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山田詠美『ファースト クラッシュ』その4

2021-06-20 16:27:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

「ねえ、咲也ちゃん、このおうちで、おとうさま、仲間外れだよね」((中略)
「だってさ、おとうさまだって男の人なのにさ、このおうちにいる女の人たちは全員、リッキに夢中なんだよ?」
「あんたもそうだってこと?」
「もちろん!(中略)タカさんだって、リッキを特別扱いしてるよ。口の中で、桜んぼの枝を結ぶやり方を教えてるのを見た」
「はあ!?」
「なーんか、やだよね。タカさん、もうおばあさんなのにさ。口の中で枝を結べると、キスが上手になるんだってさ。(中略)」
 私は、そんじょそこらの女子供とは違うのだ、とほとんど確信に近い思いを抱いていた。(中略)
「三年の坂下ルミ子さんているじゃない? 新堂くんと付き合い始めたって噂だよ。ほら、坂下先輩っていったら、男子の憧れの的でしょ?(中略)」
 不憫だった筈の私は、あっと言う間に蹴散らされてしまった。すると、入れ替わるように私の内に新鮮な怒りが注ぎ込まれたようだった。(中略)
「坂下先輩に好かれてそんなに嬉しいかって聞いてるんじゃないの!」
 ああ、と言って、力は、私に近寄った。
「な、何よ」
「それ、やきもちなん?」(中略)
 夢中で否定していた私だが、我ながら不本意な言葉を羅列しているのに気付いて力に目をやると、彼は、私の顔ではなく、もっとずっと下の方を見ている。(中略)
 制服のスカートの裾から覗く足を伝って血が流れていたのである。(中略)
 この瞬間は、自分の人生の中で最大の汚点となるであろうと思った。(中略)
「あほやなあ」
 力は言って、水槽にその先を突っ込んだままのホースを拾い上げ、水道の蛇口を捻った。
「靴と靴下、脱いどき」
 私は、力の言葉に従った。(中略)彼は、(中略)足を伝う血を洗い流した。(中略)
「リキ」と、私は呼んでみた。(中略)
「ごめんね、今までのこと」
「うん、ええよ」
「私、リキが好き」
 力は、顔を上げて私を見た。
「知っとうよ。でも、ごめん。おれ、好きな人、おる」
「うん、解った」
 私は、またひとしきり泣いた。(中略)
「おまえて呼ばれんの、嫌やったんやろ?」
「……まあね」
「でも、それ、親愛の情だし。自然と出て来(き)よう」
「そっか、なら、いいや」((中略)
「かあちゃんが、ある時、寂しそうに笑って、この人とうちはもうあかんなって思てしもうてね、と言ったんだよね。そしたら本当におじさん、来るの止(や)めちゃった」(中略)
 国語の赤羽先生が言った。(中略)
「じゃ、片岡、その詩を読んでみて。ぼくが藤村で一番好きなやつなんだよねえ。『初恋』」(中略)
 ところが、片岡くんの読み上げる詩を聞いている内に、私の心がおかしなことになって行ったのだ。(中略)

「やさしく白き手をのべて
 林檎をわれに与えしは
 薄紅の秋の実に
 人こい初めし はじめなり」

 台所で、齧りかけの紅玉を私に投げてよこした力の手が、閉じた瞼(まぶた)の裏側に映し出されて、ゆっくりと動いた。(中略)私は、今、泣いているんだよ。(中略)
 したり顔の文学少女でいるのを、その時、止(や)めた。これが、私の、ファースト クラッシュ。
 と、いうようなことを、バーのカウンターで、久し振りに会った妹の薫子に話していたのである。
 幼い頃は、憎まれ口を叩き合い、それが喧嘩に発展することもしばしばだった。けれど、大人になってからは、距離を置いた良き友人のように付き合えるようになった。((中略)
 私の話をじっと聞いていた薫子は、ファースト クラッシュかあ……と溜息をついた。そして、打ち明ける。私のそれも、実は、リッキが相手だったんだよ、と。

第二部
 麗子(れいこ)ちゃんは、三人の中で一番おかあさまに似てらっしゃるわね、と幼い頃から言われて来ました。(中略)
 それは、その通りなんだけど、本当のところ、私は、自分と母を同一視して欲しくないの。だって私は、母のように男(父ですけどね)に振り回されてズタボロになるようなことは絶対にない。もっと気高い存在の筈。そうじゃないこと?(中略)
 妹たち二人は、頻繁に会っているようでした。いったい何を話すのやら。(中略)
 あの頃、私は、常に自分自身をヒロインに仕立て上げていて、それは誰にも邪魔されずに成功していました。(中略)
 新堂力が私たちの家にやって来た時、私は、それまでにない胸の高まりを覚えました。(中略)
 興奮しました。だって、またひとつ、私をヒロインにする要素が加わったのですから。しかも、この男の子は、薄汚れているけれども、たいそう魅力的な顔をしている。(中略)
 目の前の男の子には、色々な役割を与えられると確信しました。(中略)
 私は、おっとりとお嬢様じみたところが母譲りだと、少なからぬ人々に認識されていました。でも、それは正しくありません。
 母は、他人から良い印象を持たれるべく常に気をつかっている人。でも、私は、自分自身にまず気をつかう。

(また明日へ続きます……)