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吉田喜重『メヒコ 歓ばしき隠喩』&松浦寿輝『エッフェル塔試論』

2014-02-11 10:38:00 | ノンジャンル
 北野武監督・脚本・編集の'10年作品『アウトレイジ』をスカパーの日本映画専門チャンネルで再見しました。暴力団の抗争の結果、三浦友和演じるヤクザがトップを取るまでを描いた作品で、北野さんも傍役ながら最後は刑務所で刺される役を演じていました。激しい暴力に満ち、多くの黒い車と不吉なフェイドアウトが見られました。
 また、山根貞男さんが朝日新聞で紹介していた、ヴィンセンテ・アモリン監督の'06年作品『オイ・ビシクレッタ』をDVDで見ました。家族が仕事を得るために自転車で旅する実話に基づいたロードムービーで、多くの歌が歌われ美しい空が映されていましたが、目的地のリオに到着し、妻が「もう旅はしたくない」と言うとカメラが上昇し、雲の上に行くと映画が終わるという唐突なラストシーンでした。

 さて、吉田喜重さんの84年作品『メヒコ 歓ばしき隠喩』を読みました。本文から引用させていただくと「(前略)こうした会話を耳にしながら、わたし自身はこの現実に起こりつつある旅とは異なる、いまひとつの旅のことを想像していた。それは現実の裏側に隠された〈内面の旅〉という意味のものではなかった。むしろ外に向ってあくまで開かれた制限のない旅。わたし自身が旅をするのではなく、開かれた世界がこのわたしを旅に誘いこむ。『われらが思い至るのではなく、思いがわれらに来る』と語ったハイデッガーの言葉のように、思う主体としての〈わたし〉と〈世界〉との関係が反転するのだ。それも歓喜に充ちて、というべきだろうか。
 いま試みようとしているラ・パスへ旅にしてもそうだ。あと何時間待てばバハ・カリフォルニアの南端ラ・パスの街に行きつけるというのだろうか。『誰が知ろう?(キエン・サーベ)」メキシコの人びとの諦めの感情を表すこの言葉が、いまのわたしには限りない自由への徴しとして軽やかにひびく。〈世界〉がわたしを呼ぶのであれば、待たされるのは当然であったろう。もっともこのばあいの〈世界〉とは前人未踏の処女地などではなく、かつてデカルトが書物としての学を捨て、『世界という大いなる書物』に向って旅を試みようとした、あの世界のことであり、スペインの劇作家カルデロンがいう『劇場としての世界 El gran teatro del mundo.」、そしてシェイクスピアがみずからの劇場、地球(グローヴ)座の入口に『世はあげて俳優を演ず』と掲げたように、まさしく人間がかかわりあう〈世界〉である。(後略)」
 また、松浦寿輝さんの'95年作品『エッフェル塔試論』も読みました。こちらは本文の冒頭部分から引用させていただくと、「いわゆる『世紀末デカダンス』なるものが歴史概念として成立しうるのかどうかはもはや必ずしも自明ではないけれども、今仮に、十九世紀後半の一時期の西欧で、あたかもこれ以上自然な出会いもないと思われるような滑らかで『終末』と『頽廃』とが溶融し合い、その『頽廃』的な『終末』意識が、1880年代から90年代にかけての『文学』作品や『美術』作品に、黄昏の色調と甘美な腐臭とを同時にまとわせていった、と――通念に従ってとりあえずそう考えておくことは、決して歴史の遠近法を歪めた状況認識とは言えないだろう。その場合、そうした『頽廃』的『終末』ないし『終末』的『頽廃』に対してもっとも親和的であった感受性の持ち主の一人として、他の誰よりもまず『さかしま』の著者の名を挙げることに、異論を唱える向きは少ないはずだ。フランス文学史の上では、一般に、『自然主義』から出発しながら『神秘主義』へと移行し、やがて『世紀末デカダンス』を代表する存在となるに至ったといった言葉遣いでその道程が要約されるジョリス=カルル・ユイスマンス。実際、小説であれエッセーであれ、彼の文章の多くのものは、黄ばんだ薄暮の光を照り映えさせながら、行き着くところまで行き着いてしまった者のみが浸りうる頽廃の甘い薫りを漂わせている。(後略)」
 どちらも私には難解な文章で、読み始めてすぐに上記の文章と出会うことで、先を読むことを断念しました。上記の文章の内容がすらすらと頭の中に入ってくる方にはお勧めかもしれません。

 →「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/