清水寺から西に向かい、東山通を渡る。先ほどまでの観光色から一転して民家や小さな商店が並ぶ一角となる。観光客の姿もほとんどなく、日常の生活の様子を見て何だかほっとする。

六波羅蜜寺は平安時代、空也上人が十一面観音を祀る道場を開いたのが由来とされており、当初は西光寺と称した。市聖と呼ばれた空也は、当時疫病が蔓延していた都で観音像を車に乗せて歩き、念仏を唱え、人々に施しを行ったという。六波羅といえば平清盛をはじめとした平家一門の屋敷が設けられ、鎌倉幕府も六波羅探題を置いて都の治政や朝廷の監視を行うなど、歴史の教科書にも出てくる地名だが、今は町の中に溶け込んだ感じである。
先ほど清水寺を訪ねたからそう思うのかもしれないが、六波羅蜜寺のほうが落ち着いていられるように思った。もっとも、江戸時代までは六波羅蜜寺も大きな伽藍があったそうで、現在の規模になったのは明治の廃仏毀釈のせいだというから、複雑な気もする。
靴を脱いで板の間の外陣に上がる。本尊十一面観音は秘仏で12年に一度の辰年のみ開帳される。まずはここでお勤めとする。清水寺のようなガヤガヤした感じがない。
寺の見どころである宝物殿に入る。六波羅蜜寺といえば・・・ということで見ておきたいのが二体の木像である。もちろん撮影はできないので、門のところにあったパネル写真を載せる。
一番は空也上人の立像である。僧侶の立像といえば四国八十八所の各札所にある弘法大師像で、札所ごとにさまざまなスタイルがあるのだが、諸国を修行して回っている姿をかたどったものが多い。ただそれらと比べても空也上人立像はリアリティがあり、人々に訴えかける表情というのはさまざまな角度から見ても迫真のものがある。
そしてもう一つは平清盛像。この経典を持つスタイルも、微妙な指の動きや、経典を見る目線の描写もリアリティを感じさせる。
いずれの像も鎌倉時代の作で、空也上人立像は運慶の四男である康勝の作品(平清盛像は不明)だが、いずれにしても当時よりはるか昔の人物を像にするのである。今のように本人の写真や映像もなく、当時でも肖像画すらなかったであろう人物がモデルの中、その表情や仕草というのは作者のイメージの中で造り上げるしかない。空也上人像も、実際の空也上人とは顔かたちは全く異なるのかもしれないが、実際もこんな顔かたちだったのだろうなと思わせる。平清盛像にしてもそうだ。
宝物殿には他にも髪の毛を手にした「鬢掛(かつらかけ)地蔵」立像や薬師如来像、四天王像、運慶、湛慶像などもあり、歴史密度の濃い空間である。たまたま訪ねた時は私一人だったため、静寂の中でそれらの像と対面することができた。たびたび清水寺を引き合いに出して申し訳ないのだが、あの喧騒も京都らしいし、こうした静かなスポットも京都らしい。西国三十三所もさまざまなタイプの寺院があるということだ。


六波羅蜜寺は他にも弁財天(都七福神の一つ)、水かけ不動もあり、こちらも手軽にお参りできる雰囲気である。
朱印をいただく。前に来た時には、右上の「西国十七番」と中央の梵字、左下の六波羅蜜寺の印が一体となったスタンプを納経帳にバンと押すものだったが、先達用納経帳は「西国十七番」を押すのに所定の位置があるため、普通に別々に押される。

さて時刻はまだ昼前、他にもまだまだ行けるところはあるが、この日はとりあえず西国めぐりを進めることができたということでこのまま大阪に戻ることにする。五条大橋まで出て、鴨川沿いを歩く。

朝来た祇園四条に戻り、帰りは京阪特急のプレミアムカーに乗車する。西国めぐりの2巡目はこれであと3つ。これは年内で終わることになるか、それとも・・・。







いずれの像も鎌倉時代の作で、空也上人立像は運慶の四男である康勝の作品(平清盛像は不明)だが、いずれにしても当時よりはるか昔の人物を像にするのである。今のように本人の写真や映像もなく、当時でも肖像画すらなかったであろう人物がモデルの中、その表情や仕草というのは作者のイメージの中で造り上げるしかない。空也上人像も、実際の空也上人とは顔かたちは全く異なるのかもしれないが、実際もこんな顔かたちだったのだろうなと思わせる。平清盛像にしてもそうだ。
宝物殿には他にも髪の毛を手にした「鬢掛(かつらかけ)地蔵」立像や薬師如来像、四天王像、運慶、湛慶像などもあり、歴史密度の濃い空間である。たまたま訪ねた時は私一人だったため、静寂の中でそれらの像と対面することができた。たびたび清水寺を引き合いに出して申し訳ないのだが、あの喧騒も京都らしいし、こうした静かなスポットも京都らしい。西国三十三所もさまざまなタイプの寺院があるということだ。







