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斎藤美奈子さんのコラム・その86&前川喜平さんのコラム・その47

2021-06-16 10:15:00 | ノンジャンル
 恒例となった、東京新聞の水曜日に掲載されている斎藤美奈子さんのコラムと、同じく日曜日に掲載されている前川喜平さんのコラム。

 まず6月9日に掲載された「持続可能な答弁」と題された斎藤さんのコラムを全文転載させていただくと、
「━総理の一番の強みは何だとお考えですか。
 どんなに問い詰められても動じないことじゃないでしょうか。官房長官時代もそうしたやり方で乗り切れました。
 ━具体的には?
 「まったく問題ない」「そうした指摘は当たらない」「仮定の質問にはお答えできない」。こうした答え方です。
 ━同じ言葉を繰り返していればすむと?
 そう考えています。
 ━総理大臣就任後も方針は変わりませんか?
 今は紙を読むだけですので問題ありません。
 ━日本学術会議の任命拒否の際にはずいぶん批判されました。
 あの時は二種類の答弁で乗り切れました。
 ━「総合的、俯瞰(ふかん)的な観点から会員の任命を行った」と「人事に関することなので、お答えは差し控える」ですね。
 忘れましたが、そうだったと思います。
 ━緊急事態宣言下で五輪が開催できるのかと問われておりますが。
 感染対策をしっかり講じ、安心して参加できるようにするとともに国民の命と健康を守っていくと申し上げています。
 本日の党首討論でもその紙を読みますか?
 そのつもりです。そして感染対策をしっかり講じて安全安心の大会にするとともに国民の命と健康を守って…。
 ━以上、官邸から「いつでも誰でもできる答弁の方法」をお伝えしました。」

 また、6月16日に掲載されていた「空襲と敗戦の記」と題された斎藤さんのコラム。
「本当に女学生の日記なの? というほどの完成度。「文藝春秋」7月号に掲載された「田辺聖子『十八歳の日の記録』は他に類を見ない戦争と敗戦の記録だった。
 日記の日付は1945年4月1日から46年12月31日まで。
 6月1日の大阪大空襲の模様は2日の日記に記されている。その日彼女は在籍する樟蔭女子専門学校から歩いて帰った。立ち上がる炎と黒煙。ひっきりなしに通る消防車。ようやく帰りつくと「田辺さん。田辺さん」と呼びかけられた。「えらいことでしたなあ、お宅。焼けましたなあ」。冷静な筆致でつづられたこの日の日記はほとんどルポルタージュである。
 一転、8月15日の日記はまるで檄文(げきぶん)。〈何事ぞ!/悲憤慷慨(こうがい)その極みを知らず、痛恨の涙滂沱(ぼうだ)として流れ肺腑(はいふ)はえぐらるるばかりである〉
 先の戦争は総力戦だった。二つの記述から浮かび上がるのは、プライベートな自分と国家が求めるパブリックな自分に引き裂かれた姿である。
 しかし彼女は徐々に覚醒する。はじめて政府批判が登場するのは46年4月23日。〈神風特攻隊の人々になんの悪いところがあろう。あの人たちは国のために、大君の為に、死んで行ったのだと思う。皆、上の人々が悪かったのだ〉
 観察眼と洞察力を備えた人の日記。身辺雑誌をこえた、魂の成長の記録である。」

 そして6月13日に掲載された「党首空論」と題された前川さんのコラム。
「九日の党首討論。聞いていてイライラを通り越して絶望的になった。菅首相が質問に答えず、関係ないことばかりしゃべったからだ。
 立憲民主党の枝野代表が、五輪を契機に国内で感染が広がり、国民の命と健康が脅かされるのではないかと聞いたのに対し、菅首相は来日する五輪関係者の人数の縮小や海外メディアのGPSによる行動管理などについて話すだけで、国内の人流増加に伴う感染拡大の危険について全く答えなかった。それどころか、五十七年前の東京五輪の思い出を延々と話した。枝野氏の持ち時間を減らす時間つぶしだ。
 共産党の志位委員長は国民の命を危険にさらしてまで五輪を開催しなければならない理由を問うたが、菅氏は国民の命と安全を守るのは私の責務だと言うだけだった。
 新聞やテレビには「すれ違い」「かみ合わない」「空回り」などの言葉が並んだが、双方に責任があるような表現はおかしい。責任は百%質問に答えない菅首相にある。
 法政大学教授の上西充子氏は、聞かれたことに答えない菅氏の態度を、質問を食べてしまう「やぎさん答弁」と呼んでいる。自らの政策を説明することは、民主国家の首相が国民に果たすべき第一の責任だ。菅氏はその責任を全く果たさず、討論を「空論」にした。国民に対して失礼じゃないでしょうか。」

 どの文章も一読に値する文章だと思いました。