堂の三棟がコの字形に並ぶ一角に出る。節分の豆まきだけならこちらのコの字に囲まれた境内のほうが広そうに感じるが、これらの建物はどちらかと言えばそうした「俗なもの」を拒むような雰囲気がある。食堂では写経体験もできるが、それも含めて自ら修行する場というのかな(逆に映画や時代劇のロケ地として、この西谷エリアはちょくちょく登場するのだが)。

さらに進んだ奥の院には参詣する人じたいが減る。圓教寺を開いた性空上人を祀る開山堂がある。性空上人という人は、『徒然草』の中でも六根清浄の境地に至った人物として紹介され、旅先で宿に入った時に、豆の殻を焚いてまめを煮るグツグツした音を聴いて、聞こえないはずの豆同士の話を聴くことができた・・とある(この豆同士の会話の内容は中国の詩文にもある逸話だそうだが)。

摩尼殿に戻る。先ほどから人が増えていて、法要開始の13時が近づくと外陣はほぼいっぱい、外の廊下にも立つ人が出始めた。300人は優に超えているだろう・・・。
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