また昨日の続きです。
「私たち姉妹は、ずい分長いことリキの憐れみ方を間違えて、あの人を傷付けた。でも、おかあさまは、始めから彼を憐れんだりしなかったよ」
そうだ。母は、力の母を憎んでいた。そして、息子の彼にその嫉妬をぶつけたのだ。(中略)
「そういう時ね、リキは、おかあさまに苛められているような振りをしながら、彼の方から憐れんでいた」(中略)
そうだ。母だって、力を憐れんだのだ。ただし、それは、娘たちがそうしたようにではない。夫に裏切られた惨めな自分と、母親に死なれ身寄りのない少年。その二人がイコールで結ばれて、憐れみ合った。彼らしか出来ないやり方で。(中略)
「咲也ちゃんは薄情だよね」
「は? 何、言ってんの?」
「私は、リッキのことがずーっと好きだよ。何度も何度も、リッキが東京に来るたびに、私が神戸に行くたびに、そう伝えてるんだけど、好きな人いるって言われてさ。もう何回振られたか解らないよ」(中略)
「薫子、最近もリキに会ったって言ってたよね。今は? 今現在はどうなの?」
「ずっと神戸の和田岬ってとこで働いているよ。なんとかシステムとかいう機械を作っている、でっかい会社の工場だけど……」
違うって! と咲也が遮った。
「三ッ木工業の話を聞いてるんじゃないの! 私が聞いてるのは女の話」
「すごーい、知ってんだ。その会社……で、女の人は……解んない。おととしは、スポーツジムの受け付けの人と一緒に暮らしてたらしいけど……」(中略)
「(中略)結婚生活で一番大事なのは、お互いに相手を疲れさせないために心を砕けるかってこと」
「心を砕くって、努力するって意味?」
「まあ、そうね」
麗子と咲也の結婚に関する見解は、ここでおおいに違って来る。
咲也は、こんなふうに言っていた。
「努力を必要とする間柄だったら、結婚なんてしない方がいいってば」
大学時代の同級生だった咲也の夫は、不動産会社に勤務するサラリーマンだ。子供二人が成人した今でも、気のおけない友達同士のように、口喧嘩と仲直りをくり返している。結婚前と同じように互いを名字で呼び合い、咲也はパート先でも旧姓で通しているらしい。(中略)
通学時に力にあれこれと命じる麗子は、頬を薔薇色に染めて誇り高き自分に酔っているようだったし、意地悪を仕掛けながらも彼に心を許して行く咲也も、いつのまにか親愛の情をあらわにすることに照れなくなった。(中略)
神戸に会いに行く時も同じだった。毎回、新幹線の中で、力に話すべきことを頭の中で整理しながら、そこに笑いの要素を混ぜて少しだけ脚色した。かと言って、私は決して無理をしていた訳じゃない。彼にもうじき会えると思うと、次々、おもしろい語彙やエピソードが浮かんで来るのだ。彼を楽しい気持にさせたい、と心から思う。だって、元みなし子だもの。(中略)
「ほんとに、今晩、私と泊まらない?」
「泊まらない」
気落ちした私を元気付けるように、力は続ける。
「泊まらないけど、観覧車、乗ろか? もうそろそろ酔いもさめて来よったやろ?」
その素敵な提案を受け入れ、私たちはゴンドラに乗って夜空に浮かんだ。(中略)
「薫子は苦労してるよ。だってさ、ひとりの男の歓心を買おうと、こんだけ長い間、しつこくがんばるなんて、普通出来ないよ」(中略)
「ねえ、いったい何が薫子をそこまでさせる訳? 私のファースト クラッシュは、確かに忘れられない記憶として残ってるけど、それは持続するような種類のもんじゃない。(中略)自分の胸に刺さった刃物が、実は氷砂糖で出来てた感じで、いつのまにか溶けてった……だから……」
「溶けないの!」(中略)
そして、とうとう機は熟し、秋の訪れを待って、ある週末、私は神戸に飛んだ。(中略)玉山さんからの密告で、力が女と別れたという情報はつかんでいる。(中略)
「リッキ、結婚しよう!?」(中略)
「さっきの返事は東京で聞く。次の連休、リッキ、お休みだよね?」
「……そら、そうやけど……」
「待ってる。でも、ノーのためなら来なくていい。イエスだった場合にだけ来て!」(中略)
「で! 今まさに、奴がこのバーに来るのを待っている訳ね」
「奴なんて言い方しないでよ。咲也ちゃんのこと、私の一世一代の賭けの立ち合い人に選んでやったんだから」(中略)
二の句が継げない、というように、咲也が大袈裟な溜息をついた瞬間、バーの扉が開く音がして、私たち姉妹は、同時に後ろを振り返った。
「へへへ。オオカミ犬、ついに参上っいうとこやな」
その、ばつの悪そうな笑い声を聞いて、咲也が私の背を突き飛ばすように押し、一言、行きなよ、と囁いた。(中略)
行きなよ、ともう一度、咲也が言った。
「あんたたち、犬仲間でしょ?」
あまりの面白さに、あっという間に読んでしまいました。山田詠美さんの代表作になる小説だと思います。
「私たち姉妹は、ずい分長いことリキの憐れみ方を間違えて、あの人を傷付けた。でも、おかあさまは、始めから彼を憐れんだりしなかったよ」
そうだ。母は、力の母を憎んでいた。そして、息子の彼にその嫉妬をぶつけたのだ。(中略)
「そういう時ね、リキは、おかあさまに苛められているような振りをしながら、彼の方から憐れんでいた」(中略)
そうだ。母だって、力を憐れんだのだ。ただし、それは、娘たちがそうしたようにではない。夫に裏切られた惨めな自分と、母親に死なれ身寄りのない少年。その二人がイコールで結ばれて、憐れみ合った。彼らしか出来ないやり方で。(中略)
「咲也ちゃんは薄情だよね」
「は? 何、言ってんの?」
「私は、リッキのことがずーっと好きだよ。何度も何度も、リッキが東京に来るたびに、私が神戸に行くたびに、そう伝えてるんだけど、好きな人いるって言われてさ。もう何回振られたか解らないよ」(中略)
「薫子、最近もリキに会ったって言ってたよね。今は? 今現在はどうなの?」
「ずっと神戸の和田岬ってとこで働いているよ。なんとかシステムとかいう機械を作っている、でっかい会社の工場だけど……」
違うって! と咲也が遮った。
「三ッ木工業の話を聞いてるんじゃないの! 私が聞いてるのは女の話」
「すごーい、知ってんだ。その会社……で、女の人は……解んない。おととしは、スポーツジムの受け付けの人と一緒に暮らしてたらしいけど……」(中略)
「(中略)結婚生活で一番大事なのは、お互いに相手を疲れさせないために心を砕けるかってこと」
「心を砕くって、努力するって意味?」
「まあ、そうね」
麗子と咲也の結婚に関する見解は、ここでおおいに違って来る。
咲也は、こんなふうに言っていた。
「努力を必要とする間柄だったら、結婚なんてしない方がいいってば」
大学時代の同級生だった咲也の夫は、不動産会社に勤務するサラリーマンだ。子供二人が成人した今でも、気のおけない友達同士のように、口喧嘩と仲直りをくり返している。結婚前と同じように互いを名字で呼び合い、咲也はパート先でも旧姓で通しているらしい。(中略)
通学時に力にあれこれと命じる麗子は、頬を薔薇色に染めて誇り高き自分に酔っているようだったし、意地悪を仕掛けながらも彼に心を許して行く咲也も、いつのまにか親愛の情をあらわにすることに照れなくなった。(中略)
神戸に会いに行く時も同じだった。毎回、新幹線の中で、力に話すべきことを頭の中で整理しながら、そこに笑いの要素を混ぜて少しだけ脚色した。かと言って、私は決して無理をしていた訳じゃない。彼にもうじき会えると思うと、次々、おもしろい語彙やエピソードが浮かんで来るのだ。彼を楽しい気持にさせたい、と心から思う。だって、元みなし子だもの。(中略)
「ほんとに、今晩、私と泊まらない?」
「泊まらない」
気落ちした私を元気付けるように、力は続ける。
「泊まらないけど、観覧車、乗ろか? もうそろそろ酔いもさめて来よったやろ?」
その素敵な提案を受け入れ、私たちはゴンドラに乗って夜空に浮かんだ。(中略)
「薫子は苦労してるよ。だってさ、ひとりの男の歓心を買おうと、こんだけ長い間、しつこくがんばるなんて、普通出来ないよ」(中略)
「ねえ、いったい何が薫子をそこまでさせる訳? 私のファースト クラッシュは、確かに忘れられない記憶として残ってるけど、それは持続するような種類のもんじゃない。(中略)自分の胸に刺さった刃物が、実は氷砂糖で出来てた感じで、いつのまにか溶けてった……だから……」
「溶けないの!」(中略)
そして、とうとう機は熟し、秋の訪れを待って、ある週末、私は神戸に飛んだ。(中略)玉山さんからの密告で、力が女と別れたという情報はつかんでいる。(中略)
「リッキ、結婚しよう!?」(中略)
「さっきの返事は東京で聞く。次の連休、リッキ、お休みだよね?」
「……そら、そうやけど……」
「待ってる。でも、ノーのためなら来なくていい。イエスだった場合にだけ来て!」(中略)
「で! 今まさに、奴がこのバーに来るのを待っている訳ね」
「奴なんて言い方しないでよ。咲也ちゃんのこと、私の一世一代の賭けの立ち合い人に選んでやったんだから」(中略)
二の句が継げない、というように、咲也が大袈裟な溜息をついた瞬間、バーの扉が開く音がして、私たち姉妹は、同時に後ろを振り返った。
「へへへ。オオカミ犬、ついに参上っいうとこやな」
その、ばつの悪そうな笑い声を聞いて、咲也が私の背を突き飛ばすように押し、一言、行きなよ、と囁いた。(中略)
行きなよ、ともう一度、咲也が言った。
「あんたたち、犬仲間でしょ?」
あまりの面白さに、あっという間に読んでしまいました。山田詠美さんの代表作になる小説だと思います。