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奥田英朗『向田理髪店』その10

2017-10-21 05:39:00 | ノンジャンル
 今日は映画監督で映画批評家、そして映画作家へのインタビューでも活躍したフランソワ・トリュフォー氏の34回忌にあたる日です。彼が亡くなってからもう18年の年月が経つのですね。しかし彼の映画は少しも古びてないどころか、年々力を増しているようにも思えます。私は彼の映画では『アメリカの夜』が一番好きですが、みなさんはどの映画がお好きでしょうか? お知らせいただけると幸いです。

 さて、また昨日の続きです。
 次の土曜日、こんどはエキストラのオーディションがあった。町民ホールの会議室で行われ、映画会社からはチーフ助監督が審査にあたった。康彦が金物屋の亭主役でエントリーしたら、瀬川も谷口も申し込んでいて、会場で鉢合わせした。三人とも譲らず、順にオーディションを受けることになった。すぐに決まると言うので、ロビーで談笑しながら待っていたら、掲示板にオーディション結果が張られ、金物屋の店主役は農協の職員が選ばれた。「なんだよ、出来レースとちがうのか」瀬川が口をとがらせている。ほかの役を見ると、死体を見つけて腰を抜かす老婆役は、母の富子が選ばれていた。どうやらエントリーしたのが母だけだったらしい。それ以外には、農家の中国人妻の香蘭や、スナックさなえのママなどが台詞付きのエキストラに選ばれていた。こうなると楽しみが増えた。知人がスクリーンに映るのだ。和昭も帰省してきたが、「オーディションはだめだった。でも、頼み込んで裏方で使ってもらうことになった」と目尻を下げて言った。「学校はどうすんだ」「現場実習の授業があるから、その代わりに充ててもらう。あらかじめ学校に話して許可ももらってる」康彦は息子の積極性に驚いた。ちゃんと成長しているようである。
一度スケジュールが決まると、ロケ隊の動きは迅速だった。そして十二月の第一週、ロケ本体がいよいよ苫沢にやって来た。康彦は子供の頃、サーカス団がやって来たことを想い出した。今回のロケ隊は、久しく忘れていた慰問の一座なのだ。
ロケが始まると、町中が四六時中そわそわしている感じだった。大原涼子は、撮影以外はほとんどホテルから出ない様子だった。ただ、ロケのクルーは大半が若者たちなので、夜になると居酒屋やスナックに繰り出し、町が祭りのように賑わった。母のエキストラ出演には、康彦が同行した。一張羅を着て行くと駄々をこねる母を説き伏せ、地味な防寒服を着せて、車に乗せて撮影現場に向かった。和昌は朝から晩までアシスタントとしてついて回り、刺激を受けていた。「おれ、いっぺん東京へ行きたくなった」と、穏やかならぬことも言う。妻は焦っていたが、康彦はそれならそれでいいと思った。苫沢で理髪店を継ぐことの方が、将来性はないのだ。
 そんなこんなで、ロケの二週間はあっという間に過ぎた。カーチェイスも、車が崖から転落するシーンも、町民の知らないところで行われ、誰も見た者はいなかった。最後にまた俳優陣の挨拶があるのかなと思っていたら、そういうことはなく、出番が終わった俳優から順に東京に帰っていったと、あとになって聞かされた。康彦の店に来る客は、口々に映画のロケの話をした。映画の完成は春と聞かされた。それまでは、まだまだ楽しめそうである。
 映画「赤い雪」が完成したというニュースは、三月になって町役場のホームページで公表された。公開に先立ち、町民ホールで特別試写会が開かれることになった。ただ、始めから一悶着あった。中学生以下が観られない「R15指定」だったのである。きっと刺激的なシーンがいくつかあるのだろう。藤原は、「R15指定」になることを事前に聞かされていなかったと言い訳したらしい。
 試写会は土曜日の夕方から行われた。いよいよ上映である。そもそも映画が上映されるのはいつ以来のことか。冒頭のシーンで《ようこそ苫沢町へ》の看板が映っただけで、会場からどよめきが沸き起こる。続いて、かまくらで子供たちが遊んでいるシーンに変わった。今度はスクリーンに町民が登場して歓声が上がった。「おー、川田さん家の浩太君だ」「はは、裏のユキちゃん、可愛く映ってるべ」そんな声があちこちから漏れる。こうなると「R15指定」が恨めしかった。本人たちが観たらどれだけよろこぶか。ただし、会場の雰囲気が温かかったのは最初の三十分だけだった。殺人が起きてからは急に空気が重くなり、陰惨なシーンがいくつも続いた。田舎の人間模様とムラ社会が、諧謔味たっぷりに描かれていて、容赦ない。大原涼子は若い殺人犯をかくまう設定だったが、初めて見せる汚れ役だった。康彦は途中から居心地が悪くなった。町民の中には、田舎を馬鹿にされたと不愉快に思う人がいるかもしれない。(また明日へ続きます……)

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奥田英朗『向田理髪店』その9

2017-10-20 08:32:00 | ノンジャンル
 WOWOWシネマで、ジョン・M・チュー監督の’16年作品『グランド・イリュージョン 見破られたトリック』を見ました。世界中のコンピュータから個人データを盗み出せるチップを巡って、悪役のマイケル・ケインを相手に、若いマジシャン集団、ホースメンが活躍するというストーリーで、重要な役でモーガン・フリーマンも出演していました。

 さて、また昨日の続きです。
 喧嘩の原因がわかったので、康彦は副署長に会いに行った。早苗の名前は出さずに、谷口が友人を侮辱されて、それで怒り出したということにした。「じゃあ謝罪の件、くれぐれもよろしく頼んます。うちは厳重注意ということで済ませておくから」。副署長もほっとした様子だった。康彦は時間に任せることにした。これまでも町民同士のいがみ合いは幾度となくあった。その都度、時間が解決してくれた。副署長には隠したが、瀬川には本当のことを教えた。そして早苗には男がいるみたいだとも。「ふうん、そうだろうな。あれだけの女っぷりで、男がいねえわけはねえか。でもやっちゃん、このことシュウちゃんや桜井君にはもうしばらく黙っておいた方がいいべな」「はは。それも悪くないけどな」。瀬川が寂しそうな笑い声を発し、帰って行った。康彦は湯呑を片付け、母屋で休憩することにした。予約が大半で、飛びこみの客はほとんどない。だから今日はもう誰も来ないだろう。燃料節約のため、暖房も切った。店の中がいっそう静かになった。
「赤い雪」
 冬の苫沢町に映画のロケ隊がやって来ることになった。大手の映画会社ではなく、監督の名前も知らなかったが、主演女優が大原涼子だとわかり、町中が色めき立った。地域振興課長の藤原は誘致成功に鼻高々で、町民をつかまえては自慢話をしていた。「タイトルは?」「『赤い雪』っていうらしいけど。それより大原涼子だって。大原涼子が出るなら、まず話題になることは間違いねえっしょ。苫沢だって、町の名前がそのまま出るそうだから、ロケ地の苫沢も一躍全国区よ」「ああ、そだね」。結局、藤原は映画の内容について、はっきりしたことは言わなかった。藤原が帰ると、入れ替わりに瀬川がやって来た。「だいたい、映画のロケ地になるのはええけど、ストーリーが連続殺人事件だっていうから穏やかでねえべ。却ってイメージが悪くなるんでないかい」「そうなの?」「おまけに男女の濡れ場もあるそうだから、少なくとも家族で観られる映画じゃねえべ」「ふうん」。
息子の和昌は、家を出て、計画通り札幌の理容学校に春から通い始めた。最初は月に一度帰って来たが、最近はお盆以降は一度も帰っていない。向こうに遊び仲間が出来たのだろう。若いから当然のことだ。
 土曜日の夕方、町民ホールで映画ロケの説明会があった。町民の協力が必要なのと、エキストラの募集があるので、その告知のための集まりである。「地域振興課の藤原です。プロデューサーは東京での仕事があるので、この先はロケ開始まで、わたしが窓口業務を担当します。苫沢町にとっては初めての映画ロケです。それも冬季における……」「おい、課長さんよ。演説でも始める気か」。藤原は苦笑いをすると、「撮影は主に野田池の町営住宅近辺で行われます。期間中は周辺で交通規制がありますが、助監督が指示するので従ってください。ただし一日だけカーチェイスがあって、それは信号を止めることもあって、警察が規制します」「おうカーチェイスだってよ」。若い連中が色めき立った。「町民の手を必要とするものについては、雪のかまくらを十個ほど並べて、子供たちが遊ぶシーンがあります。そのかまくら作りには、青年団と中学生に協力していただきます。それから、ロケ地の雪かきは、消防団にお願いしようかと思っています」。藤原の説明は続いた。エキストラの出番はかなりあった。ちなみにエキストラのギャラは無料とのこと。台詞付きのエキストラは数人必要で、町民たちはみな乗り気の様子だった。何を思ったか、母の富子まで、死体を見つけて腰を抜かす老婆役のオーディションを受けると言い出した。札幌から赴任中の二十代の中学教師が、「キャストを見ると、結構期待出来ますけどね」と言うので、ほうと思った。「おじさん、和昌君が映画のオーディションを受けるって言ってたよ。次の週末には帰って来るって」。瀬川の息子、陽一郎が声をかけてきた。なるほどこれが映画ロケ誘致の効果なのかと、康彦は得心した。束の間だとしても町が盛り上がる。
 週が明けると、町の受け入れ準備が始まった。藤原は宿と弁当の振り分けで問題を抱えているようだった。恭子によると、タクシーのチャーターも割り当てで揉めているらしい。降って湧いた需要にみながあやかろうとしているのだ。(また明日へ続きます……)

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奥田英朗『向田理髪店』その8

2017-10-19 06:31:00 | ノンジャンル
 昨日の晩、テレビ東京で4時間弱に及ぶ「THEカラオケ★バトル“2017年間王者”年に一度の大一番SP」を母と見ました。結果はこの1年4ヶ月の間、優勝から遠ざか決っていたU━18四天王で、過去には何度も100点を出したことがある掘優衣さんが100点にわずかに届かない高得点をあげて涙の優勝! 2位はこれまたU━18四天王の鈴木杏奈さんが99.5を上回る点数をあげて準優勝となりました。二人ともの、のびのびと歌いあげていて、聴いていて気持ちのいい歌声でした。次回の「THEカラオケ★バトル」も楽しみです!!

 さて、また昨日の続きです。
ショーが終わると、早苗は康彦に話しかけてきた。「図々しいお願いなんですけど、向田さんの伝手で、理髪用の鋏、安く買えませんか?」「うん、買えるけど、どうして?」「実は母の髪のカットをわたしがやろうと思って。もう美容院にいくほどじゃないし、節約になるから。それにこの辺では売ってないし」「あ、そう。お安い御用だ」頼みごとをされ、いきなりしあわせな気分になる。来た甲斐があったというものだ。ホールから出て行く早苗と母親の後姿を見送った。すらりとしたスタイルの早苗は、やはり雰囲気そのものがちがっていた。康彦はふと早苗の孤独を想像した。彼女に友だちはいるのだろうか。
 帰宅後、気になって恭子に聞いてみた。「三橋さんのところの早苗ちゃん、町の婦人会には入ってねえべか」「うん、入ってない。水商売の人は嫌だって言ってる人もいる」「ちなみに反対しているのはどういう連中だ」「早苗さんと同年代の若い人たち」「なんだそれは。歳が近いなら、いちばん仲良しになれそうなもんだろう」「自分の亭主がぼうっとのぼせてるのが気に食わないんじゃないの」「オメたち、もうちっとやさしくなれねえのか。早苗ちゃんは何も悪いことしてねえべ」「うん。そうね、わかった」恭子は反省した様子だった。
 理髪用の鋏を入手したので、康彦は早苗の店まで届けることにした。店に入ってしばらくすると、四十くらいの男が顔だけのぞかせる。「じゃあ、おれ帰るから」と言い、すぐに扉を閉める。一瞬見ただけだが、色男だった。早苗は「ちょっとすいません」と康彦に言うと、カウンターから出て、男を追いかけていった。なるほど、これが「早苗さんを訪ねて来た男の人」か。普通に考えるなら男女の仲に見えた。早苗に男がいても、なんの不思議もない。康彦は、早苗に男がいるらしいことを瀬川たちには黙っていようと思った。どうせ叶わぬ恋心なのだ。夢ぐらい見させてあげないと、苫沢の冬はあまりにも退屈である。
 康彦が早苗の店に行ってから十日ほど経ったとき、事件が起こった。電気屋の谷口が喧嘩をしたと言うのである。相手は農協に勤務する四十半ばの職員だった。どうやら先に手を出したのが谷口で、相手が転倒して額に痣を作るほどの怪我を負わせてしまったらしい。「原因は何よ」「それを共に言わねえべさ」「大黒のママがちらっと聞いたんだって、言い合いの最中に早苗ちゃんの名前が出たことを」ともあれ、先に手を出した谷口を諭すしかないと思った。まずは会って話を聞くことだ。
 理髪店の休業日に谷口の自宅兼会社を訪ねると、谷口は目の縁に痣の残った顔で、伝票整理をしていた。「シュウちゃんも若いねえ。派手にやったんだって」谷口は頑なだった。康彦は一旦引き上げることにした。そしてその足で、被害者の村田ではなく、その場にいたという別の若い消防団員を訪ねることにした。「あの夜、ミーティングを終えてから最初はさなえに行ったんですよ。そしたら満員で入れないから、仕方なく大黒に変更して、飲み始めたんですが、そこで早苗ママの話になって、村田さんは、早苗ママは昔から男の気を引くのがうまかったって、そういうことを言い始めて……。早苗ママの初めての男は、おれの同級生だったとか、そんな話をするもんだから、副団長がだんだん不機嫌になって……。でもって、しまいには早苗ママは札幌にいたときは、すすきののソープ嬢だったなんてことを言いだすから、ぼくら若手は無責任に盛り上がって、だったらおれたちもお世話になるべ、とか、でも四十過ぎのオバサンには勃たねえんでねえか、とか、そったらこと言ってたら、副団長が見る見る顔を赤くして、『やい村田、いい加減なこと言ってるとただじゃおかねえ』って大声で怒鳴って、頭を一発はたいたら、『何をする』って立ち上がって、あとは取っ組み合いの喧嘩になって……」康彦は事情を知り、深々とため息をついた。そういうことなら谷口が怒りだすのも当然である。「オメら、喧嘩のことより、そういうことを言って早苗ママにお申し訳ねえとは思わねえべか」「すいません。反省してます」若い団員は小さくなっていた。(また明日へ続きます……)


奥田英朗『向田理髪店』その7

2017-10-18 07:01:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
「小さなスナック」
 町役場の裏手の旧映画館横の空き地に、新しくスナックがオープンした。苫沢町という過疎地で新規開店というのは極めて珍しいことであった。店を開いたのは三橋早苗という四十二歳の女で、康彦はその名を聞いたとき、ああ三橋さんのところの早苗ちゃんか、とすぐに素性がわかった。確か自分より一回りほど下で、高校を卒業すると町を出て札幌で就職した女の子だった。情報を持ってきたのはガソリンスタンドの瀬川だった。「なんでも札幌で結婚したが、すぐに離婚して、それ以降は一人で暮らしていたらしい。兄貴もいるけど、兄貴は仙台に出て行って、そこで家を構えてるし、奥さんは苫沢を離れたくないって言うから、それで娘の方が帰って来たって話だ」
 その夜の夕食後、「さなえ」という名の店に瀬川と二人で行くと、十人ほど座れるカウンターはすでに客で埋まっていた。「いらっしゃいませ」ママが愛想よく挨拶する。康彦の知る早苗とはほとんど別人に見えた。そして一見して水商売の女だとわかった。あらためて見ると、早苗はとくに美人というほどではなかった。顔の造作が昔風で目も細い。ただ、どこか妖艶で男好きする感じはあった。「ところで早苗ちゃん、札幌では何してたさ」瀬川が聞いた。「初めはOLやってたけど、結婚して一旦仕事を辞めて、それで離婚して、まだ若かったから思い切って東京に行って……」「うそ、東京に行ってたべか」瀬川が大袈裟に驚いた。「うん、十年くらい行ってましたよ。赤坂のクラブでホステスを始めて、そこで知り合った先輩ホステスが札幌出身で、『今度故郷に帰ってすすきのに店を置くの。あなたも来ない?』ってスカウトされたから、わたしもついて帰って来て、そこでチーママやってたんですよ」康彦は赤坂と聞いて、早苗がますます垢抜けて見えた。店にはその後も次々と客が訪れた。「早苗ちゃんはいいママさんだべえ」瀬川がすっかり鼻の下を伸ばしていた。
 帰宅して妻の恭子に「しかし親孝行の娘だ。母親の面倒を見るために、こんな過疎の町に帰って来るんだからな」と感心していうと、恭子は「事情があるんじゃないの。わけありってこと。でなきゃ帰ってこないでしょ。こんな過疎地に。親の面倒を見るくらいで」と答えた。
 早苗の店は連日賑わっている様子だった。どうやら役場の職員の行きつけの店になっている様子だ。瀬川もすっかり入れ込んでいるらしい。
 ある日谷口がやって来て瀬川の入れあげている様子を語った。なんでも店で一番高い酒をボトルキープしているらしい。どうやら苫沢では、何人もの男が早苗にのぼせているらしい。それも全員が同じ中学の出身で妻子持ちである。
 谷口が帰ると、入れ替わるように瀬川がやって来た。康彦が早苗の話題を振ると、瀬川はむきになって反論した。恐らく苫沢の男衆の何人かは、早苗ママが気になって仕方なく、浮足立っているのだろう。そして免疫がないから、対処法がわからない。中学生の恋と変わることがないのだ。これも過疎地ならではの人間模様である。康彦としては、黙って見ているしかない。休みの日、康彦は隣町のホームセンターに一人で出かけた。通路の向こうに早苗がいた。夜とは違って薄化粧だった。その横顔を眺めていたら、康彦まで胸がキュンとした。異性を意識するなんて、いったいいつ以来のことか。声をかけようか迷っていたら、陰から三橋の奥さんが現れた。一人ではなく、母親を連れて買い物に来たらしい。その親孝行振りも、なんだか健気に映った。
 日曜日の午後、町民ホールで民謡ショーがあった。町役場と旅館組合の主催で、プロの民謡歌手が何組かやって来てステージで唄う毎年恒例の行事だ。康彦の母・富子も毎年楽しみにしているので、康彦は午後を臨時休業にして連れて行くことにした。いつもは送迎だけだったが、今年は自分も当日券を買い、会場に入ることにした。心の隅に、早苗も母親を連れて来るのではないかという思いがあったからだ。瀬川と谷口も来ていた。二人とも落ち着かない様子で、周囲を見回している。誰しも考えることは同じようである。こうなると、彼らとは一緒にされたくないという気持ちが湧いてきた。自分は早苗を見られたらいいなと、その程度の気持ちで来ただけなのである。五分ほどして、早苗が母親と一緒に現われた。早苗はとくに着飾っておらず、普段着姿だった。ただそれでも町民の中では目立った。佇まいに華がある。ほどなくして早苗は康彦の視線に気づき、笑顔で会釈した。康彦も笑顔で返す。心が温かくなった。これだけで今日の目的は果たしたようなものである。(また明日へ続きます……)

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奥田英朗『向田理髪店』その6

2017-10-17 12:02:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。
 大輔が披露宴を行うという知らせは、和昌によってもたらされた。「青年団と農協の有志が共同で、中国からの花嫁さんを歓迎する会を開くことになったべさ」なんでも大輔は、自分が主役になる披露宴はやはりいやで、難色を示すことから、だったら奥さんの歓迎会ならどうかと提案したところ、最後には首を縦に振ったらしい。「いや、実はおれが交渉をしに行ったんだけど、なんか、よくしゃべる面白い奥さんだった。大輔さんが、いいからもう奥へ行けって言っても、仲間外れにするのよくないアルヨって。おまけにお酒が好きらしくて、わたし日本のビール大好き、こんなおいしいビール、生まれて初めて飲んだアルヨって。話を持ち帰って青年団長と農協の井本さんに報告したら、じゃあ奥さんを主役にって。それを大輔さんに伝えに行ったら、またコーランさんが出て来て、やる、やる、うれしいのことアルヨって-------。それで大輔さんも押された形で、仕方なしに了承して------。結局再来週の日曜日の昼、町民ホールの会議室を借りてやることになったべ」「ふうん、おまえ、お手柄だな」康彦は急に和昌が頼もしく思えた。知らぬ間に大人になっている。和昌は調子よく口笛を吹きながら、自分の部屋に消えて行く。そのうしろ姿を見送りながら、康彦はうれしくなった。我が息子は案外ちゃんとしている。これなら自分で嫁さんを探してこれそうだ。
 大輔が披露宴を開くことはたちまち町中に知れ渡った。会費制にして参加自由としたものだから、関係のない年寄り連中まで参加を表明した。さらに町の旅館業組合も噛んできて、町役場まで乗り出して来て、佐々木助役が主賓として挨拶することになった。「おい和昌。ええのか。こんなに大きくなって。大輔君は小さな会を望んでるんじゃねえべか」「そったらことおれに言っても知らねえべよ。まあ、いいんでないかい。集まりが悪いよりは遥かにいいっしょ」前日に散髪に来た大輔には、あえて事実は伏せておいた。大輔は落ち着きなく目を瞬かせていた。それはほとんどチックとも言える症状だった。
 披露宴の朝は快晴だった。やがて大輔が車ごと会場から姿を消したことが分かった。康彦は「奴は子供の頃から、親に叱られるとハウスに逃げ込んだべ」と言い、瀬川とハウスに向かった。
 大輔はやはりハウスにいた。瀬川が言った。「おれも都会に生まれればよかったと思うことはある。苫沢じゃプライバシーも遠慮もあったもんでねえ。いっぺん恰好悪いことをしてしまうと、一生話のネタにされる。だから宿命だと思ってあきらめるしかねえ。大輔君、農業をやめるか? やめねえべ。苫沢から出てくか? 出て行かねえべ。だったら開き直るしかないっしょ。染まれ。染まって自分なんかなくしちまえ。楽に生きられるぞ」「すいません。戻ります」大輔が静かに言った。「ちょっと気持ちを鎮めたかったから」「そうか、そうか。じゃあ戻るべ」瀬川が相好をくずし、大輔の肩を叩く。康彦は安堵し、携帯で和昌に電話した。「大輔君を見つけた。これから戻る。参列者はどうしてる?」「いや、もう勝手に飲み始めてる。カラオケまで始めて、おばさん連中が歌ってる」「新婦はどうしてる?」「コーランさんも一緒に歌ってる」「はあ?」「いや、だからそういう人なんだって。もうみんなと仲よくなってる」康彦は体の力が抜けた。中国からやって来た大輔の嫁は、相当さばけた女のようである。
 ホールに戻ってみると、本当にみんなでカラオケ大会をやっていた。入って来た大輔を見つけるなり、男衆から叱責の声が飛んだ。もちろん本気ではない。「さっさと挨拶済ませろ」「あの、その、きき、今日は……このたび、わわ、わたくし野村大輔は、しし、新婦香蘭と結婚することになりまして……」「いよっ、ご両人!」青年団から声が飛んだ。どっと笑い声と拍手が起きる。「それで、あの、その、今後ともよろしくお願いします」大輔が頭を下げた、「なんだ、それだけか」どこかの年寄りが不満そうに言う。「ええでねえか。それとも長え話が聞きてえのか?」瀬川が言い返し、会場が爆笑に包まれた。「あの、しょったらもう少しだけ……」大輔があらためてマイクを持ち上げた。「ぼくは四十になるまで嫁さんが見つからず、みなさんにご心配をかけてきましたが、今日、こうやって妻を娶ることが出来ました。もう知ってると思いますが、妻は中国から来ました。右も左もわからない異国に嫁ぐ決断をした勇気を、ぼくはまず尊敬します。だからぼくも妻の決断に応えるべく、あの、その……」大輔が言葉に詰まる。「しあわせにしますだろ!」と瀬川。「はい、しあわせにします」会場にお拍手が鳴り響き、康彦は鼻の奥がつんときた。(また明日へ続きます……)

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