gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

奥田英朗『コロナと潜水服』その10

2022-04-06 00:01:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

(中略)
「表の赤いパンダで東京からいらしたんですか?」主人が聞いた。
「そう。よく車種がわかりますね。昔の車なのに」
「ちょっと思い出があったから」
「どんな思い出ですか?」
「ぼくが小学生の頃、常連のお客さんで、赤いパンダに乗ってくるお兄さんがいたんですよ。よく一緒に遊んでもらってたので、そのことを思い出して」(中略)
「そのお兄さんって、もしかして富田君?」
「えっ、知ってるんですか?」(中略)
「ちょっと縁があって……。あのパンダ、富田君が乗っていたパンダなんですよ。彼の死後、両親が保管してたんだけど、その両親も亡くなられて、それでわたしが買うことに……」(中略)
「何か富田君の思い出はありますか?」直樹は聞いた。
「絵がうまかったですね。車の絵を描いてって、何度もねだったことがあります。(中略)」
「卒業後は彼女と一緒でしたか?」
「そうです。そうです。名前は何だっけ……」
「シホちゃん」
「そうそう。シホちゃん!」(中略)」
「いやあ、懐かしいなあ。もう三十年以上も前のことですよ……。そうだ。写真があるはずだから持って来ましょう。(中略)」
「これがぼくで、隣は妹。(中略)」で、これが富田君で、これがシホちゃん」
 直樹は写真に見入った。そうか、君が富田君か。やっと会えたな。
 富田君は思った通りのやさしそうな風貌だった。(中略)なかなかのハンサム青年だ。」
シホちゃんは、白いブラウスと黒のスカートのハウスマヌカン風。太い眉のメイクが時代を想わせた。こちらもなかなか可愛い。(中略)」

 翌朝、(中略)発進すると、すぐに《音声案内を開始します》とナビが言った。(中略)」
 新潟市内に戻り、どこだが知らない住宅地を走ったところで、目的地に到着した。(中略)
 どうやら富田君が生まれ育った家のあった場所らしい。(中略)やはり取り壊されたのだ。(中略)
 富田君の生家の場所だと確信はあるが、念を押しておきたくて、直樹は隣家に訊ねることにした。
「すいません。ちょっとお聞きしますが、隣にあった家はいつ取り壊されたんですか?」
 直樹が聞いた。
「今年の春らわ。奥さんが死んだの、冬だったから」(中略)
「すいません。富田君の墓参りに行きたいんですが、どこでしたっけ」(中略)
「南乗寺だば、その先の国道に出たら、北に真っすぐ行けばいいっけ」(中略)
 直樹が辞去の挨拶をする。(中略)
 ただ、カーナビはさっきから黙ったままだった。モニターに地図を映し出しているが、音声案内は一切ない。路側帯があったので一度車を停めた。
「あのさあ、シホちゃんの花屋さんに行きたいんだけど。(中略)」
 直樹は声にしてナビに話しかけた。反応はない。
「行きたくない? まあ、わかるけどね、その気持ちは。シホちゃんも、もういい歳のおばさんだし、だいいちそこにいるかも、店が残ってるかもわからないし。でも行ってみない? これで新潟を去るわけだし、心残りになるよ」
 しばしの沈黙。ナビは黙ったままである。
「仮にシホちゃんが店にいたとしても、おれは何も言わないよ。ただ花を買うだけ。それは約束する。(中略)」
 ナビに音声を発する気配はない。もうここまでらしい。(中略)」無理強いする気はないし、そんな権利もない。(中略)」さてと、じゃあ帰りますか━━。そのときナビが言った。
《音声案内を開始します》
 おお、ありがとう。直樹は胸が熱くなった。(中略)
 到着したのは駐車スペースのある中規模の花屋だった。店舗は新しく、近年建て替えられたものと思われた。つまり繁盛しているということだ。(中略)
 駐車スペースに車を停め、運転席から降りた。直樹は、その場に立ち尽くす女の左手の薬指を見た。(中略)そこには銀色の指輪があった、シホちゃんは結婚しているようだ。なぜかほっとした。(中略)
「いらっしゃいませ」
 女が(もしや……)と言った表情で声を発した。顔は青ざめていた。(中略)
「お墓に供える花を」(中略)
「赤い花は変ですかね」(中略)
「いえ、変じゃないと思います」(中略)
「ではそれで」(中略)
「サルビアとサザンカと薔薇をアレンジしました。いかがですか」
「素敵です。ありがとう」
 直樹は笑顔で礼を言った。
会計を済ませて外に出ると、女も見送りについて来た。直樹が運転席のドアを開けたところで、女が言った。
「このパンダ、品川ナンバーってことは、東京からですか?」
「そう。友人の墓参りに来ました。でもパンダってよく知ってますね。昔の車なのに」
「ええ、ちょっと」
 もう一度見つめ合う。女の表情から動揺が消え、やさしい目をしていた。(中略)
「じゃあ、お気をつけて」
「ありがとう」(中略)女は車道まで出て来て、パンダのうしろ姿を見送っていた。
 不意に人を愛おしく思う気持ちが洪水のように溢れ、鼻の奥がつんと来た。(中略)

 どれも読みやすく、思わず笑ってしまう短編でした。

奥田英朗『コロナと潜水服』その9

2022-04-05 00:59:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

「それっていつ頃の話ですか?」直樹が聞いた。
「もう三十年以上前のことら。(中略)」
「せば気をつけて」
管理人が笑顔で手を振る。(中略)
パンダを発進させ、海沿いの道に戻ると、ナビが《音声案内を開始します》と言った。(中略)

 次に到着したのは新潟大学だった。(中略)
 男は直樹に近づくと、親し気な笑みを浮かべ、「このパンダ、オメさんの車ら?」と聞いた。
 直樹はその場で固まった。三人目。これは偶然じゃない━━。
「ええ、わたしの車ですが……」(中略)
「’(中略)それより懐かしい車だったもんで、ちっと見させてもらってました。ちなみに、わたしはここの職員です。怪しい者ではありません」(中略)
「あのう……」直樹は恐る恐る聞いた。「もしかして、昔、知り合いが乗っていたとか、そういうのですか?」
「ええ、そうですようわかりましたね」(中略)
「いや、実はですね、さっき向こうの海沿いにあるサーキットで管理人らしき人に同じように声をかけられたんです。(中略)」
「ああ、わかった。間瀬サーキットら。そんなら心当たりあります。昔の知り合いっていうのが、パンダでそのサーキットによう言ってましたわぁ。なるほど、そういうことがあったんですか」(中略)
「その人、今はどうしてるんですか?」
 直樹が聞くと、男は一瞬、表情を硬くし、「もう死にましたわ」と言った。
「もう三十年くらい前になりますかね。地元で工業デザイナーをやってたんですが、白血病と続く合併症で、あれよあれよという間に……。まだ二十五歳だったどもねぇ」
「そうでしたか……」
直樹は鳥肌が立った。そしてもうひとつの想像が浮かぶ。このパンダは、もしかするとその人物の愛車だったのではないか━━。
「ちなみに、そいつ富田雄一と言って、この大学の出身でね。ぼくとは同学年で、サークルが一緒だったんですよ。(中略)」
 男は昔を思い出したのか、いっそう懐かしげにパンダを見つけた。
「そうか。これ、じゃあ富田のパンダか。何だ、何だ」(中略)
「せば気をつけて」
 男が手を上げて挨拶し、去って行く。(中略)カーナビを見つめる。モニターに地図が映し出された数秒後、《音声案内を開始します》という音声が流れた。
わかった。今日は君に付き合おう。(中略)

 次に到着したのは、オフィス・アートという事務機器メーカーだった。(中略)富田君が勤務していた会社のようである。(中略)その前に初老の守衛がやって来て「ここに停めので」と注意された。(中略)
「三十年くらい前なんですけど、ここに勤務していた富田って人を知っている人、いませんかね。若くして亡くなられた方なんですけど」
 富田という名前を聞いて、守衛がさっと表情を変えた。
「富田って富田雄一君? 病気でなくなった」
「ご存じなんですか?」
「ええ。(中略)わたしね、この車見て、あーって思ったんだわ。そう言えば富田君、赤いミニに乗ってたなあって」(中略)
「そう。じゃあ中に入ってください。富田君を知ってる人間、呼んで来っから」(中略)
「わたしは小林という者ですが、昔、新潟大に共通の友人がいて、それで……」
「そうでしたか。わたしは富田と同期で、今も会社に残っています」(中略)
「で、富田の実家はどうなったんですか?」(中略)
「いえ、知りませんけど」
「もう取り壊したのかなあ、おかあさんも亡くなられて、住む人間はいないでしょう」
「すいません。わたし、富田君の家族のことは知らないんで……」
「そうでしたか。小林さんは東京にお住まいですもんね。(中略)」
「もう十八年前だ。次は弔い上げの三十三回忌ですかって言ったら、ご両親とも、そのときはもう自分たちは死んでるって、笑って言ってたなあ。パンダはそのときもガレージに停まっていて、ああ、まだ家族はこの車を手放さないんだって、そう思ったことを憶えてますよ」(中略)
「わたし、ひとつ知りたいことがあって、富田の命日に墓参りに行くと、いつも真新しい赤い花が供えてあるんですよ。(中略)あれは昔の恋人が供えてくれてるんじゃないかって、そんな想像をずっとしていて……。(中略)」
「富田君には恋人がいたんですね」
「ご存じなかったんですか? 花屋の一人娘。シホちゃん。(中略)」」
 直樹はパンダに乗り込み、富田君が昔勤めていた会社を後にした。
 ナビが黙ったままなので、あてずっぽうに道を走らせる。(中略)しばらくして《音声案内を開始します》とナビが声を発した。(中略)

(中略)そろそろ日が暮れかかっている。(中略)そろそろ宿を探さないと、部屋を取れないこともある。(中略)
ナビによると阿賀野市ということろを走っていた。(中略)しばらくして「歓迎 出湯温泉」と書かれたゲートが現われた。(中略)
これまでの流れから考えると、このペンションも富田君の思い出の場所なのだろう。(中略)縁のある人たちに、富田君をひと時でも思い出させることができたとすれば、自分も少しは役には立ったことになる。(中略)

(また明日へ続きます……)

奥田英朗『コロナと潜水服』その8

2022-04-04 00:09:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

 敷きっ放しの布団で横になり、不安な気持ちで天井を見ていたら、体全体がだるくなってきた。(中略)
 翌日になると、倦怠感はさらに増していた。(中略)咳をすると痰が絡んだ。(中略)
「ねえパパ。昼食、ここに置くね」(中略)
 五分で食べ終え、器を廊下に出し、また布団に潜ったところでふと気づいた。あれ、味したっけ━━。(中略)

 翌朝、体温が37度5分に達した。(中略)肺炎だって覚悟しなければならない。(中略)

 体を揺すられた。誰かの声がする。(中略)
「パパ、お外で遊ぶ」息子の声だった。
はっとして目覚める。(中略)
「だめだって、入ってきちゃ!」
 思わず大きな声を上げ、慌てててで口を覆った。大変だ。飛沫が息子の顔にかかった。
「ママは?」
「いない」
「いない?」(中略)
 そこへ妻が帰ってきた。(中略)
「海彦がおれの部屋に入ってきた。おれに触ったし、飛沫も浴びた。だから濃厚接触者になった」(中略)
「海彦はコロナを感知する超能力があるんでしょ? あなたに近づいたということは、あなたの体内でもうコロナが消えたってことでしょう」
「……!」
 康彦は絶句した。(中略)

 一ヵ月後、康彦は新型コロナウイルスの抗体検査を受けた。(中略)
 検査結果は陽性だった。
「あなた、言っても信じないかもしれないけど」と口を開いた。
「おなかの子がね、知らせてくれたの。パパは大丈夫だって」(中略)
 我が家には二人の小さな救世主がいる。そのうちの一人は、もうすぐ地上に姿を現す。人類の鎖が、またひとつつながる。そう思ったら、胸の中が、しあわせな気持ちでいっぱいになった。

「パンダに乗って」
 小さな広告会社を興して二十年、曲がりなりにも社長として頑張って来た自分へのご褒美として、今年で五十五歳の小林直樹は二台目の車を買うことにした。(中略)買うのは初代フィアット・パンダである。
 ネットで中古車を探すと、さすがに初代パンダ、それも初期モデルはタマは少なく、直樹が住む東京近郊では一台もヒットしなかった。(中略)
 それでもめげずに探していると、新潟の中古車店のホームページで一台ヒットした。(中略)メールで問い合わせると、百万円でどうかという回答があった。(中略)
 直樹は気持ちが膨らんだ。新潟まで三十六年落ちの中古車を買いに行く。この酔狂が、長年頑張って来た中年の愉しみなのだ。(中略)
 朝早い新幹線に乗ったので、新潟駅には午前中に到着した。目的の中古車店は市内にあり、タクシーで三十分ほどの街道沿いにあった。(中略)
 パンダのインテリアにはそぐわないカーナビが付いていた。(中略)
「あ、そうだ。昼飯がまだなんですが、ここらでおいしいラーメン屋さんとか、あったら教えてもらえませんか」
直樹が聞くと、山田社長はしばし考え込み、「評判の蕎麦屋ならあるどもね」と言った。
「ああ、それでもいいです。ぼく、蕎麦も好きだから」(中略)
「パンダのナビに入れておくすけ、それに従って行ってくんなせや」(中略)
 見送られ、山田モーターズを後にした。(中略)
 ここだな。店の駐車場に車を停め、看板を見上げる。そこにあった文字は「カレーとパスタの店」だった。(中略)
 レジで会計を済ませ、店の外に出ると、なぜか店主もついて来た。直樹のパンダを眺めて、「これ、お客さんの車ですか?」と聞く。
「やいやー、パンダとは懐かしいぇね。やっぱこの車は赤でねえとな」(中略)
 挨拶を交わし、パンダに乗り込む。今度はナビに東京の自宅住所をインプットした。(中略)

 来た道を戻るのだろうと思っていたら、ナビは反対方向おを指示した。(中略)海沿いの道を走ると、サーキットの看板があった。(中略)横目で見ながら通り過ぎようとしたら、ナビが《目的地に到着です》と告げた。(中略)
「すいません。すぐに出て行きます」
「いや、それはいいども……。そのパンダ、オメさんのら?」(中略)
「ええ。わたしの車ですが」(中略)
「そうですかね。いや、あんまり懐かしかったけね……。(中略)」
 管理人がうれしそうに目を細める。そして「よかったら、ちっと走って行くかね?」と、耳を疑うようなことを言った。(中略)」
「誰もいねから好きに飛ばしていいわね。全長二キロ。アップダウンも少なくて、そう難しいコースでねえし」(中略)」
「じゃあ一周だけ走らせてもらいます」
「どうぞ、どうぞ」(中略)」
 たちまち一周を走り終え、パドックに戻った。気分は実に爽快である。
「いやあ、楽しかったです。ありがとうございました」
{どういたしまして。いえね、同じ赤いパンダに乗った知り合いがいたもんで、それを思い出したんさー。そいつは日曜の走行会によく参加して、パンダを走らせてたんだわ。まったく同じ車だから、なんか昔に帰ったみてえでね}(中略)」

(また明日へ続きます……)

奥田英朗『コロナと潜水服』その7

2022-04-03 01:00:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

そのときは驚いた母から電話があった。
「海彦クンが止めてくれなんだら、おかあさん、コロナに罹っとったわ」(中略)
「偶然なんやないの?」と康彦。
「ううん、タイミングが良過ぎる。だって一時間電話が遅かったら、おかあさん、出かけとったもん。これは神様のお導きやて。神様が海彦クンに乗り移って巣くってくれたんやて」
「そうかなあ」(中略)

 不思議な出来事はその後も続いた。
 外出自粛を求められても、小さな子供が一日家の中で過ごすことは難しい。康彦は、一時間だけと決めて、息子を外で遊ばせていた。そんなある日、いつもの公園へ連れて行き、遊具で遊ばせていたところ、鉄棒を前にして急に息子の笑顔が消え、その場に立ち尽くしたのである。
「海彦、どうした? 鉄棒やらないの?」(中略)
「やだ。やらない」
「どうして?」
「どうしても!」(中略)
 そして、近くのベンチが空いたので、そこに腰かけようおt歩き出したとき、息子が滑り台の上で「ダメーッ!」と大声を発した。(中略)
「パパ、そこに座っちゃダメ!」
 康彦は、その血相の変え方に見覚えがあった。(中略)
「もう帰る」
「帰るの? 来たばかりじゃないか」
「いいから帰る!」(中略)そして翌日、公園のすぐ横にあるワンルーム・マンションから、新型コロナウイルスの感染者が出た━━。(中略)

(中略)
保育園が休園中なので、その後は息子と二人きりの時間となった。(中略)
そのとき、おもちゃで一人遊びしていた息子が、すたすたとテレビの前まで歩き、画面のニュースキャスターに向かって「おうちにいなきゃダメ!」と声を張り上げた。
「この人はお仕事。だから外出自粛の対象ではありません」(中略)
 腕を引っ張ると、息子は足を踏ん張って抵抗し、キャスターを凝視していた。(中略)

 その数日後、驚きのニュースが流れた。息子がテレビを観て叫んだ番組のニュースキャスターが、新型コロナウイルスに感染していたことが判明したのである。(中略)

 感染者数が一向に減らない中、とうとう政府が緊急事態宣言を発令した。(中略)

 帰宅すると、玄関から風呂場に直行した。
「ママー、着替え持ってきて」
 奥の部屋に向かって声を上げる。
「どうしたの?」妻が何事かと出て来た。
「近寄っちゃだめ。服にウイルスが付着してるかもしれないから」
「何かあった?」
「講習に行って、盛大に他人の飛沫を浴びてきた」
「あら、そう。大変ね」
妻は苦笑して、康彦の下着を持ってきた。(中略)息子が康彦の方を振り返る。ゲームのコントローラーを置き、立ち上がり、駆け寄りかけたところで急に動きを止めた。
「どうしたの?」(中略)「パパ、出かけちゃダメ!」と叫んだ。
「今帰ってきたところだって。もう家にいるよ」
「出かけちゃダメ!」語気強くその言葉を繰り返す。
 康彦ははっとした。息子の表情は、過去に三回コロナを感知したときと同じ顔つきなのだ。(中略)
「おれ、コロナに感染したみたい」
「はあ? どうしてわかるの?」
「海彦が感知した。だからおれに近寄らなかった」
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃない。これからおれはコロナの潜伏期間とされる二週間の自主隔離に入る。絶対部屋に入って来ないように」(中略)
「(中略)まずはこの部屋のドアノブを大至急、消毒して。今、おれ触っちゃったから。それからどこかで防護服とゴーグルを買ってきて。今後、この部屋から出るときはトイレでもおれは防護服を着る」(中略)

一時間後、妻と息子が帰ってきた。
「あのさあ、ホームセンターとスーパーを回ったけど、防護服どころか雨合羽も売り切れだった。でね、たまたま帰り道に古道具屋さんがあって、のぞいてみたら、代用品になりそうな物があったから、一応買って来たんだけど……」(中略)

 どうやら妻が買ってきた潜水服は、かつて海底での建設作業時に使用したものらしかった。(中略)
「ねえパパ、お外で遊ぶ」(中略)
「ゲームは?」
「もう飽きた。公園でサッカーやる」(中略)
「わかった。じゃあちょっと待って」
 康彦は急いで潜水服を着込んだ。(中略)
「すいません。ご主人、ちょっといいですか?」年配の警官が声をかけてきた。
「ええ、いいですよ」
「変わったコスチュームの人が公園に侵入してきたって、110番通報があったものですから」(中略)
「ご主人、事件性、事故性、共にないということで、我々は引き揚げます。ですからご主人も早く家に帰ってください、(中略)」

 熱中症の教訓から、これからの季節は暑さ対策が必要だと悟り、康彦は冷却ベストというものをネットで探して購入した。(中略)
 早速散歩に着ていく。(中略)
 ここでも道行く人の注目を浴びた。(中略)
 この日はテレビ局もやって来た。(中略)

(また明日へ続きます……)

奥田英朗『コロナと潜水服』その6

2022-04-02 00:27:00 | ノンジャンル
 また昨日の続きです。

麻衣子は密かに傷ついた。これってもしかして“都合のいい女”というやつなのだろうか。女子学生時代はミスコン荒らしとして名を馳せ、ファッション誌の読者モデルまで務めたこのわたしが……?(中略)
 そんな中、さらなるショックな出来事が起きた。勇樹が例の女子アナと深夜にデートしている写真が週刊誌に掲載されたのである。(中略)
 麻衣子は頭の中が真っ白になり、何も考えられなかった。勇樹から弁解のメールはない。(中略)麻衣子は、まずは同じ事務所の加奈に相談してみた。
「今はやめた方がいい。きっと別れ話を切り出されると思う」(中略)

 一人で考えると憂鬱になるばかりなので、また原宿の占い師を訪ねた。これで三度目、麻衣子にとって、もはや人生相談の趣である。
「おー、来た、来た」鏡子は笑顔で迎えてくれた。「週刊誌、わたしも読んだよ。あんた、なめられてるね」(中略)
「やっぱりそうかな」
「当たり前じゃん。かつてのミスコンの女王も地に落ちたね」
「はあ? 何でそんなこと知ってるのよ」
「いや、まあ、それはね……」(中略)
「で、どうしたいの? 別れるの?」鏡子が聞いた。(中略)
「あのさあ、トップじゃなくてもいいのよ。二番手、三番手あたりでも十分いい生活できるし」(中略)
「そうね。勇樹がまたスランプになって、わたしを求めて、それでプロポーズまでもって行く。そこで呪いが解けてまた活躍する」(中略)
 ともあれ、また水晶玉のお世話になることになった。(中略)
「うまく行くといいね」と鏡子。
「本当にそう思ってる?」
「思ってるよ。だってあんた━━」(中略)
「何よ。わたしが何?」
「何でもない。麻衣子がしあわせになるように」(中略)

 翌週、勇樹はデッドボールを受けた。(中略)勇樹はその場に倒れ、しばらく起き上がれなかった。そのままベンチに退いたが、勇樹の顔は蒼ざめていて、ただの打撲でなさそうなことは表情でわかった。そしてその夜のうちに骨折であることが判明した。(中略)
 お見舞いのメールを何度か送ったが、事務的で短い返信が一度あったきりで、それ以降音沙汰はなかった。(中略)

 翌週、IT企業の経営者が集まるシンポジウムの司会の仕事があった。(中略)
「ところでさあ、麻衣子。原宿の占い師の店には行かなかったの?」
 内藤が異なことを聞いた。
「どういうことですか?」
「わたし、三日前に行ったのよ。そこで先生に、うちの浅野麻衣子がお世話になったようですが、どうですか彼女の運勢はって聞いたの。そしたら先生、そういう人は来てないけどって」
「え? わたし三度も行ってますよ」(中略)
「わたし、もしかしたら、ちがう所に行ってたかもしれない……」(中略)
 麻衣子がしあわせになりますように━━。鏡子が最後に言った言葉が、頭の中で響いている。

 麻衣子は仕事を終えるなり、原宿に行った。(中略)
 路地に入り、坂道を上り、古い雑居ビルを見上げると、いつものビルはあった。(中略)そして入り口は板が打ち付けられ、人が入れないよう閉ざされていた。板には貼り紙がある。顔を近づけて見ると、数日後にはこのビルの解体工事が始まるとの旨が書かれていた。
麻衣子は唖然とした。(中略)
麻衣子は坂道を下り、すぐ脇にあるアクセサリー・ショップに入った。店長をつかまえ、裏の古いビルはいつ閉鎖されたのかと聞く。すると、「三月くらいだったと思うけど」という信じられない答えが返ってきた。(中略)
 おーい、鏡子━━。窓を見上げたまま、心の中で呼びかけた。わたし、上を目指すよ。玉の輿も諦めないからね━━。
空から笑い声が降ってきた気がした。

「コロナと潜水服」
 五歳になる息子・海彦が不思議な能力を持っているらしいと気づいたのは、ここ数週間のことである。新型コロナウイルスという感染症が、いかにも発生しそうな国で突如発生し、瞬く間に世界に広まったため、人類は用のある者以外、全員外出禁止もしくは自粛という初めての生活様式を強いられていた。そんな中、三十五歳の会社員・渡辺康彦も、とくに用がないため、会社から在宅勤務を命ぜられていた。(中略)息子がある日突然、「バアバにスマホして」と言い出したのである。康彦の両親は、実家のある岐阜県に住んでいる。(中略)「バアバ、今日はお出かけしちゃダメ!」と、大きな声で呼びかけた。(中略)
「おかあさん、今日はどこか出かけるの?」康彦が聞いた。
「うん。長良のスポーツジムのレッスン室を借りて、コーラス・サークルの練習があるでね」(中略)
「ジイジも出かけちゃダメ!」(中略)
「わかった。海彦クンが言うなら聞いたるわ」(中略)
 そんなやり取りがあった翌週、母が参加するはずだったコーラス・サークルから新型コロナウイルスの感染者が出た。さらには参加者の家族からも感染者が多数出て、クラスター(集団感染)が発生した━━。

(また明日へ続きます……)