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山田詠美『ファースト クラッシュ』その3

2021-06-19 12:31:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 心を搔き乱す、という言い回しを当時は知らなかったが、私の心は明らかに搔き乱されていた。(中略)
 何度も何度も思い出した。私と母に見られているとも知らずに、陽ざしの中で水浴びをして浮かれていた力の姿を。(中略)
 私は、自分がそうさせた訳でもないのに、力の泣くのを目の当たりにして、とてつもない達成感を覚えたのであった。(中略)
 解った。閃(ひら)めいた。それは、不憫、だ。(中略)
 そこまで思うと、私は自分が力より偉いような気になった。不憫な男に心をつかまれて、ざまあみろと思いながら胸を「キュン」とされている。いや、キュンどころではないのだ。だって、心は今にも握りつぶされんばかりになっている。(中略)
(タカさんは言った。)
「もちろん、手で触りたくなるのは当然ですが、他のものだって手を使うでしょ? 他ならぬ唇で触れたいと最初に思った人が初恋の相手なんですよ」(中略)
 私は、不憫な力を労(いたわ)りたいのだ。(中略)
 大人になり、男と付き合う経験を幾度かして解ったのだが、私が力に対して思ったような気持ちを私に対して持つ男も、少なからず、いた。きっと、不憫が一種の媚薬として機能する人種というのがいるのだ。(中略)
 十代の私に、そんなことは解る筈もなかったけれど、似たものは感じていた。(中略)
 私は、人より初潮を迎えるのがずい分と遅かった。(中略)
 とりわけ男女のことに関しては、早熟な知識を身に着けていた。古今東西の恋愛小説を、理解出来る言葉を選んで、とは言え幅広く読んでいたし、テレビの洋画劇場なども、うたた寝するふりをして、ラブシーンだけはしっかりと目に焼き付けた。(中略)
 しかし、新堂力がやって来て、私の頭の中で渦巻いていたファンタジーを現実が侵食して行ったのだった。(中略)
 温室の中で、母は力に対して優しく語りかけ、紅茶を淹(い)れて勧めることがあった。(中略)
「それで、リキさん、誠おじさんが神戸に行った時は、どうやって過ごしていたのかしら」(中略)
「おじさんは、神戸に出張に来た時には、かあちゃんが働いている新開地の店に行って、帰りは一緒に帰って来て、そのまま何日か、うちに泊まって行きました」(中略)
「だから、おじさんとお母さんは一緒に寝てたのね?」
「そうです」(中略)
「かあちゃんとおじさんは、ぼくが寝てしまうまで、お布団の中でずうっと話をしていました」
「何を話していたの?」
「解りません」(中略)
「大丈夫よ、大丈夫、もっと聞かせてちょうだい。三人で行った場所、全部、教えてちょうだい」(中略)
 子供心にも、母のしていることが歪んだ形の折檻(せっかん)であると解った。駄目だ、こんなの。(中略)
 私は、母を止めようとした。これ以上続けたら、彼女の品格のようなものが消え去ってしまうと恐れた。(中略)
「かあちゃん、愛しとうよって、おじさんに言うた。それ聞いて、おじさんは、かあちゃんをギューってして、おれもおれもって言うて、だから、ぼくも、おれもやおれもや言うて飛び付いて、三人で団子みたいになりよった。ほんで……」
「もういいわ」
「でも、おばさん……」
「もういいって言ってるでしょ!」(中略)
「おばさん、可哀想やな」
 そして、続けた。
「おじさん、うちのかあちゃんのこと、好きで好きでたまらんかったらしいで」
 ひーい、ひーい、と今度は、母が泣き始めた。(中略)
 上履きを洗う必要のなくなった中学に入っても、力は温室に出入りしていた。(中略)
 私は、まるで習慣のように、温室に通う力の後を付けていた。(中略)
「咲也ちゃんとリッキって、なーんか変」
 妹には、たびたび言われた。(中略)
「うん。咲也ちゃんが、これでもかこれでもかってくらい、ひどいこと言って、リッキは、悲しくて死にそうな顔をするのに、すぐに立ち直るの。そして、二人で何もなかったみたいに話し出す」(中略)
 いちいち傷付いているようだった力も、次第にどこ吹く風という感じになり、時には笑いをこらえてもいた。(中略)
「リッキ、おいで!」
 まるで、大きな犬を呼ぶかのように、薫子は、力に声をかけた。(中略)薫子のペットみたい。ううん、本当にペットなんだ。ペットの分際で、あんなに楽し気にくつろぐなんて。
 そう自分に言い聞かせた時の気持、あれは、明らかにやきもちだった。(中略)
「私、見ちゃったんだよ。家を出たらすぐ、麗子おねえちゃまが、何も言わないで、鞄をリッキに差し出して、そして、リッキは、両手でそれを受け取ってんの」(中略)
「私は、このおうちもみんながリッキのせいで変なになっちゃうのが見たいんだよ」
「なんでよ」
「だって、リッキにはパワーがあると思うんだ! 嵐を呼ぶ男っていうのを、私も見てみたいんだよ」

(また明日へ続きます……)