まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第17回四国八十八所めぐり~四国鉄道文化館

2018年05月12日 | 四国八十八ヶ所
今回の横峰寺、石鎚山めぐりのベースキャンプに選んだのは、伊予西条駅から東へ2分ほど歩いたエクストールイン西条。当初は駅正面の西条アーバンホテルを希望したが、大型連休中は早々と満室になっていた。エクストールインにしたのは朝食が6時45分からと早いのと、西条名物のうちぬき水を使った大浴場があることから。割り当てられた部屋は市内、海方向。予讃線の線路や石鎚山は見えないが、最上階の7階なので西条の町並みと遠くかすかに燧灘を望むことができる。

さて、時刻はまだ16時すぎということで、駅に隣接する四国鉄道文化館に向かう。前回伊予西条を乗り継ぎで通訪ねた時は、鉄道イベントが行われて大勢の子どもたちが訪れていた。

この日は特にイベントもなく、夕方のためか何組かの家族連れがいる程度でゆっくり見学できた。以前にも訪ねたことがあるが、新幹線の0系が「ハーフサイズ」で飾られているのが特徴的だった。新幹線が走っていない四国に新幹線が保存されているということで。

久しぶりに対面した0系新幹線と、ディーゼル機関車のDF50。展示館のいいところは、こうした車両を間近で見るだけではなく実際に触れたり、車輪の部分から天井までの高さを近くで実感できるところにもある。

0系は客室の一部がちょん切られた形だが、当時の座席も残っている。子どもの頃に乗ったのを思い出す。また、運転室に入ることもできる。ボタンを押せば1分間前照灯がつくサービスもある。子どもの頃の一時、「新幹線の運転手になりたい」と書いていたのを思い出す。現実は40歳を過ぎた「飲み鉄」のおっさんで、その当時の純粋な気持ちはどこかに行ってしまったのだが・・・。

館内には四国の列車の行先標やきっぷ、鉄道用品が数々並ぶ。旅情をくすぐる行き先がいろいろとある。こうした行先標、今のJRの車両では見かけなくなった。

隣接して、十河信二記念館がある。四国鉄道文化館に0系が展示されているのも、「新幹線の父」と称されるこの方の功績を讃えてのことである。

十河信二は新居浜の生まれで、当時の鉄道院に入る。戦後、西条市長も務めたが、1955年に71歳の高齢で国鉄の総裁となる。その後、財政面での紆余曲折があったが、東海道新幹線の建設、開業にこぎ着けた。「有法子」という十河信二の情熱と信念がなければ、新幹線は誕生しなかったのではとも言われている。またそれに関する一冊を読みたいものである。

ちなみに・・東予の十河信二に連なる流れには、近鉄中興の祖・佐伯勇がいる。伊勢湾台風で流された近鉄名古屋線を標準軌で復活させて名阪ノンストップ特急を走らせたり、「ドラ息子」と言いながらも近鉄バファローズを自身の最期まで大切にした人物。こちらにも敬意を表す。

さて四国鉄道文化館には、最近線路を挟んだ南館ができた。フリーゲージトレインが屋外に展示されているが、建物に入ると、「貴婦人」と称されたC57がお出迎え。子どもたちにはやはり蒸気機関車は人気であるが、そういえば四国では蒸気機関車の復活運転はやっていないなと気づく。設備やコストの面で難しいのかもしれないが、どこかでそうした運転が行われれば新たな人気になると思う。

その奥には急行型のキハ65がいる。先に、蒸気機関車の復活を・・・と書いておきながら、私にとっては蒸気機関車よりは国鉄塗装の気動車のほうが懐かしさを感じる。シートに座ってみると落ち着きを感じる。

この手の車両、なぜか窓の下のステンレスの部分にこすった落書きが多い。当時通学で利用した高校生たちだろうか。落書きと言ってもなぜか「LOVE」とか、「◯◯くん好き」とかの言葉の他に、ハートのマークや相合傘が書かれているのが多い。私よりも年上の世代だろうが、ローカル列車の中が友だちとの交流、あるいは淡い恋の場、そしてそれを冷やかす場だったのがうかがえる。

他にはディーゼル機関車のDF10もある。構内での貨車の入れ換えや、短い編成の客車列車でも活躍した車両である。これらの車両、鉄道好きにはうなるものが多かった。

展示車両を一通り見た後で、もうすぐ館内のジオラマのイベントがあるという。17時までの毎時0分からジオラマでの鉄道模型走行がある。ジオラマの手前部分には伊予西条の駅と鉄道文化館、そして西条まつりの神輿もある。

四国各地の風景をモデルにした模型が並ぶ中、列車は走る。ジオラマ全体で四国の車窓の魅力をアピールしようというショータイムである。最後には、「瀬戸大橋は新幹線が走ることができる設計です」というナレーションもあった。究極の目標はあくまで「四国新幹線」のようだ。四国に新幹線が走るのはいつのことになるやらわからないが、仮に実現するとして、新幹線が目指すのは松山か高松のどちらだろうか・・・で揉めないかが心配なのだが。

一通り見た見た後で、そのまま夕食として西条の駅前で「夜の八十八所」めぐりとする。松山などと違ってそんなに店があるようには見えないのだが・・・。
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第17回四国八十八所めぐり~愛媛の最後は山登りにて

2018年05月11日 | 四国八十八ヶ所
5月3日、大型連休の後半である。四国八十八所の愛媛で最後に訪ねる横峰寺に向かう。元々は大型連休の4日間で吉祥寺、前神寺、横峰寺、三角寺を訪ね、合わせて石鎚山にも登ろうと考えていたのだが、3つの寺をわざわざ別日程で大型連休前半に回したのは、先ほどまで書いてきた記事のとおりである。そして残ったのは横峰寺と石鎚山という難所2つとなった。

数えれば第17回の四国行きである。横峰寺と石鎚山はいずれも伊予西条が玄関口であるため、伊予西条駅近くのホテルを3日~6日まで連続3泊押さえた。それぞれ上って下りると1日仕事になるだけに、4日に横峰寺、5日に石鎚山に充てることにした。その前後、3日は大阪からの移動日、6日はフリーとして、東予地区のどこかを観光するか、ひょっとしたら前倒しで香川県に入ってしまおうか、それらも含めて保留ということにした。心配なのは天気で、出発前は3日、4日に雨の予報も出ていたが、実際には直前の2日が雨になった。その分連休中は天気が持ちそうで、これは誰かが後押ししてくれているなと安堵する。

その3日、大阪からのアクセスはせとうちバスの「いしづちライナー」である。2月に今治の札所めぐりをした時の帰りに利用したバスである。今治から大阪まで6時間、4列シートというのはなかなかキツいものだったが、安さと乗り換えなしというのはよかった。今回、途中の伊予西条まで利用する。大阪からは5時間の道のりだが、3日は「移動日」ということにしたので、乗っていれば着くというのはありがたい。

5月3日の朝10時前、大阪駅前のハービス大阪に現れる。阪神高速バスの本拠地である。乗るのは10時発の今治行きで、伊予西条にはちょうど5時間後の15時に着く。もう1本早いのは8時発があるが、この日は移動日、伊予西条に着いて終わりなので家をゆっくり出ることにした。

いしづちライナーは2台運行でやって来た。せとうちバスの車両である。確か前に乗ったのはコンセントつき車両だったが、今回はなし。2台とも6割ほどの乗車率で発車する。高速バスの検索サイトでは2台とも満席の表示だったので、神戸三宮で乗ってくるようだ。

淀川左岸線の大開から阪神高速に乗り、USJの横から湾岸線に合流する。このルート、西梅田から神戸への抜け道としてバスで使われるようになっている。淀川を渡り、鳴尾や西宮の沖を走るところは順調。

湾岸線の終点である住吉浜で渋滞するのはいつものことで、その後は摩耶大橋を経由して三宮のそごう前に着く。ここで座席がほぼ埋まる。

大型連休ということで道路の渋滞は折り込み済みだが、明石海峡大橋につながる名谷近辺で15キロほどの渋滞のようだ。運転手は電話でおそらく他のバスと連絡を取りながらルートを考える。向かったのは新神戸。新神戸トンネル~箕谷~7号北神戸線かと思いきや、左にルートを取って布引トンネルに入る。途中には源平合戦で知られる鵯越があり、トンネルで抜けていく。

その後は西神のニュータウン街を抜ける。途中にはほっともっとフィールド神戸がある。四国に行くのにこの球場の横を通ることになるとは思わなかった。

結局布施畑ジャンクションから北神戸線に乗ったが、すぐに高塚山トンネル手前で渋滞となった。ここから車線が増えるのに?と思ったが、そのままだらだらと進んで行く。

明石海峡大橋に出た。ここで渋滞の一因がわかった。それは強風。速度が50キロに規制されていたこともあるが、規制がなくても自然にスピードを緩めるくらいである。これは後で知ったが、明石海峡大橋はその程度だったが、瀬戸大橋は二輪が通行止め、鉄道も一時運転見合わせとなったそうだ。もし伊予西条のアクセスを鉄道にしていたら影響を受けたかもしれない。

淡路サービスエリアで渋滞も落ち着き、休憩場所の室津パーキングエリアに着く。本線からパーキングエリアへの分岐で渋滞しており、運転手が直前に案内した出発時刻をあわてて訂正する一幕もあった。梅田を出てここまで2時間、定刻から30~40分の遅れだという。でもまあ、この先は渋滞するポイントもほとんどないだろうから、このペースで行くのだろう。

この後は淡路島を順調に縦断し、鳴門から四国に入る。ここからは高松道を板野まで走り、いったん一般道に下りて藍住から徳島道に乗るのが高速バスの通常ルートだが、この時はそのまま徳島道を進んだ。普段からそう走ればいいと思うのだが・・。

吉野川サービスエリアで2回目の休憩。ここまで来るとクルマの流れもスムーズである。

その後、川之江ジャンクションから松山道に入り、3日前に見た四国中央市の景色を見る。やはり製紙工場の存在感がある。その下をくぐった上分(かみぶん)のパーキングエリアも通過する。

三島川之江インターで数人が下車し、新居浜インターで松山道から一般道に入る。40分ほどの遅れのまま新居浜駅に到着。半分近い下車がある。このバスは今治行きながら、利用は新居浜など東予地区が多いようだ。これは前回今治から乗った時も感じたことである。

新居浜からは住友関連の工場群を抜ける産業道路を走る。西条市に入るが駅から離れた済生会病院を含めたロードサイドの店が並ぶ。

15時40分頃、伊予西条駅に到着。ここで下車する。日中をバスの中で過ごす形になったが、周りの車窓や渋滞の様子を見ながらというので何とか耐えられた。自分がハンドルを握っていて渋滞ならイライラがたまっただろう。

これからまずはホテルで荷物を下ろすことにする・・・。
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第16回四国八十八所めぐり~瀬戸は日暮れて

2018年05月09日 | 四国八十八ヶ所
川之江での野球観戦を終えて駅に戻る。当初は、試合が長引くことや試合後に早い夕食を取るかということで、18時発の岡山行きの特急しおかぜ26号の指定席を取っていた。ところが実際は試合も早く終わったし、川之江の食事情は先の通りである。1本早い、16時59分発のしおかぜ24号に乗ることにした。そのまま自由席に向かう。

列車は愛媛から県境を越えて香川に入る。次の停車駅は観音寺だが、ここで特急を降りる。

不可解な行動に思われる方もいるだろうが、これはこの先へのマークのため。愛媛で残している60番の横峰寺は次に行くことにしている。これはよいとして、それ以降の札所は観音寺市や三豊市に広がる(次の66番の雲辺寺は徳島県の三好市に位置するが、讃岐の札所と数えられている。アクセスも観音寺市側からとなる)。このため、観音寺駅近辺のホテルをベースキャンプにするつもりだ。このため、急遽今回は伊予小松から川之江を経て、観音寺をゴールにした。これがなければまた川之江まで来て観音寺まで移動しなければならないところ、観音寺からスタートできる。

特急券はフイになるが、改札を出て、一応駅前に立つ。次に香川の札所を訪ねるのは少し先だが、私の八十八所めぐりもだいぶ先が見えてきたように思う。

ここで1時間後の、元々乗る予定にしていたしおかぜ26号を待ってもよかったが、先に観音寺始発17時31分の高松行きの快速があるのでこちらに乗る。これで讃岐の西側を走る。札所が集中するエリアだが、また交通機関と時刻表のにらめっこになりそうだ。

多度津、丸亀、宇多津と主要なところを過ぎ、坂出に着く。ここで18時24分発の快速マリンライナー54号に乗り継げば、岡山着は19時03分となり、しおかぜ56号より8分早い。

ちょうど瀬戸大橋は日暮れ時。座ったのが通路側だったので少し見にくかったが、しまなみの向こうに夕日が沈むのが見える。車内からも歓声があがり、窓の外にスマホやカメラを構える人も結構いる。このタイミングで瀬戸大橋を渡ったのは過去にあったかな。2日間の旅の最後に印象深い車窓だった。

岡山からは予定のさくら号に乗る。乗り継ぎまで夕食の調達だが、駅弁はほぼ全て売り切れ(何とか鰆の寿司を購入)、また東海道新幹線のダイヤが乱れていて、東京からののぞみも30~40分遅れとあった。四国への特急に乗り継げない客もいてコンコースはやや混乱していた。幸い、上り新大阪、東京方面は平常運転で、最後は2列シートで大阪に戻った。

これで大型連休前半の四国行きを終えたが、この次は中2日、5月3日からの連休後半に再び伊予西条に向かう。何という行程の組み方か・・・。
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第16回四国八十八所めぐり~観戦記・四国アイランドリーグ愛媛対高知@川之江

2018年05月08日 | 四国八十八ヶ所
川之江の町を抜けて着いたのは浜公園野球場。駅から行くと外野スタンドへの盛り土があり、三塁側に沿って正面に出る。ベンチ式の観客席は一・三塁付近までだけで、後は芝の席という地方球場らしい造りである。これから観戦するのは、愛媛マンダリンパイレーツ対高知ファイティングドッグスの試合。

開場が12時、試合開始が13時ということでしばらく外で待つ。金剛杖をそのまま持って来ているため「お遍路してはるんや」と地元の方から声をかけられる。「阪神応援しとるんやけど、今年はもう一つやなあ」と続けられる。

この球場はブルペンが外から丸見えで、投球練習も間近に見ることができる。独立リーグの投手の球速はだいたい130キロ台後半が多いが、それでも素人が近くで見ると速く感じる。

1台のコンテナが球場正面に下ろされる。球団が紙や布のリサイクル回収を行うという。紙は川之江や伊予三島といった四国中央、布はタオルなど繊維産業が盛んな今治を表す。回収して得た利益は球団の運営資金に充てるという。

開場時刻となり入場。愛媛のキャラクターであるマッピーと、謎の男「ウィーク・ゴールデン」氏に出迎えられる(画像は試合終了後のもの)。謎の男は球団スタッフの方だが、試合ごとにいろいろなものに扮して観客を盛り上げてくれる。

一塁側、愛媛側のスタンドに陣取る。ベンチ上のフェンスも低くグラウンドが見やすい。また外野の方に目をやると、最近新しくしたというスクリーン(アニメ表示も可能)があり、その奥には川之江城、川之江の入江、さらに奥には製紙工場が見える。なかなかよい眺めだ。海からの風も吹いて来るし、巡拝で歩いた後ということもありビールがより美味く感じる(ワンカップで持ち込んだ「梅錦」も後で美味しくいただいた)。

地元のダンススクールの子どもたちによるダンスの披露や、四国中央市の教育長の挨拶があり、愛媛、高知の選手、監督、コーチが全員紹介される。愛媛の選手は先日舞洲でのバファローズ(2.5軍)との練習試合で見たメンバーも多い。

さて試合。愛媛の先発は杉安。防御率は1点台でリーグの上位につけているが、勝ち星はまだない。初回は二死から3番宮田に安打を許すが、続く安藤を打ち取る。この安藤という打者、開き気味の構えがかつての中村紀洋に似ている感じだった。

高知の先発はサイドハンドの丸山。ここまでチームトップの2勝を挙げている。しかしまず先頭の太田にストレートの四球。続いては主砲のペレス。レフトへの当たりは伸びて、ポールを巻くようにしてフェンスを越えた。チームメイトのヘイドーンと並びリーグトップとなる4号2ランで愛媛が幸先よく2点先制。スタンドも大いに沸く。

2回は高知も反撃。先頭のザックが安打で出塁。その後、2つの四球で一死満塁とする。ここで9番の藤原がレフトへのタイムリーを放ち1点返す。なおも満塁とするが、続く高井はピッチャーゴロでホームフォースアウト、山城が空振り三振で1点止まり。ここは杉安が耐えた。

その裏、二死から安野、福田の連打で一・三塁のチャンスを作る。続く太田の打席で三塁へのファウルのゴロが飛ぶ・・・ように見えたが、塁審はフェアのジェスチャー。そのまま一塁に送球してアウト、チェンジとなる。高知の選手がベンチに戻る中、三塁コーチボックスの萩原コーチが抗議。河原監督も出てくる。NPBなら「チャレンジ」の対象となるのだろうが、ここは独立リーグ。ビデオで検証することはできない。結局審判3人で協議して、主審の判断でファウルと判定が覆った。

そうすると黙っていないのが高知の駒田監督。こちらは派手なジェスチャーも交えて何か言っている。三塁ベンチからはフェアに見えたのだろう。しかしそこは判定も決まったことで、これ以上覆ることはなく、試合再開となった。まあ、それだけ微妙な当たりだったということだろう。ここで助かった形の太田だが、再開後の初球をセーフティ気味にバント。丸山があっさりと抑えて3アウト。ちょっともったいなかったかな。

3、4回は両チームとも走者を出すが無得点で、5回表。高井が左中間への三塁打を放ってチャンスを作ると、宮田の内野安打で1点を挙げる。これで2対2の同点となり、試合の展開もわからなくなる。

愛媛は6回から片山が登板。牽制悪送球もあり勝ち越しのランナーを三塁まで進められるが、代打の田久見を見逃し三振に打ち取ってピンチを脱する。

7回の表裏にはジェット風船が飛ぶ。愛媛のオレンジ色のジェット風船は四国中央市ということで大王製紙(エリエール)の提供で、来場者にプレゼントされたもの。普段バファローズの試合を観戦しても風船は飛ばさないが、ここは川之江の潮風に任せるということで私も風船を飛ばす。

愛媛にもいい流れが来たようで、先頭の福田がレフトへの二塁打。太田が送って一死三塁として、迎えるは先制本塁打のペレス。振り抜いた当たりはライトへ。打った瞬間にわかる大きな本塁打となった。これで4対2と愛媛がリードする。これでリーグ単独トップとなる5号。

再び愛媛がリードして8回からは元日本ハムなどのベテラン・正田が登板。8回を3人で退ける。

8回裏、この回から高知は渋谷が登板。先頭の代打・堀尾が四球で出塁し、その後二死二塁となったところで安野がライト前にタイムリーを放つ。これで5対2となり、試合は決まった感じがある。

9回も正田が三者凡退に打ち取り、試合終了。5対2、2時間40分という早い展開だったが、見どころはいろいろあった。「今日はええ試合やった」とスタンドのあちこちで聞かれた。

試合終了後はアイランドリーグ恒例の選手お見送り。子どもたちも色紙やボールを持って選手たちには行列ができる。私も毎度のことながら納経帳にご朱印・・・もとい選手名鑑にサインをいただく。特に2本塁打で、この試合のMVPとなったペレスは大人気だ。

さて、四国八十八所めぐりも愛媛が終了間近ということで、アイランドリーグ観戦もいよいよ香川に移る。香川ではレクザムスタジアム(香川県営球場)、レクザムボールパーク丸亀(丸亀市民球場)、観音寺運動公園の3つの球場がある。その中でアイランドリーグのボールパークとして評判が高いのが丸亀だそうで、まだ行ったことがないこともありここは候補にしたいところだ。讃岐の札所めぐりと合わせて楽しみである・・・。
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第16回四国八十八所めぐり~第65番「三角寺」

2018年05月07日 | 四国八十八ヶ所
三角寺口のバス停から歩いて三角寺の山門下の石段に着く。これを一気に上ると山門に着く。ここは山門の真ん中に鐘が吊り下げられていて、山門で一礼した後に続いて鐘を撞く形になる。

三角寺は奈良時代、聖武天皇の勅願で行基が開いたとされている。その後、弘法大師が本尊の十一面観音と不動明王の像を安置し、三角形の護摩壇を設けて秘法を施したという。護摩壇の形が三角というので三角寺とはベタな命名だとは思うが・・。往時は多くの寺領を有していたそうだが、長宗我部元親の兵火で焼失し、江戸末期に再興したとある。

なお、こちらの十一面観音は子安観音として信仰されている。子どもを祈願する夫婦は寺で杓子をいただき、無事安産すると新しい杓子を奉納するのだという。その杓子を使って夫婦仲良く食事をすることが子宝に恵まれることにつながるそうだ。

境内に入ると周りは青々とした木々に囲まれている。また今は花はないが、巨大な山桜の木もある。かつては小林一茶もこの山桜を愛でたそうだ。

本堂はその奥まったところにある。少し息を整えて、ここでまずはお勤めである。クルマで来たとおぼしき人たちの中に、歩きで来たらしい出で立ちの人もいる。朝方のバスには乗っていなかったから、朝から伊予三島、あるいは川之江からここまで歩いて来た人たちだろうか。ちなみに次の札所である雲辺寺へは、歩きだと1泊2日のコースだという。途中、県境に近い民宿に泊まるのが定番だそうだ。

緑もみじといった感もある境内。大師堂も緑に囲まれた中にたたずんでいる。

納経所で朱印をいただき、しばらく境内で休憩。真新しいトイレも設置されている。時刻は9時を回っており、川之江まで歩いて2時間かかると見ても野球には十分間に合うはずだ。歩きの人はこのまま雲辺寺を目指すのだろうが、私だけ逆に今来た坂道を下ることにする。

結構勾配が急だ。そんな中、クルマは引き続き上って来るし、歩きという人ともすれ違う。もっと驚いたのはマウンテンバイクを押して上がる人。こういう場合、手で押さなければならないから最もキツいのではないかと思う。

先ほどの集落との分岐道を今度は直進し、川之江の中心に直接向かう車道を歩く。少し行くと、伊予三島からの遍路道との交差点に出るが、そのまま下る。こちらも高台に住宅もあればみかん畑、さらには牛舎や鶏小屋の横を過ぎる。鶏を見ると、前夜にいただいた揚げ足鶏の足や手羽の部分を思い出す。ああいう店で出す鶏というのはどこで育てられたものかなと思いを致す。

ひたすら下る。寺から30分ほど歩いたところで松山自動車道の下をくぐる。この場所のちょうど横が上分(かみぶん)のパーキングエリアだ。三島川之江インターの東に位置しており、これまで何回か松山自動車道を通る中で、こういう名前のパーキングエリアがあったのを思い出す。その場所に出るのかと地図を見て納得する。

松山自動車道をくぐってさらに5分ほど行くと、「天道たいま山退魔堂ご案内」という看板がある。もちろん八十八所とは関係ないが、弥勒や観音、地蔵もいるそうだから仏教系の何かの新興宗教だろうか。

この辺りから人家も増えてきて、ようやく平地に戻った感じがする。そんな中ふと道端に「新四国第七十九番 高照院」の立札がある石仏に出会う。新四国?と思いながら通り過ぎると、すぐ近くにも近い番号の同じような立札がある石仏がある。その番号と札所の名前が一致している。こちらは四国八十八所に何か関係あるのかなと調べてみると、川之江の新四国めぐりなのだという。四国全土に行くのはなかなか難しいから、川之江の町の中に八十八のいわばお砂踏みを設けた形のものである。気づかなかったのだが、この川之江新四国を設けたのが前日訪ねた川之江駅前の吉祥院だそうで、吉祥院が1番だという。川之江の集落をぐるりと回る八十八所というわけだ。

上分の町から川之江の集落に入る。この辺りは昔ながらの町並みがあるかと思うと、遠くには製紙工場の煙突も見える。ここは淡々と歩く形になる。

11時前、川之江の駅前に戻ってきた。振り返っても三角寺の境内は山の中で見えないが、あの中からよく歩いて来たものだと思う。そういえば前日泊まったホテルの向かいがフジ系列のスーパーである。野球場の食事情がよくわからないので、ここで昼食と飲み物を仕入れることにする。地酒の梅錦のワンカップもしっかり仕入れる。

こちらも旧陣屋のエリア。川之江といえば模造天守のある川之江城があるが、また丘まで上がることになることもあり、ここは丘の下を過ぎるのみにする。

その城の下に入江があり、細い路地の集落の中を抜けると浜公園に出た。ちょうどレフトスタンドの後方で、正面入口へはもう少し歩く。三角寺から歩くこと2時間あまり、これからいよいよ今回楽しみにしていたアイランドリーグ観戦である・・・。
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第16回四国八十八所めぐり~三角寺口

2018年05月06日 | 四国八十八ヶ所
4月30日、三角寺へ向かう。公共交通機関としては、川之江の隣の伊予三島から新宮、霧の森行きのバスに乗り、三角寺口バス停から徒歩40~50分とある。まあ、バス停から歩くのは仕方ないとして、問題はダイヤ。土日ダイヤだと、伊予三島駅発は7時43分、11時、14時30分と3本しかない。

また、三角寺口からの戻りの便は、新宮、霧の森に行った車両が折り返してくるようだが、三角寺に普通にお参りしたのでは間に合わない。何回も触れているように午後は川之江での野球観戦で、試合開始は13時、開門は12時である。となると選択肢は伊予三島を朝のバスに乗り、三角寺からの帰りは川之江まで7~8キロを歩くことになる(川之江駅から球場までは歩いて10~15分と見込む)。

ホテルの朝食が6時半からなのがよかった。ミニバイキングだが、セレクトインホテルチェーンが力を入れているという朝カレーがなかなか美味かった。

川之江7時31分発の伊予西条行きに乗り、36分に伊予三島に到着。改札を出るとちょうど43分発の新宮行きのバスが入ってきた。好接続である。

バスの乗客は私一人。途中、伊予三島の中心部から地元の人が何人か乗ってくる。器用に数少ない便を利用するものだなと見ていると、一貫田(いっかだ)で降りて行った。ここから10分ほど歩くと高速バスの三島川之江インターバス停があるので、それに乗り継ぐのだろう。この辺りは国道11号線も走り、ロードサイドの大型店も並ぶ。川之江や伊予三島の駅前が寂しかったのも、今の地方都市の典型的な姿だろう。

川之江方面に戻るルートを通るバスも、上分(かみぶん)から山の方に進路を取る。途中、川之江の地酒「梅錦」の蔵元を過ぎる。雰囲気のよさそうな建物だったので歩いてみたいとも思ったが、帰りは別ルートを歩くことにしている。せめてどこかでワンカップでも買うことにするか。

8時06分、小さな集落の中の三角寺口バス停に到着。バスを降りて笈摺を羽織り、金剛杖を取り出す。三角寺までは2.2キロとある。まずは小川に沿って緩やかな坂を上がる。田畑の中にゆったりした造りの民家がある、緩やかな里山という感じだ。こういう景色が広がるとは意外だった。

少しずつ坂が急になる。振り返ると周囲の山々と合わさってのどかな景色である。一方で、少し霞んだ先の町中に見える丘が川之江城。帰りはあそこまで歩くのかとちょっとため息をつく。

川之江の町からの車道と合流する。ここから三角寺まで1キロとあるが、なかなかの勾配である。アスファルトの車道を延々と上るのもきついものがある。西国12番の岩間寺、あるいは29番の松尾寺に至る坂道、を思い出す。まあ、あれに比べればまだ距離は短い。ここは淡々と杖を突きながら坂道を上る。途中何台もクルマが追い越して行くが、それはどうぞお先に・・・という感じである。

バス停からは35分ほどかかったか。山門の下の駐車場に着く。駐車場から山門までは急な石段が数十段伸びる。ちょうど、菅笠に金剛杖スタイルの二人連れの巡拝の方がタクシーで乗り付けたところ。「この階段上るの~」とこの世の終わりのような顔をしていたが・・・。
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第16回四国八十八所めぐり~川之江にて

2018年05月05日 | 四国八十八ヶ所
4月29日、日曜日の夕方の川之江駅に降り立つ。駅前のアーケードの商店街には「紙のまち川之江」と書かれているが、日曜日だからか見事に「シャッター商店街」と化している。開いている店はまばらだ。個人商店が多いのだろうが、見た感じ、平日も営業していない店も結構あるのではと心配してしまう。

その商店街の間に、立派な山門の寺が見えたので言ってみる。江戸時代からの古刹である真言宗の吉祥院という。今年はもう見頃を過ぎて花も落ちたようだが、牡丹の名所だという。

少し歩いた川沿いに「紙のまち資料館」というのがある。閉館間際だったので急いでの見学だったが、製紙業で発展した川之江の過去から現在が紹介されている。和紙作りのメカニズムから、最新の工業製品としての紙製品まで触れられている。また予約にて紙すき体験ができるとあり、階上の工房では子どもたちが挑戦の最中だった。

和紙の芸術作品には水引がある。水引といっても祝儀袋のそれに止まらず、立体性を持たせ、龍などをあしらった一つの芸術作品になっている。

展示コーナーの一部は和紙製品の販売コーナーも兼ねている。はがきや便箋などの定番に加えて、四国八十八所や西国三十三所の納経帳が並んでいたのは驚き。川之江の和紙で作った納経帳、ありがたみも増すかな・・?

この日の宿にチェックイン。ホテルセレクトイン四国中央で、コンパクトにまとまったビジネスホテルである。フロントにて「三角寺さんに行かれたんですか?」と訊かれる。それは翌日ということで。シングルだが部屋が意外に広い。元の城下町の中で、ちょうどこの一角は、短命に終わった川之江藩の一柳家の陣屋があったそうで、ホテルの向かいにはその碑が立っている。

さて時刻は17時前、八十八所めぐり定番?の「夜の八十八所」探しである。フロントにはお手製の近隣の店紹介の地図が置いてあり、これを元に物色する。シャッター街に見えた商店街の路地にも居酒屋があるし、無難なチェーン店なら養老乃瀧もある。

ネット検索と合わせて見る中で、四国中央市のローカルフードに「揚げ足鶏」があるのを知る。鶏の足のところ、丸亀をはじめ香川ならこれを焼いた「骨付き鶏」が人気のメニューだが、四国中央市の川之江や伊予三島では素揚げにするのだという。あくまで「揚げ足鶏」で、「揚げ足取り」ではない。

その店の一つが、商店街から踏切を渡ってしばらく歩いた、甲子園にも出場したことのある川之江高校の向かいにあるという。「若鳥大門店」におじゃまする。

小ぶりな店内は17時すぎだがごった返す様子だ。カウンターに座ると、店の大将が次々に鶏の足肉を少し手でほぐして油の中に次々に放り込む様子がよく見える。また他の部位もパン粉をつけて別の油の中に放り込む。奥の座敷にゴルフコンペの打ち上げらしいお父さん方の団体が入ってすでに出来上がっていて、そこからも次々注文が来る。店員も少ないので対応に追われている。

その中で頼んだのが「足」と「手羽」。足は素揚げ、手羽はパン粉つき。中でも手羽は、左右両方の手羽先と手羽元が一緒に揚げられてデンと置かれる。いずれもビールによく合う味付けだ。

店がてんてこまいなのは奥の団体だけのせいではなく、ひっきりなくかかる電話のせいもある。いずれも持ち帰りの注文で、鶏肉と油とパン粉と格闘する大将も手をはたいて受話器を取る。その注文、私が聞く限りでは出来上がりが最初「15分後」「30分後」だったのが、そのうち「1時間後」となり、「足以外はダメ」となり、ついには「今日は売り切れました」として電話注文はお断りとなった。開店は16時で、現在まだ18時すぎだが・・。一方で、電話注文の客が裏口から訪ねてきて、ケーキなど入れる容器に入った揚げ足鶏を持ち帰るのも待たせる状態となった。クリスマスにローストチキンを持ち帰る光景が、ここ川之江では日常的に行われるわけだ。

持ち帰りの客を待たせるのは仕方ないが、まだ18時すぎなのに店の暖簾を外し、普通に店を訪ねてきた客もお断りになった。すでに店の中にいる客はよかったのかもしれないが、そうされると私も追加の注文がしづらくなり、鶏肉でお腹はふくれたが気持ちは消化不良で店を出た。店員も別に申し訳なさそうな様子もなく、この店、いやあるいは川之江では普通なのだろう。

これ、大阪で同じことされたら客は怒って2度と利用しないだろうな。店の方も、オペレーションを何とかして店内、持ち帰りの客両方をうまく回そうとするだろう。どこの居酒屋で、開店から2時間で店を閉めるところがあるか。忙しいのはわかるが、どこかもったいないように思う。元々持ち帰りメインの店だとか、川之江の人たちもクルマ社会なのだろうが、持ち帰りよりも店に食べに来ようとしないのかな・・・?

この後は部屋でゆっくりする。翌日30日は午前中に65番の三角寺にお参り、その後で川之江野球場での四国アイランドリーグ観戦である。忙しい1日になりそうだが、その前にゆっくり休むことにする。ホテルの周りは実に静かだ・・・。
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第16回四国八十八所めぐり~第64番「前神寺」

2018年05月04日 | 四国八十八ヶ所
石鎚神社に参詣後、その麓にある前神寺に向かう。桓武天皇の勅願寺であるという石碑が立つ。元々は石鎚神社と同じく役行者が開いたとされているが、平安時代以降は、石鉄権現の東の遥拝所としての歴史を持つ。

ここからは少しややこしくなるのだが、この前神寺は「里前神寺」との呼び方があるそうだ。その「里前神寺」に対する「奥前神寺」というのが現在の石鎚山の上の成就社である。

明治の神仏分離、廃仏毀釈により「里前神寺」と「奥前神寺」はいずれも石鎚神社となり、その後、「里前神寺」が再興される形で現在の前神寺となり、「奥前神寺」は今宮道の最終地点に再興された。またロープウェイの開通にともない、「奥前神寺」が山上駅近くに移され、成就社となった。

・・・ここまで書いて何が何だかややこしい話になっているのだが、要は、現在の八十八所の前神寺は最初から弘法大師霊場の札所だったわけではなく、石鎚信仰と深く結びついた歴史があるということだ。

入り口から駐車場と墓地を抜けて境内に入る。大型連休の前半、白衣、笈摺姿の人も目立つ。まず目に付くのが大師堂で、本堂はこの先である。少し参道を歩く。

途中には滝に打たれる不動明王の像もある。像の下の岩肌には多くの1円玉がこびりついている。何かご利益があるのだろうか。

この先が普通の寺とは雰囲気が違う、ちょっと隔離されたようにも見える空間である。その正面奥に本堂が見える。両側に回廊を従える姿というのは、これまでの八十八所の札所では見なかったのではないかと思う。見た目は寺というよりは神社である。この本堂は1972年の再建で、屋根は銅板で葺いているそうだ。

本堂に近づくと正面には丸に石の字の石鎚神社(石鎚本教)の紋が見える。先ほど神社にお参りしただけに、ここは神社の別当寺なのだなと感じる。ただ、八十八所めぐりの多くの人は札所の一つとして前神寺は訪ねるが、その奥(というか本家)の石鎚神社は参詣しないのだろう。何も石鎚山に登れということではないが、札所の歴史を実感するのならせめて石鎚神社くらいは手を合わせてもいいのではと思う。

本堂の敷地の横に鳥居と石段があり、これを上がると石鉄権現堂がある。ただこちらに来る人は他にいなかった。

元に戻る形で大師堂にお参りする。本堂や石鉄権現堂が存在感あっただけに、ここばかりは大師堂も付け足しのようなお参りとなった。

納経所に向かう。入口横には「真言宗石鉄派」の文字がある(「鉄」は正しくは金へんに「夫」だが、変換が面倒なので「鉄」にしておく)。真言宗にもさまざまな派があるが、石鉄派というのは石鎚信仰をベースとした独特なものだと思う。毎年7月1日から10日間の「お山開き」の期間が特別なものだという。この期間は、普段前神寺に安置されている石鉄権現が石鎚山に上がり、それに合わせて大勢の石鎚本教の信徒たちも一斉に山登りをする。普段はハイキング客で賑わう石鎚山も、この期間だけは白衣姿の信徒たちであふれ返るという。

今回四国八十八所めぐりと合わせて石鎚山に登ろうと思ったのは、山開きの期間とは異なるが、こうした信仰の山、八十八所とも縁のある山ということで、一度見てみようと思ったからである。5月の大型連休後半は天候にも恵まれそうだし、何とか行けるだろう。

これでこの日(4月29日)の札所めぐりは終了で、参道を通り、国道11号線を渡って石鎚山の駅に着く。もちろん無人駅で、きっぷの自動券売機もない。今回は大阪から伊予小松までの往復の乗車券をあらかじめ購入しており、伊予小松~石鎚山間をムダにすることになるが、遠距離の乗車券なので運賃は同じようなものである。やってきた列車(2両編成だが後1両は回送扱い)は観音寺行き。まずは伊予西条に向かう。

伊予西条では回送車両の切り離しや特急の追い越し、行き違いのため20分以上停車する。駅の両側にある四国鉄道文化館は鉄道イベントのためこの時間も家族連れで賑わっている。その中で、イベント参加後とおぼしき親子連れも何組か時間待ちの鈍行に乗ってくる。そのほとんどが母親やお婆ちゃんに連れられた子どもで、父親はクルマでどこかこの先の駅に迎えに回るのだろう。普段のお出かけは家族揃ってクルマなのだろうが、こういうイベントだから子どもを「珍しく」電車に乗せようということかな。果たして、多くは2つ先の新居浜で下車した。

私はというと、この日は翌日の65番の三角寺参りと、午後からの四国アイランドリーグ観戦のために川之江に泊まる。このまま乗車する。新居浜市から四国中央市に入る。右手には山、左手には開けた田畑とその向こうに海もちらりと見える。この辺りは八十八所の札所がないエリアで、歩きで回る人には平坦な道のりながら結構苦痛な区間なのだという。

15時17分、川之江に到着。川之江という地名はよく耳にするが、駅そのものは島式ホーム1本きりの簡素なもの。駅員がいてみどりの窓口もあるのだが、店といえばJR四国の駅に併設されるパン屋(ウィリーウィンキー)があるだけで、普通の売店もコインロッカーもない。

宿泊のホテルは駅の近くなのだが、まだ時間も早いので少し町を歩くことにする・・・。
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第16回四国八十八所めぐり~石鎚神社

2018年05月03日 | 四国八十八ヶ所
前神寺にお参りする前に、その西の道から上る石鎚神社に参詣する。石鎚神社とは「四社」で成り立っていて、これから目指すのは口之宮の本社である。他には、ロープウェイで上ったところの中宮の成就社、そして石鎚山の頂上にある奥宮の頂上社、さらに松山側の土小屋遥拝殿がある。これから目指すのは口之宮という名だが、平地にもっとも近いことで多くの参詣者が訪れる本社、本宮である。

まずは山門をくぐる。門の両側には仁王像ではなく、大天狗、小天狗という2体の像が番をしている。この時点で、何やら普通の寺院とは違った雰囲気を醸し出している。

山門をくぐると、石鎚信仰に大きく寄与した人たちを顕彰する石碑が並ぶ。地元の伊予の各地だけではなく、海の向こうである安芸や備後、さらには九州の方たちの名前が並ぶ。第二次大戦後、石鎚山は昔ながらの神仏習合をベースとした石鎚本教というのを形成しており、これらの石碑は石鎚本教、石鎚信仰に対する寄付である。結構多いものだと思う。

石段を上がると石鎚本教の総本部といえる建物に出る。ちなみにこの会館は一般の人も宿泊できる(この連休中も宿泊サイトから予約可能の表示があった)。

その先の石段がある。戦前の内閣総理大臣・斎藤実の揮毫による碑文がある。「威烈輝千戴、徳澤溢四海」というもの。なぜ四国の石鎚神社に寄贈したのかはよくわからないが。

石段を上がると鯉が泳ぐ池があり、その先には石鎚山を信仰の山として開いたとされる役行者の像がある。石鎚山にも足跡を残していたとはね。そして修験道の跡を弘法大師空海がたどるわけだが、その大師像も拝殿への途中に立てられている。

由緒ありげな祖霊殿に出る。ここで手を合わせ、さらに石段を上ると拝殿がある一角に出る。こちらの拝殿も最近再建されたそうで、新しい感じがする。まずはここで手を合わせて、旅の無事への御礼、さらにはこの先の交通安全と、翌日(4月30日)に観戦する四国アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツの勝利を願う。

拝殿の内陣では神官による祈祷が行われていた。祝詞を奉った後で神官は正面に供えられていた金色の幣を持ち、一人一人の頭から肩にかけて当ててやる。金色の幣というのは石鎚山独特のものだろうか。

拝殿前の広場から外を見渡す。北側の平野部は電車の走行もよく見える。一方で、朝列車で乗りつけた伊予西条の町並みは遠く見える。次の四国めぐりで横峰寺や石鎚山に挑むためのベースキャンプに予定している。

拝殿前の広場に休憩所があるので、ここでしばらく昼食を兼ねて休む。来る途中で買ったおにぎりがこの日の食事。その中で休憩所の壁に掲げられた年表を見る。長い歴史の中で多くの山岳信仰を集める一方で、廃仏毀釈の影響もあったようである。現在にいたる結果だけをみれば石鎚本教の勝利なのかもしれないが・・。

なお、石鎚神社では5月6日に、赤ちゃんによる泣き相撲が行われるとある。当日は片男波親方(親方の元・玉春日は愛媛県出身)ほか力士が登場という。6日か・・・順当なら横峰寺と石鎚山を回った後だなということで、ともかく予定になり得るところとしてインプットしておく。

拝殿から再び石段を下り、祖霊殿に戻る。この脇に、石鎚山からのご神水が湧いているという。小さな祠があり、ここで先に手を合わせて水を汲んでペットボトルに入れる。山の自然の水という感じで、この先の道のりでありがたくいただく。またこの脇には弘法大師の像も立つ。神社に弘法大師というのも珍しいかもしれない。ただこれも石鎚山というカテゴリーでくくると、十分あることかなと思う。

次はすぐ近くの64番の前神寺を目指す。一時は横峰寺、石鎚信仰の末寺のような存在だったというが・・・。
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第16回四国八十八所めぐり~第63番「吉祥寺」

2018年05月02日 | 四国八十八ヶ所
国道11号線の北側に面した63番の吉祥寺。ただこちらは裏門のようで、山門には脇道を入った東側にある。山門の前には狛犬ではなく象の置物が左右に並ぶ。また、山門には「四国唯一毘沙聞天」の文字がある。毘沙門天(ここ吉祥寺では毘沙「聞」天と書き表すそうだ)が本尊というのは四国八十八所ではここだけとのことだ。

吉祥寺は、弘法大師がこの辺りで光を放つ檜を見つけ、毘沙聞天と吉祥天の像を彫って安置したのが始まりとされている。当初は現在地から2キロほど南の山中に建てられたが、豊臣秀吉の四国征伐の時、小早川隆景が近くの高尾城を攻めた際に焼かれた。江戸時代になり、末寺があったこの地に毘沙聞天が移され、再建された。本来の札所は山の中だが、讃岐街道沿いに移ったのは参詣者の便宜を図ってのことかなとも思う。

吉祥寺と聞くと、東京の中央線沿線の人気の住宅地をイメージする方もいるだろう。四国八十八所とは関係ないと思いつつ、東京の吉祥寺の地名の由来についてネットで調べてみた。果たして四国とは関係なかったのだが、驚くことに、吉祥寺には「吉祥寺」という名前の寺がないとあった(トリビアの泉に出そうなネタ)。東京の方にはよく知られていることなのかもしれないが、吉祥寺という寺は文京区の本駒込にあるそうだ。なお、この寺は当初水道橋の辺りにあったのだが、江戸市中が大きな被害を被った明暦の大火で、寺は消失を免れたが門前町の人たちが焼け出されてしまうことがあった。この人たちは後に幕府の斡旋で武蔵野台地に移り住み、新田開発に従事することになったが、新たな地名として愛着ある寺の名前を付けたという。それが地名の吉祥寺の由来とされている。なお、水道橋の寺はその後別の火災で焼失し、現在の本駒込に移された。この記事を書くにあたり、「へぇ~」だった。

さて話を四国の吉祥寺に戻す。境内の塀に沿って、四国巡拝の記念の石碑が並ぶ。最近では数年前に建てられた200回記念というのが山門の内側にある。四国を200回巡るというのはどういう境地なのかなと思う。寺参りの移動や一連の作法もほぼルーティンと化してしまっているのではないかといらん心配をしてしまう。四国巡拝が生活そのものになってしまっているというか。

まずは本堂にお参り。連休中とあってか、歩きの人、クルマの人含めて白衣、笈摺姿の人も目立つ。続いて、斜め前の大師堂に手を合わせる。二つのお堂が接しているので、ろうそくや線香は1回でまとめて済ませてもよいくらいである。

この吉祥寺で知られているのは、成就石というもの。本堂から20mほど離れたところに、直径30cmほどの穴が開いた石がある。本堂の前から金剛杖を手にして目をつむったまま歩き、この穴に杖を通すと願いがかなうという。これに挑戦したというブログやネット記事を見たので私もやってみる。しかし、境内で人が行き交う中、まず目をつむって石のところにたどり着くのが無理なことだ。そのうえ、目をつむって金剛杖を穴に通すとなると・・・。難しいからこそ、できた時に願いが成就することにつながるのだろうが、ここは挑戦を断念して、金剛杖を穴に通すところのイメージだけ写真に収める。

納経所に向かう。建物の前には西条市にある5ヶ所の札所の道順や所要時間が書かれた看板が出ているが、やはりというか果たしてというか、隣の62番は宝寿寺ではなく、61番の香園寺の駐車場に設けられた礼拝所とある。納経所の中でも、宝寿寺が霊場会に入っていないからと礼拝所への巡拝を薦める張り紙がある。うーん、前と後でそちらに誘導しようという作戦やな。実際、回る人はどのような行動を取っているのかな。

これで吉祥寺は終わり、次は64番の前神寺である。吉祥寺は予讃線の伊予氷見駅近く、前神寺は隣の石鎚山駅から歩いて数分のところにある。普段の生活なら1駅列車に乗って・・・となるが、両駅には特急は停まらず、普通列車も1時間に1本である。他には国道11号線をバスが走っている。列車かバスに乗ればすぐ着くが、ここは歩いてみよう。公共交通機関遍路のスタイルを取っているが、やはり少しは歩かないと。

今度は讃岐街道ではなく、国道を歩く。クルマの量は多いが、幸い歩道が確保されているので歩きやすい。

途中、このような建物に出会う。これでもパン屋さんである。私は死んでも入りたくないが、タイガースのファンの方なら昼食確保をかねて買い物するのも良いのでは(すでにタイガースファンの遍路の間では有名だったりして)。なお、表にタイガースの先発ローテーションの秋山拓巳投手とあるのは、地元西条高校出身だからだろう。西条高校といえばかつての名選手として、藤田元司(巨人、監督)、森本潔(阪急、中日)などがいる。この辺りも愛媛の野球どころと言ってもいいだろう。

吉祥寺から前神寺へは3キロあまりでさほど時間がかからずに近づいた。その手前に、石鎚神社の看板と大鳥居が見えてくる。石鎚神社、ここは八十八所の札所ではないが、ぜひ行くところだろう。この後の前神寺、そして次回に予定している横峰寺もそうだが、石鎚信仰に縁の深いところ。石鎚神社はその中心、本宮に当たる。

少し手前で大鳥居をくぐる。ここからしばらく坂道を上ると・・・。
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第16回四国八十八所めぐり~小さな藩の奇跡

2018年05月01日 | 四国八十八ヶ所
伊予小松の駅から真っ直ぐ吉祥寺に向かわず、一度讃岐街道まで向かう。駅からの道と讃岐街道が交わるところに寺の門がある。本善寺という。案内によれば小松藩士の菩提寺とある。

ここで小松藩というのに触れておく。江戸時代に一柳(ひとつやなぎ)家が治めた藩だが、わずか1万石という、大名としては最低限の石高でしかない。この一柳家の初代にあたる直盛というのが伊賀神戸や播磨の小野の辺りに領地を持っていたのだが、関ヶ原の戦いや大坂の陣の手柄により幕府から伊予西条の6万8千石を与えられた。しかし、伊予西条に赴任する途中、大坂で病没してしまう。

そこで幕府は、6万8千石のうち伊予西条の3万石を長男の直重に与えて西条藩とし、川之江の1万8千石と小野の旧領の一部である1万石を次男の直家に与えて川之江藩とし、三男の直頼に西側の1万石を与えて小松藩とした。これで丸く収まればよかったのだが、長男の西条藩は三代目の失政による咎めでお取り潰しに遭い、後に松平家が入った。また次男の川之江藩は直家が亡くなった時に後継ぎがいなかった(急遽後継ぎを立てたが認められなかった)ためこれも取り潰され、この家系は小野に移され、川之江は幕府直轄の天領となった。結局三男の直頼の1万石だけが一柳家の名跡として残った。

小松藩1万石は周りを幕府側に囲まれる形になったが、その中で小さな藩らしく慎ましい政治を行ったためか、取り潰されることなく明治を迎えることになった。その領地というのは現在の西条市と合併する前の旧小松町のエリアと、飛び地として別子銅山の西側の山中にあったくらいで、まさに小藩である。

そんな小藩に江戸中期からおよそ150年にわたって書き続けられた「会所日記」というのが残されている。現在でいうところの行政日誌のようなもので、ここまでまとまった形で残されているのも珍しく、また小藩だからか日常の身近な出来事や財政状況もつぶさに記されており、学術的にも貴重なものとされている。その内容をコンパクトに紹介した『小さな藩の奇跡』(増川宏一・著、北村六合光・原典解説 角川ソフィア文庫版)という一冊が出ている。藩の財政のやりくりに困り、時には藩士(といっても100人あまりしかいないのだが)の減給や町人からの借金で何とか回していた様子や、藩の中で起こる領民のもめごとなどについても書かれている。当時の小藩の実態というのがいろいろわかる史料としての評価も高い。「奇跡」というのはちょっと持ち上げすぎで、「軌跡」くらいでいいのではないかと思うが、小藩が愚直に政治に取り組んできた様子はうかがえる。

この一冊の舞台が、今回の八十八所めぐりで訪ねる小松である。1万石の大名ということで立派な城があるわけでなく、藩主の屋敷跡があるそうだ。それを訪ねてみようというものだ。

先の本善寺の近くに藩が迎えた朱子学者の近藤篤山の旧宅があり、後は讃岐街道を歩く。今では閑静な住宅地が広がり、ところどころに個人商店があるという景色だ。その中に「常盤組碑」というのがある。横に碑文を書き記した石碑があり、それを読むと、藩の財政が厳しく町家への課税も厳しい中で、町家の負担を軽くしようと頼母子講の制度を設けて藩にも認めさせたとある。

街道から一つ山側の小道、その名も「旧藩」という町名の一角に、小松藩陣屋跡の石碑がある。石碑と、かつての見取り図の看板があるだけで、別に門や屋敷の建物があるわけでもない。周りも住宅地や小さな畑になっている。街道に面したところまでが敷地だったのかなと思われる。

再び街道に戻る。ちょうど、白衣姿のご夫婦が通り過ぎていく。ここからはしばらく街道沿いに歩く。西条まつりの山車の写真を並べた酒屋があり、今は無くなったこの宅配便のブランドの看板が残っていたり。

小松藩の城下町の東の端になるか、街道が左に曲がる。途中には弘法大師の御加持水とされ、番外霊場とされる祠がある。水を掬っていると、少し離れたところから太鼓と歓声が聞こえてくる。祭りでもあるのだろうか。

その方向に行くと、この辺りの町内か、だんじりが出て若い連中が一節唱えているところ。地元の人たちも周りで見守っている。西条まつりは秋に行われるそうだが、春、端午の節句ということで男らしくだんじりを引いている様子だ。

また、町並みのあるお宅では高々と鯉のぼりと縦の幟が掲げられている。この辺りではこの形で男の子の成長を祝うのが風習なのだろう。この先少なくとも伊予西条に行くまで何ヶ所かこの形の幟を見かけた。

小松藩の名残を見ながらだったためか、伊予小松の駅から1時間近くかかって吉祥寺に到着。ここからお参りである・・・。
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