マダムホーリーの毎日のご飯とぼやき日記

毎日作る料理をご紹介し、日々思うことをぼやいています。

表現の不自由展

2019-10-09 14:29:22 | ぼやき日記

「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、開催される展覧会だそうです。

テレビなどで伺う、主催者側の言い分は理路整然としています。表現の自由は民主国家においては当然守られるべきものなので、誰も作品展を邪魔する権利はありません。

見る人によっては、怒りを覚えたり、傷ついたり、疑問に思う内容もあるようですが、表現の自由が守られている現在、何をどう表現しても自由と主張されるのは理解できます。

 

私が思うに芸術というものは、歴史的に見ると、個人の政治的な主張も盛り込んで表現がなされることも多くあると思います。どんな作品を生み出すかは、あくまでも作者の自由です。政治的な主張を盛り込むのありと思います。

一方、芸術作品ですから、見る側には、当然、好きとか嫌いとか、楽しいとか楽しくないとか、作者が好きとか嫌いとか、自由に意見を言う権利があります。

 

一つだけきになるのは

組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品というくくりですが、各美術館などは、必ずコンセプトというものがあるはずなので、そのコンセプトに合うものを採用するのは当然のことです。それは検閲や忖度とは別物と思います。

 

もし、明るいお花の芸術点というテーマが企画されたとしたら、それに慰安婦の彫刻や、天皇をもじった作品などは当然採用されるはずはありません。それは検閲とは全く違うものです。

主催者側は、会場にできるだけ多くの人に来てもらいたいという意図があるはずですから、人が呼べる内容を模索するのは当然です。できるだけ、人に感動を与えて来て良かったと思ってもらいたいはずです。

だから、組織の検閲や忖度によってはじかれたというのは、言い過ぎです。個別に見てゆけば、そうしたものも少しはあるのかもしれませんが、総称していうことではないと思います。

ここが一番の問題ではないでしょうか。

 

今回、また、愛知で再開されているようですが、行きたい人は行き、行きたくない人は行かなければ良いことです。行った後、つまらなかったと思う人もいれば、すごく良かったという人もいらっしゃるかもしれません。それだけだと思います。

 

どんな芸術が良いかという問題も、それはあくまでも個々の趣味の問題です。人に押し付けるものでは決してありません。

主催者を捕まえて、あなたは間違っているということではありません。

 

私はうがった見方をする人間なので、

今回は、こうして世間を騒がせるのが目的で開いた企画のように思えてなりません。これも私の自由な意見です。

 

画像は残り物で作ったカレーです。 

最近の 私の ヨメはもっぱらカレーです。この子がこの世に存在する限り幸せでいられる気がします。

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私風ミートロール 教員間のいじめにため息を漏らす私

2019-10-09 08:40:21 | 夕食

この間書き上げた短編に出てくるミートロールを作ってみました。やっぱり映えません。ウィーンで買って来た料理の本に出ていた、オーバーエスターライヒ風ミートロールを参考にしています。

この間書き上げた短編に出てくるミートロールを作ってみました。やっぱり映えません。ウィーンで買って来た料理の本に出ていた、オーバーエスターライヒ風ミートロールを参考にしています。ハンバーグを肉で巻いて煮込む料理で、本場のものは生クリームとパプリカ風味の味付けをいたします。私は、セロリとニンニクと白ワインと水で煮て最後に牛乳を入れました。他に入れる野菜は、パプリカと玉ねぎとマッシュルームです。

オーバーエスターライヒ州のお料理がどんな特徴があるかは全くわかりませんが、州都のリンツの名前がつけられたリンツアートルテというラズベリージャムとアーモンドプードルを使ったお菓子がありますので、独特の食文化が発達している地域なのでしょうね。

 

味は最高なんですけどね。インスタ映えさせるのが得意な人に教わりたいです。

 

ここ数日神戸市の小学校の教員同士のいじめ問題をマスコミが取り上げております。

数名の教員が、一人の教員に対して、嫌がらせ以上のいじめを繰り返し、それが動画で発信されているのです。苦手な激辛カレーを無理やり食べさせている動画が痛々しく胸が痛みます。

職場での、パワハラやいじめはどこにでもあります。程度は様々です。こんな風にテレビに取り上げるのは稀なことです。これは氷山の一角に過ぎません。

私が知る限りでは、いじめやパワハラにあったほとんどの人に見られることは、問題を大きくすることなく、職場を去っていくケースです。

問題を表面化させ、白黒つけて、徹底的に戦った場合、被害者自身がさらに傷つき、かなりのエネルギーを使うことになり、さらに職場が教育現場であるなら、児童生徒に影響が出てしまうので、泣き寝入りになっても何も言わず、被害者は居心地の良い職場を他に探す方が良いと考えるのです。

 

それ故、自分が気に入らない人を、排除するためにいじめるという行為は終わることなく、いつまでも続いていく傾向にあります。

友人や主婦の間でいじるという行為も、本人が喜ばない内容であるなら即座にやめるべきなのに、いじるのをやめずその場を盛り上げるために面白おかしく話すのを何度か見たことがあります。また会議などで人格を否定するほどの個人攻撃を目の当たりにしたこともありました。それについて、意義を唱えると、雰囲気を壊すとか、大げさに捉え、小さいことにすぐ目くじらをたてると批判されることもあります。私は何度かそういう場面に遭遇して、場の雰囲気を壊しました。いじる行為がいじめにつながっていくのですから見過ごすことはできませんでした。

人を平気でいじる大人が親だったら、子供はどう育つでしょうか?反面教師にしてくれたら良いでしょうが、そうでなければ、人をいじめる人間をこの世に送り出すことになります。

 

そして一番問題なのは、自分が被害者になることばかりを気にすることです。そうではなく、自分が過って加害者になってしまうかもしれないという心配を、皆がしたら、世の中は変わるはずです。

問題が大きくなる前に今現在、加害者の立場にある人は、すぐに心を入れ替えていただきたいと願っている私です。

 

いじめられて良い人間はこの世にはいないといかにも良い人であるようなことをいつも叫んでおりますが、私自身は好き嫌いがはっきりしており、ろくな人間ではありません。

嫌いな人をいじめなくて済むように、嫌いな人からいじめられなくて済むように、そこは大人ですから、差し障りのない距離を置いて、上手にやって行くことを学びながら過ごしています。

 

 

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