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山田詠美『ファースト クラッシュ』その2

2021-06-18 10:16:00 | ノンジャンル
 昨日からの続きです。

 私は、幼い頃から「パトロール」と称して、家の中を徘徊していた。(中略)
 力が母や姉の優しさに乗じていい気にならないよう目を光らせていた私だったが、彼が模範的居候とでも呼ぶべき控え目な態度を取り続けているのを知り、拍子抜けした気分だった。(中略)
 タカさんというのは、私の生まれる前から高見澤家で働いている通いの家政婦さんだ。(中略)
 そのタカさんの方でも、この家の中で私を一番気に入っていたようだ。話し相手にもって来いというのがその理由。母と姉は品が良過ぎるし、妹は幼な過ぎる。何よりも、ここで下世話な話題に興味を持つのは私だけだったのだ。(中略)
(タカさんが言うには)
「女だけの平和な空気が流れていたのに、あの子が入って来てから、なんかあちこちで波風が立ち始めたような気が」(中略)
「でも、あの子に同情するたびに胸がキュンとしてしまうんですよ。そのたびに何か良からぬ予感が……」
 タカさんがすごいのは、こういうとこ。この何年か後に、「胸キュン」という歌詞の入った曲がはやるのだが、彼女は、ずい分前に先取りしていたことになる。(中略)
「リキさんは、学校でちゃんとやれてるんですか?」
「それは、大丈夫」
 タカさんに尋ねられて、そう答えたけれども、実は大丈夫どころか上々と言っても良いくらいだった。そもそも転校生は皆の関心を集めるものと決まっているけれども、(中略)誰もが近寄って来て、彼の気を引こうとやっきになったのだ。(中略)
「ねえ、リキのお母さんって、神戸で何やってた人なの?」
「知らない」
「えー? 知らない訳ないんじゃなーい?」
 いちいち突っ掛かる私に、力は、もう敵意を持つのも疲れたように投げやりに言った。
「おれ、ほんまに知らん。大人の仕事のことは本当に解らない」
「何さ。そんな訳ないじゃん」(中略)
 ある日、力は、思いも寄らない行動に出た。(母が自慢の温室の)蛇口にホースを接続して、その一番はしを自分の頭上に掲げ、流れ出る水を浴び始めたのだ。(中略)
 呆然としたまま、私は、ただ力に心奪われていた。やがて、猛烈な喉の渇きを覚えて我に返った。(中略)力のこしらえたあの簡素なシャワーの中に飛び込んでしまおうか。そして、彼のように口を開けて、同じ水を飲む。
 想像しただけで胸がどきどきした。(中略)
 さあ、冒険! と自らを鼓舞した私が、足を踏み出そうとした時、力は、またもや予想外の動きを見せた。
 彼は、ふと思い付いたかのように、自分の指でノズルにしたホースの先を温室の方に向けたのだった。(中略)
 私は、その光景に見入っていた。(中略)
 突然、ガラスに当たる水音がゆるくなり、私は我に返った。と、同時に、温室のドアが開き、母が出て来た。(中略)
「こちらに、お入りなさい」(中略)
 ぐずぐずしている力を、母は、早く! と言って追い立てた。二人はするりと飲み込まれるようにして温室に入った。
 その一部始終を見ていた私は、忍び足で彼らの後を追い、開け放たれたままのドアの陰から中を盗み見て聞き耳を立てた。(中略)
「さっき、ずい分とのびのびしていたようね」
「え?」
「水浴びしてたでしょ?」
「すいません」
「あら、謝ることないのよ。(中略)でもね、リキさん、あなたがこの家で幸せいっぱいになってるって、何か変ね。(中略)神戸の家でもおんなじようなことやってたんでしょ? あなたのお母さんも一緒になって、はしゃいでたんじゃない?」(中略)
「おじさんも踊った。(中略)ぼくもかあちゃんも一緒になって踊った。(中略)」
 母は、憤然と立ち上がると、温室の外に走り出て、水が流れるまま地面に放って置かれたホースの先をつかむと、中にいる力にそれを向けた。
 水は力を直撃し、彼は椅子から飛び上がった。
「おばさん、何しよう!?」
「楽しかったんでしょ? 水浴びして楽しかったんでしょ?」(中略)
 力は、降り注ぐ水を避けようとして、狭い温室内を移動し、母は、そんな彼を執拗に追った。
「おじさんが来(こ)うへん日が多くなって、その内、ほんまに来うへんくなりました。(中略)」
 いいわ、と母は、ぽつりと口にした。
「もう、いいわ。このホース、片付けといてちょうだい。家の中に入る前に足をちゃんと洗うのよ」(中略)
 しかし、その瞬間、彼はしゃくり上げたのだった。(中略)
「……リキ」
 見なかったように振る舞うつもりでいたのに、その名前が口からこぼれた。(中略)
 いけない、と手で自分の口許を押さえた時には遅かった。力は、顔を上げてこちらを振り返った。(中略)
「たまたま通り掛かったんだけどさ、リキ、あんた、おかあさまにサンルームで叱られてたんじゃない?」(中略)
「通り掛かったのなんて嘘や。おまえ、おれのこと、いっつも見とう」
「お、おまえ!?」
 生まれて初めて、そんな乱暴な呼び方をされた。

(また明日へ続きます……)