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山田詠美『ファースト クラッシュ』その5

2021-06-21 11:32:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 あ、でも、下々の者たちを馬鹿にしている訳ではありません。(中略)下々の者たちには下々の者たちの世界がちゃーんと存在しているのは百も承知なんです。(中略)
 そんな私は、誰に媚を売る必要も感じていませんが、父にだけは悪い印象を与えたくなくて、わざと必要以上に甘えたりします。(中略)
 大人である今なら、父は女性の扱いに長(た)けた人で、三姉妹それぞれが好むようなやり方で接していたのだと解るのですが、当時は、自分だけが特別扱いされているように感じていたのです。(中略)
 父のような人間を「人たらし」と呼ぶのかもしれない、と仕入れたばかりの言葉を当てはめて、したり顔で頷いた私は、中学一年生だったでしょうか。(中略)
「麗ちゃん、ほら、神戸のお土産。この間、ヴァイオリンの発表会、出張で行けなくなっちゃったからね。そのお詫び」
「おとうさまったら! 麗子が欲しいって言ってたのは、このバービーじゃないのに」(中略)
 私のバービー人形は、新堂力の母親との逢瀬を誤魔化すアリバイみたいなものだったのです。
 後に、そこに思い当たって、私の自尊心は、いたく傷付けられました。(中略)
 おかあさまをだますなんて、ひどい! でも、私を誤魔化した罪の方が重大だわ。(中略)
 私が、父と力の母親との関係を知ったのは、ふとした偶然からでした。夜中に通り掛かった両親の寝室の扉が少し開いていて、そこから洩れ聞こえる彼らのいさかいに驚いて足を止めてしまったのです。(中略)
「いつのまにか、ここんちの人、みーんな、おれとかあちゃんの事情、知っとうね」(中略)
「あなたが隠そうとしないからじゃないの」
「うん」(中略)
 咲也は、力との会話の流れで事の次第を理解したということでした。(中略)
(薫子は言いました。)「麗子おねえちゃまは、優しい人のお面をかぶってる!」
 お面!? それを言うなら仮面でしょ、とつかまえて正したい気持になりましたが、こらえました。(中略)
「麗子さんは、おれがどないしたら満足してくれはるんですか。地面に手を突いて、ごめんなさいごめんなさい、かあちゃんは、もう死んでしまいましたからと言うとったらええんですか」(中略)
「おれ、麗子さんのために働きます。報酬はなしでいいです」(中略)
 報酬はなしで働くと宣言した力でしたが、彼は私のために何をして良いのか解らないようで、私は私で何をさせるべきか見当も付かないまま、日々はただ過ぎて行きました。(中略)
 力は、父が留守中の場合のたったひとりの男手として重宝されているようでした。(中略)
 いつのまにか、力は、高見澤家の一員になったかのように見えました。(中略)
 父? あの人は、どうでも良いのです。あの瞬間、高見澤家の男は力だけであり、父は、仲間外れにされていたのですから。(中略)
 ……と、ここまで考えて、急に恥ずかしくなってしまいました。どうして、父の愛人の子となんか親しくならなきゃいけない訳?(中略)
 ところが、別の自分が耳許で、こう囁くのです。妹たちに出し抜かれても良いの? と。力の所有権は、ヒロインのあなたにあるんじゃないの? 麗子。(中略)
 ある朝、玄関先で力と鉢合わせした私は、靴を履いている彼に言ったのでした。
「そこにある私の鞄もお願いね」(中略)
 そうして、力は、私のお付きになりました。(中略)
 とにかく、私のことは、麗子さんと呼ぶように、と約束させました。力は、素直に従っていましたが、私の機嫌が良くなくて返事もしないような時には、こう呼ぶのです。
「麗子お嬢さま」(中略)
「麗子さんは、お嬢さまと呼ぶのに相応しい方です。そして、そんな麗子お嬢さまのお相手である拓郎さんのことは、拓郎坊っちゃまと呼んでも良いです」(中略)
 その日を境に、どうも私を取り巻く状況が妙な方向に進んで行ったのです。(中略)だって、拓郎と力があんなにも仲良くなってしまうだなんて予想だにしていなかった。(中略)
 しかし、一番信じられないのは、母が何かにつけて力を頼りにしていることでした。(中略)
「男が女に夢中になるのをなんと言うか、知っとう?」
 私が答えに詰まっていると、力はぽつりと言いました。
「首ったけや。おじさんは、おれのかあちゃんを大事にせんかったけど、首ったけやったんや」(中略)
「なーにがお嬢さまや。ヒロイン気取りよって、ばーり笑えるで」(中略)
 許さない。そう呟いた途端に泣けてきました。こんなにも自分を惨めにさせたのは、力が初めてでした。(中略)
 咲也に呆れられるまでもなく、成長するにつれて、私の周囲には本気で私をお姫さま扱いしてくれる人の数が減っているのに気付き始めていました。(中略)
「もう、行きしに荷物持ってやるんは止(や)めます」(中略)
「付いて来んでもらえます?」(中略)
「ピンチだわ」

(また明日へ続きます……)