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山田詠美『ファースト クラッシュ』その1

2021-06-17 17:04:00 | ノンジャンル
 山田詠美さんの2019年の作品『ファースト クラッシュ』を読みました。

第一部
 初恋をファースト クラッシュと呼ぶのを知ったのは、もう何年も前のことだ。(中略)
 初恋は、しばしば「ファースト ラヴ」と訳されるけれども、そこでイメージされる淡い想いとか甘酸っぱい感じとは全然違うと私は感じている。少なくとも、私の場合は違っていたということだ。可愛らしく微笑ましいものなんかじゃなかった。それは、相手の内なる何かを叩き壊したいという欲望。まさに、クラッシュな行為。(中略)
 私は、もうじき五十に手が届こうとする年頃で、周囲からはすっかりおばさん扱いされているが、実は、脳みその中にはクラッシュされた欠片(かけら)がびっしりとちりばめられていて、それらは常にきらめいているのだ。(中略)
 折りにふれて過去に旅をして、それらを鑑賞するのだ。若い頃には絶対に味わえなかった楽しみ。私は、自分が遭遇して来たいくつものクラッシュについて、これから反芻(はんすう)するのを止(や)めないだろう。(中略)
 私は、自身の過去をながめる。これが至福か。中でも、一番最初の、まさにファースト クラッシュと呼ぶべきものについて思い起こす時、大事な宝物が過去に埋まっているのをつくづくと知る。(中略)
 人間のすべては、過去にある。(中略)
 マイ ファースト クラッシュと呼ぶべきは、明らかにあの出会いから始まった数年間のことだろう。私は、十歳で、二つ上の姉、四つ下の妹にはさまれて、既に世の中をなめていた。三姉妹は、皆いちように甘やかされて育ったが、外見も性格もまるで違っていた。
 愛くるしい容姿と清らかな心を持ったと評判の姉は、時に天使を連想させ、活発な妹は、あどけない表情とやんちゃな立ち振る舞いで見る人を元気付けた。私は、と言えば、常に仏頂面で愛想の欠片もなかったが、顔立ちだけは整っていたので、常に抱えていた本と込みで、知的美人のお嬢さんと呼ばれていた。(中略)
 ……と、いうように、私だけ、ひねこびた嫌な子供だった訳だが、それでも「高見澤家のお嬢さん」には変わりなく、裕福で恵まれた家に育つ者としての恩恵を十二分に受けていた。そして、そのことに何の疑いも抱かなかった。あの子がやって来るまでは。
 突然、父に連れられて我が家にやって来た少年の名は、新堂力(りき)といった。これから、私たち家族と生活を共にすることになるという父の言葉に、私たち姉妹は顔を見合わせた。
「親しかった人の息子さんなんだよ。お母さんが亡くなって、力くんには身寄りがなくなってしまったんだ」
 みなし子! と妹が叫んで、姉に口を塞(ふさ)がれた。(中略)
 母は、いつものように品良く控えめな笑みを浮かべていた。しかし、誰もが気付かないであろう唇のはしの歪みを私は見逃さなかった。(中略)
 新堂力は、私と同じ学年に編入するという。本当だったら六年生なのだが、事情があって一学年下になる、と父が言った。
「リキって変な名前。それに、この人、なんか汚―い」
「薫子(かおるこ)!」
 姉の麗子(れいこ)が、すかさずたしなめた。(中略)
「ねえねえ、このリキって子、お父さんはいないの?」
「お父さんも、ずい分前に亡くなったんだよ」
「へー、すごく可哀想なんじゃない? 解った! 薫子、妹になってあげる。きょうだい出来たら嬉しいよね? ねっ、ねっ」
(中略)ところが姉は、私の耳許で囁(ささや)いたのである。
「ねえ、咲也(さくや)ちゃん、リキくん、ハンサムよね?」
「え!? そう?」(中略)
「麗子ちゃんの言うことって、ほんと解んない。あの子、なんか薄汚れた感じがするよ」
「駄目よ、咲也ちゃん、あなたまで、そんな意地悪言ったら! お風呂に入ればすむことでしょ!?」
 そういう表面的な問題ではないんだがなあ、と私は思った。あの子、お風呂に入っても落ちない垢のようなものがこびり付いている気がするよ、と。(中略)
 力は、私たち三姉妹と血はつながっていなかったが、父の愛人の子ではあった。そのことを教えてくれたのは、力自身だった。子連れのかあちゃんをおじさんが好きになったんだ、と彼は言った。(中略)
「楽しいんやろ? おれにひどいこと言えば言うほど楽しくなるんやろう?」
「……ち、違うよ……」(中略)
 高見澤家に入り込んで来た異物がいい気にならないように監視しなくちゃ。私は、使命感にかられたように力に付きまとっては、嫌がらせをした。途中、自己嫌悪に陥りそうにもなったが、見張り番なのだから仕方ないと思うことにした。心づかいに満ちたこの家で、私が憎まれ役を買って出る。平和を乱そうとする奴は、私がこらしめてやる。(中略)
 私は、憐れむべき少年である力に心惹かれていたのだった。(中略)
 力は、母と姉の正体を知っているのだ、と思った。みーんな、おれを苛めるのが楽しくてたまらないんだ。彼は、そう言ったではないか。

(明日へ続きます……)