まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第17回四国八十八所めぐり~奥前神寺、成就社

2018年05月19日 | 四国八十八ヶ所
石鎚山ロープウェイの山上成就駅から歩き始める。まずは緩やかな上りを数分歩くと、正面に赤い屋根の建物が見える。奥前神寺という。64番の前神寺の奥の院の扱いとされているところ。この「奥」前神寺に対して、64番のほうを「里」前神寺と呼ぶこともある。

また歴史がややこしいところなのだが、そもそもは信仰の対象、あるいは修行の地として石鎚山があることから始まっている。ただ、標高1982mの石鎚山は冬は雪に閉ざされる。その間も、1450m地点のところのお堂で坊さんが留守を預かり、祈祷やお経をあげていた。冬でも常に住んでいるということで「常住」(現在は成就)と呼ばれ、これが元々の前神寺だった。

やがて江戸時代となり、四国遍路も盛んに行われるようになったが、札所とされていた前神寺まで行くのはしんどい。石鎚山を拝むならということで、横峰寺の側にできたのが星ヶ森である。一方、前神寺も出張所ということで山の麓に里前神寺を造り、ここで納経を受け付けることにした。そのため奥前神寺、里前神寺となった。石鎚山の別当寺をめぐって、横峰寺と前神寺との間のライバル争いがあったようである。

明治時代には例の神仏分離が行われる。里前神寺から石鉄(金へんに夫)権現が抜かれる形で少し上に石鎚神社ができ、一方の奥前神寺は成就社という神社になり、その下に今のお堂が建てられた。その後は里前神寺の復興もあり、今は前神寺といえば里前神寺を指し、奥前神寺は奥の院の扱いとなった。奥前神寺には、7月の石鎚山の山開きの時期だけ前神寺から石鉄権現が上り、御開帳となる。普段はお堂の扉も閉められている。

そのためか、一般の登山の人たちも前を素通りする。ただ、八十八所めぐりの延長戦で石鎚山に登る者としては素通りはしたくないなと思う。般若心経だけあげておこうか。この日は笈摺、納経帳、ろうそく、線香はホテルに置いて来たが、金剛杖、経本、納札、数珠を持っている。これからの登山の無事を願う。

奥前神寺から15分ほど上る。民宿兼土産物店が3軒ほど出て、その向こうに鳥居がある。ここが成就社である。石鎚神社の中宮社という位置づけである。結構新しい感じの社殿である。ここでも改めて登山の無事を祈る。登山者たちもこちらではしっかりと手を合わせていく。

隣に見返遥拝殿というのがある。正面には金の幣があり、その向こうには石鎚山の頂上、天狗岳が拝殿の窓枠に納まって見える。正に石鎚山そのものをご神体として拝む場所である。天気もよく、山頂の岩肌もくっきりと見ることができる。山の天気は変わりやすいというが、何とかこの先も持ってほしいところだ。ここでも般若心経のお勤め。拝殿の片隅に、四国八十八所や近畿三十六不動の巡拝を続けている作家の家田荘子さんが酒樽を奉納しているのを見つける。何だかわかるような気がする。

同じルートを往復するだけの道だが、一応、土産物店の店頭に用意されていた登山届を書き、ポストに入れる。この後の話になるが、5月6日、7日に、新潟県のそれほど高くない山に登った親子連れが行方不明になる事故も起きている。私も、普段登山をするわけでもなく、ましてや一人で登るということもあり、大事を取って届を書いた。

神門をくぐる。ここから山頂までは3.6キロの距離である。距離だけ見ればそれほどにも思わないが、500m以上の標高差を上る。ましてや途中には有名な鎖場もあるということで厳しいものになるだろう。

・・・と思うと、まず見えるのはいきなりの下り坂。八丁坂と呼び、その1キロ弱の区間はまず下り、鞍部に至る。ここで下りということは、残りの距離でより大きくなった標高差をクリアすることになる。そして帰りに下って来て、最後にこの距離を上ることになる。さすがは石鎚山、こういう仕掛けとは楽には登らせてくれないなあ。

ともかくしばらくはブナなどの原生林を見ながら、金剛杖を突いて下って行く。

下りきったところに鳥居がある。遥拝の鳥居といい、この先山頂まで行けない人はここで遥拝をするという。散策するならここまで、ここからは登山という境目にも見える。もちろん、鳥居では一礼するのみで、この先を進む。木々の間に山頂付近の姿を見ることができる。ここからが本格的な山道となり、厳しい道が続く・・・。
コメント