「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、開催される展覧会だそうです。
テレビなどで伺う、主催者側の言い分は理路整然としています。表現の自由は民主国家においては当然守られるべきものなので、誰も作品展を邪魔する権利はありません。
見る人によっては、怒りを覚えたり、傷ついたり、疑問に思う内容もあるようですが、表現の自由が守られている現在、何をどう表現しても自由と主張されるのは理解できます。
私が思うに芸術というものは、歴史的に見ると、個人の政治的な主張も盛り込んで表現がなされることも多くあると思います。どんな作品を生み出すかは、あくまでも作者の自由です。政治的な主張を盛り込むのありと思います。
一方、芸術作品ですから、見る側には、当然、好きとか嫌いとか、楽しいとか楽しくないとか、作者が好きとか嫌いとか、自由に意見を言う権利があります。
一つだけきになるのは
組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品というくくりですが、各美術館などは、必ずコンセプトというものがあるはずなので、そのコンセプトに合うものを採用するのは当然のことです。それは検閲や忖度とは別物と思います。
もし、明るいお花の芸術点というテーマが企画されたとしたら、それに慰安婦の彫刻や、天皇をもじった作品などは当然採用されるはずはありません。それは検閲とは全く違うものです。
主催者側は、会場にできるだけ多くの人に来てもらいたいという意図があるはずですから、人が呼べる内容を模索するのは当然です。できるだけ、人に感動を与えて来て良かったと思ってもらいたいはずです。
だから、組織の検閲や忖度によってはじかれたというのは、言い過ぎです。個別に見てゆけば、そうしたものも少しはあるのかもしれませんが、総称していうことではないと思います。
ここが一番の問題ではないでしょうか。
今回、また、愛知で再開されているようですが、行きたい人は行き、行きたくない人は行かなければ良いことです。行った後、つまらなかったと思う人もいれば、すごく良かったという人もいらっしゃるかもしれません。それだけだと思います。
どんな芸術が良いかという問題も、それはあくまでも個々の趣味の問題です。人に押し付けるものでは決してありません。
主催者を捕まえて、あなたは間違っているということではありません。
私はうがった見方をする人間なので、
今回は、こうして世間を騒がせるのが目的で開いた企画のように思えてなりません。これも私の自由な意見です。
画像は残り物で作ったカレーです。
最近の 私の ヨメはもっぱらカレーです。この子がこの世に存在する限り幸せでいられる気がします。