まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第2回九州西国霊場めぐり~耶馬溪から羅漢寺へ、とにかく石

2021年07月06日 | 九州西国霊場

今回の九州西国霊場めぐりの3ヶ所を終えて、宿泊地である中津に向かう前に時間があるので先に耶馬渓に行くことにした。20年以上前、耶馬渓にあるユースホステル(実質は旅館兼業だったと思うが)に一度泊まったことがある。確かその時は中津駅からバスに乗ったかな。

長谷寺のある三光から耶馬渓方面に向かう道。普通の県道だなと順調に走っていると、進行左側に駅名標が現れた。通過する一瞬でその文字を見ると「耶馬渓鉄道」とあった。かつて中津から山国川沿いに守実温泉まで走っていた鉄道である。

次に見つけた駅名標のところでいったん停車。真坂という駅。まさか耶馬渓鉄道の跡に出会うとは。

国道212号線に入ると、アンダーパスをくぐる。こういうところにアンダーパスがあるのは不自然だが、先ほどからの流れでこれは耶馬渓鉄道の線路跡とわかる。戦後、耶馬渓鉄道は大分交通耶馬渓線となったが、ローカル私鉄のご多分にもれず道路の整備、マイカーの普及による利用者の減少の影響を受け、1975年に全線が廃止された。現在、線路跡の一部はサイクリングロードに転用されていて、このアンダーパスもその区間内だ。

青の洞門に到着。クルマが通れるだけの高さ、幅はあるが交互通行のため信号が設けられている。しばらく停車した後、まずはこちらから一度トンネルを抜け、反対側にある駐車場まで行く。やはりこのトンネルは歩いて経験したいところだ。

青の洞門が掘られたのは江戸時代中期、禅海和尚の手による。元々、競秀峰の断崖絶壁と山国川の間のわずかな幅の道をたどっていたが、江戸時代になると山国川の水量が増し、その道が通れなくなった。行き交う人は断崖ににつけられた鎖をたどるしかなく、命を落とす者も多かったという。当時諸国漫遊中だった禅海和尚はこの状況を見かねて、ここに洞門を掘ることを請願する。

当初は禅海一人で掘り進めていたが、やがて人々も協力するようになり、禅海自身も托鉢で資金を集め、石工たちを雇うこともできたという。当時は槌とノミで掘り進めるしかなかったとはいえ、完成まで約30年の歳月を要した。ここもまた、大分県の石にまつわるスポットである。

その耶馬溪を有名にさせたのは、この話を元に書かれた菊池寛の小説「恩讐の彼方に」である。「恩讐」という言葉も大がかりだが、作品では了海という僧がトンネルを掘っている。この了海、元々は江戸で旗本だったのだが、主人の妾と姦通し、それがばれたために主人を殺して江戸を出奔し、諸国を放浪していた。放浪中にも殺しなどしていたが、ここ耶馬渓に来て、自らの罪業を償うという理由で洞門を一人で掘り続けたというあらすじになっている。亡くなった主人の仇と狙われる場面もあるが、あくまで小説として描かれている。

一方、史実の禅海のほうは、そこまでして洞門を掘り続けたのは、かつての弘法大師のように、各地で土木事業や治水事業を行うことで人々のために役立とうという気持ちからだったのではないかとされている。人々の協力を得られたのも、禅海の教えの賜物であろう。

現在の青の洞門は後に拡張されたものだが、禅海和尚が手掘りした当時の跡も残されている。明かり取りの穴が2ヶ所開けられていて、すぐ下に山国川の水面を見ることができる。なお、青の洞門というと(青の洞窟と重なって)水面の青をイメージするが、何のことはなく、この辺りの集落の名前が青というところから来たそうだ。

さて青の洞門を往復して、もう少し先に進む。目指すのは羅漢寺である。

青の洞門が掘られた経緯においても、禅海和尚が羅漢寺へ参詣する人の交通の便を図ったからとも言われている。20年以上前に耶馬渓を訪ねた時は宿泊先で折り返したので、初めて行くことになる。五木寛之の「百寺巡礼」で、最後の100番目の寺として取り上げられていたのが頭に残っていて、今回中津方面を訪ねるにあたりコースに組み入れることにしていた。この羅漢寺も公共交通機関では今も難所で、火・金曜日のみコミュニティバスが1日2往復だけ運行される。

羅漢寺は羅漢山の中腹に位置している。麓の駐車場から徒歩で上ると30分ほどかかるというが、なぜか中腹を経由して山頂まで続くリフトが運行されている。こんな険しい山を歩いて上らせるのも難儀だからと、禅海和尚が30年かけてリフトを築いた・・・てなわけはないが、どこかに同じような心が宿っているように感じる。往復で800円かかるが、片道3分で羅漢寺の入口まで上ることができる。

参道を進むと、まず「携帯電話のご使用をご遠慮願います」の看板が出る。

そして進むと、「この先撮影禁止」の看板に出る。それも、「これよりいかなる撮影もお断り申し上げます。写真を撮りたい欲望を捨て、お参りする誓願のみで山内にお入りください」と、ビシッとしたものだ。羅漢寺は観光スポットではなく礼拝の地であることを明確にうたっているのだろう。そのため、この先の画像はないのだが、ネットの観光ガイドではいろいろ紹介されているのでご覧いただければ。よくもこうした断崖に寺が建ったものだと思うが、古くから修行の場として適していたのだろう。

羅漢寺を開いたのは法道仙人とされる。おっと、インドから渡って来て、摂津から播磨にかけてのあちこちの寺院で名前が出てきたこの法道だが、九州にも顔を出していたとは。もっとも、平安時代の天台仏教の時代を経て、現在につながる寺として改めて開かれたのは南北朝時代のことである。これからくぐる山門も足利義満が寄進したものとされる。戦国時代、大友宗麟の兵火で伽藍が焼け落ちたが、江戸時代に細川忠興の保護もあり、曹洞宗の寺として再興された。

山門に入る前に、千体地蔵が祀られている。こちらも室町時代のもの。閻魔大王、十王尊の背後に地蔵菩薩が祀られ、実際は千体以上あるという。

羅漢寺の由来は五百羅漢から来ている。山門をくぐった先に無漏窟(むろくつ)と呼ばれる岩屋があり、外には無数のしゃもじが奉納されている。一瞬、宮島にでも来たかと思ったが、願いを「掬う」という意味では相通ずるものがある。

そして、岩屋の柵の向こうには釈迦三尊と合わせて五百羅漢が並ぶ。これまで、お堂の中や境内(屋外)に並ぶ五百羅漢は何ヶ所かで目にしたが、洞窟の中で見ると凄味のようなものを感じる。表情も豊かで、人間のあらゆる感情というものがそれぞれの羅漢像を通して映し出しているかのようである。また、五百羅漢とあるが実際には700体余祀られているとある。

千体地蔵、五百羅漢とあるが、さまざまな石仏は山内全体で3700体以上にのぼるという。

さらに奥に進むと本堂がある。昭和の火災で焼失したものの再建だが、こちらも大きな洞窟になっており、くり抜かれたところを選んで建てられたようにも見える。「極楽阿弥陀堂 庭園入口」とあり、この先のみ拝観料がかかる。途中に「悩みを捨てる地獄箱」」などもあり、階段を上がったところに阿弥陀如来が祀られる。ここで鐘を撞いて、極楽往生・・というところである。本堂から周囲の山々を見渡すことができる。

当初は山岳修行の場だったのだが、地蔵、羅漢で現世利益を願い、最後は極楽往生につながる。いつしか広く一般の人たちに開かれた寺になったように見える。そうした歴史の奥深さを感じた後で、再びリフトに乗って駐車場に戻る。

さて、ここまで神仏習合、山岳信仰、石仏・・・といろいろ登場する。こういう視点、旅の目当てで九州を見ているが、さまざまな発見があって面白い。

まだ日は高いが、これでこの日の行程は終わりにして、宿泊先に向かう。こちらも耶馬渓鉄道にはゆかりがあるそうで・・・。

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