


やがて江戸時代となり、四国遍路も盛んに行われるようになったが、札所とされていた前神寺まで行くのはしんどい。石鎚山を拝むならということで、横峰寺の側にできたのが星ヶ森である。一方、前神寺も出張所ということで山の麓に里前神寺を造り、ここで納経を受け付けることにした。そのため奥前神寺、里前神寺となった。石鎚山の別当寺をめぐって、横峰寺と前神寺との間のライバル争いがあったようである。
明治時代には例の神仏分離が行われる。里前神寺から石鉄(金へんに夫)権現が抜かれる形で少し上に石鎚神社ができ、一方の奥前神寺は成就社という神社になり、その下に今のお堂が建てられた。その後は里前神寺の復興もあり、今は前神寺といえば里前神寺を指し、奥前神寺は奥の院の扱いとなった。奥前神寺には、7月の石鎚山の山開きの時期だけ前神寺から石鉄権現が上り、御開帳となる。普段はお堂の扉も閉められている。























