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トンネル工事が終盤を迎えていた翌年の1月2日、朝鮮人労働者が町内の映画館で日本人に「中にいる同僚を探してほしい」と頼んだことが悲劇の発端になった。

2025-01-09 | あらゆる差別を許さない
 

関東大震災の朝鮮人虐殺から3年後の「木本事件」

三重県の朝鮮人の悲劇

登録:2025-01-08 11:31 修正:2025-01-08 21:39
 
99年前、植民地時代に起きたもう一つの惨劇
 
 
三重県熊野市の木本トンネル近隣に、1926年1月3日に日本人によって虐殺された李基允さん、裵相度さんの死を追悼する碑が建てられている=「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」提供//ハンギョレ新聞社

 三重県熊野市は太平洋の海と接する22キロメートルもの白い砂浜が広がり、美しい自然景観を誇る地だ。しかし、この地域にある木本トンネルの前には、99年前の日帝強占期(日本による植民地時代)の朝鮮人労働者の残酷な死が隠されている。

 1925年1月、山に囲まれた木本町(現在の熊野市)では、山を貫いて道を作るトンネル工事が行われていた。全長509メートルのトンネル工事で、木本トンネル側には朝鮮から渡ってきた労働者200人余りが主に投入された。

 朝鮮人労働者は手作業で山を掘り、道を作っていた。植民地朝鮮から来た労働者に対する差別は日常だった。トンネル工事が終盤を迎えていた翌年の1月2日、朝鮮人労働者が町内の映画館で日本人に「中にいる同僚を探してほしい」と頼んだことが悲劇の発端になった。田中という日本人がこれを断って口論となり、「お前ら朝鮮人が身の程知らずにもけんかを売っているのか」と言って朝鮮人を短刀で刺し、重傷を負わせる事件が起きた。翌日、朝鮮人労働者がこの問題を問い詰めると、今度は木本の一部の日本人が朝鮮人労働者の宿舎を襲撃し、李基允(イ・ギユン)さん(当時25)を殺害した。当時、町には日本人の間で「朝鮮人がダイナマイトを持って復讐しにくる」、「町に火をつけようとしている」というデマが流れたという。

 これが終わりではなかった。地域の在郷軍人会や消防組、自警団などによって、もう一人の朝鮮人労働者の裵相度(ペ・サンド)さん(当時29)が道で無残に殺された。1926年2月4日付の「朝鮮日報」は当時の状況をこのように報じている。「その地域の日本の自警団、青年団、在郷軍人会、消防組、青年団などが軍事教育用の銃剣や猟銃、短刀、消防用の鉄かぎと竹槍などを持って朝鮮人を襲撃し、弾丸が飛び交い刃が振り回された所へ朝鮮人の血が流れ、釜山生まれの裵相度氏と慶州生まれの李基允氏(当時朝鮮日報の記事には「イ・ギリョン」と記載)が即死した」。朝鮮人労働者たちと親しい間柄だった一部の日本人も一緒に激しい抵抗を試みたが、無駄だった。日本側の自警団などはこれに止まらず、山やトンネルに逃げた朝鮮人を追跡して捕まえ、彼らを全員町から追放した。事件は双方の暴力として処理され、同年10月、法廷で朝鮮人側(日本人3人を含む)15人のうち4人に1年6カ月~3年の実刑、残りは執行猶予が下された。朝鮮人殺害に加担した日本人6人は6カ月~2年の実刑、10人は執行猶予(1人は自殺)の処分を受けた。しかし、犠牲になった人々は帰ってこなかった。

 木本事件を浮上させたのは、在日の歴史研究家の金靜美(キム・ジョンミ)さんだった。1980年代初め、三重県近隣の和歌山地域の朝鮮人の歴史を調査していたなかで、日帝強占期時代の朝鮮人労働者と関連した「木本の悲劇」を知った。さらに、1988年7月には熊野市を訪れ、当時の事件の目撃者に会うなど、本格的に事件の実体を調査しはじめた。朝鮮人労働者を雇用した日本人が近くの極楽寺の墓地に2人の墓碑を置いたが、朝鮮人に対する差別的な表現とともに、犠牲者の創氏改名された日本名が刻まれていた。その後、極楽寺の住職は2人の墓碑を取り壊して無縁墓に移した。当時の状況は、1988年に金さんが書いた論文「三重県木本における朝鮮人襲撃・虐殺について」(在日朝鮮人史研究18号・在日朝鮮人運動史研究会)に詳しく記録されている。翌年6月、金さんと志を同じくする人々が、木本事件の真相を明らかにし犠牲者のための追悼碑を建立するために「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允、裵相度)の追悼碑を建立する会」(木本会)を発足。その後、極楽寺の住職が変わり、母国の韓国から取り寄せた石碑に2人の本名の韓国名が再び刻まれるまで、80年近い歳月がかかった。先月27日、ハンギョレの取材に応じた金さんは「歴史を直視し反省するために、まず誤った歴史を正しく書き直すことが必要であり、このような惨事はこの地域だけでなく日本全体の問題だと考えた」とし、「在日朝鮮人が日本の人々に一緒に考えようと提案し、会が発足した」と語った。

 1994年には木本トンネルの南側入口付近に、被害者の残酷な歴史を記憶するために市民の自発的な募金で追悼碑が建てられた。すぐ隣の碑文板には「李基允氏と裵相度氏が朝鮮の故郷で生活できずに、日本に働きにこなければならなかったのも、異郷で殺されたのも、天皇(制)のもとにすすめられた日本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因でした」とし「二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑を建立しました」と書かれている。毎年11月に追悼碑の前で李さんと裵さんを悼む集いが開かれており、昨年で31回目を迎えた。

 木本事件の真実を探る過程で、犠牲者の一人である裵相度さんの遺族とは連絡がついた。裵さんの本籍地が釜山東莱区(トンネグ)の一地域であることが確認され、ここの洞事務所(現在の住民センター)に遺族照会を要請する手紙を送った。劇的にも、当時の洞事務所の所長が裵さんの甥であり、その後、遺族が事件発生から63年たった1989年に惨事現場を直接訪ねた。木本会は来年の惨事100年を控え、もう一人の犠牲者である李基允さんの遺族を方々に探している。以前、会のメンバーは1989年に李さんの本籍地が慶尚北道慶州郡の内東面排盤里(ネドンミョン・ペバンリ、現在の排盤洞)であると突き止め、聞き込みをするかのようにこの地域の李さんの存在を調べたが、痕跡を見つけることはできなかった。その後も金さんと木本会のメンバーは現地の住民センターを訪れ、確認可能な戸籍簿などを一つひとつ調べたが、遺族に関する情報は得られなかった。

 木本会がもう100年近くたったこの事件の究明に心血を注ぐのは、当時の惨事が朝鮮人に対する差別で数千人の命を奪った関東大震災時の朝鮮人虐殺の延長線上にあると考えるためだ。1923年9月に起きた大地震の混乱の中で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマが流れ、日本軍と警察、自警団などが朝鮮人を虐殺した。植民地時代の残酷な過去の真相を究明し、謝罪と反省を通じて根強い差別の歴史を断ち切らなければならないというのが木本会の考えだ。金さんは「植民地時代の朝鮮には『もう一人の李基允・裵相度さん』が無数におり、現在は彼らの遺族が生存している」として「木本虐殺に対して国と社会が歴史的責任を負い、被害者と遺族に謝罪と賠償をすべき」だと指摘した。

 
三重県熊野市の木本トンネル近隣に、1926年1月3日に日本人によって虐殺された李基允さん、裵相度さんの死を追悼する碑が建てられている=「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」提供//ハンギョレ新聞社

<木本事件の遺族と証言を探しています>

「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」は、木本事件当時に裁判に付された朝鮮人労働者だけでなく、朝鮮人側に立って暴力に立ち向い裁判に付された日本人に関する記録と遺族を探している。当時、在日本朝鮮労働総同盟などは「三重県撲殺事件に際し全日本無産階級に訴ふ」という声明を通じて「われわれ朝鮮人労働者が命を失うことになった刹那に林林一など日本人労働者が果敢にもわれわれの味方になり、(日本の自警団などの)ダイナマイトを奪った」と明らかにした記録などを残した。木本事件当時、日本の自警団などの暴力に立ち向かって法廷に立った人たちは、キム・ドクリョン(27)、キム・ドフン(24)、キム・ミョング(不詳)、キム・ヨンス(21)、キム・ウボン(20)、ソ・スアム(29)、ユ・サンボム(34)、ユン・ジョンジン(不詳)、ユン・ソクヒョン(27)、イ・ギョンゲ(不詳)、イ・ドスル(27)、チャン・マンシク(19、以上朝鮮人)、 高橋万次郎(19)、林林一(18)、杉浦新吉(22、以上日本人)。

海南(和歌山県)/ホン・ソクジェ特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
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内乱罪の容疑者、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の逮捕状を再交付された共助捜査本部が、官邸への進入と身柄確保案を検討するなど、尹大統領の2回目の逮捕状執行が秒読みに入った。

2025-01-09 | 韓国あれこれ・・・
 

尹錫悦大統領の逮捕間近…

警護処を無力化する圧倒的な警察力投入の態勢

登録:2025-01-09 06:43 修正:2025-01-09 08:07
 
 
逮捕状の再執行を控え、「逃避説」まで持ち上がった尹錫悦大統領と推定される人物(左から三人目)が8日昼、警護員らとともにソウル龍山区漢南洞の大統領官邸の警備状態を点検する姿がオーマイニュースTVに捉えられた=オーマイニュースTV提供//ハンギョレ新聞社

 内乱罪の容疑者、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の逮捕状を再交付された共助捜査本部が、官邸への進入と身柄確保案を検討するなど、尹大統領の2回目の逮捕状執行が秒読みに入った。高位公職者犯罪捜査処(公捜処)の捜査管轄を問題視している尹大統領側は「起訴するか、事前拘束令状を請求すべき」だと反発しており、尹大統領の支持者たちはソウル漢南洞(ハンナムドン)の官邸前に再び集結した。

 公捜処は8日、警察庁国家捜査本部(国捜本)と逮捕状の細部執行計画作りに入った。公捜処の関係者はこの日、ハンギョレに「捜査チームが逮捕状の執行に向けた具体的な案と役割をめぐり国捜本と協議を進めている」と語った。3日に逮捕状の執行に失敗した公捜処は、7日にソウル西部地裁に逮捕状を再請求し、令状が発付された。以前に発行された逮捕状は有効期間が7日間だったが、公捜処は今回の令状の有効期間については口を閉ざした。公捜処の関係者は「令状の期限が分かれば、相手がその時まで持ちこたえれば良いと考える場合もあるため、明らかにすることはできない」と話した。公捜処は、尹大統領の逮捕状の再執行に投入する人数を1回目(公捜処30人、国捜本120人)より倍に増やし、警護処の物理的脅威に対応するため警察特攻隊を投入する案を検討しているという。共助本部内外では、バスや鉄条網などで封鎖された通路を突破するため、警察特攻隊の装甲車とヘリコプターを利用して内部に進入する方法も取り上げられている。

 尹大統領側は、2回目の逮捕状の執行が迫ると強く反発した。尹大統領の弁護団は同日、ソウル瑞草区の韓国カンファレンスセンターで記者会見を行い「逮捕状によって進められる捜査には応じられないという立場に変わりはない」としたうえで、「起訴するか、ソウル中央地裁に事前拘束令状を請求すれば、裁判所の裁判には応じる」と明らかにした。 これに対し、公捜処の関係者は「法と原則に則って捜査を進めることには変わりがない」と語った。尹大統領側の反発にかかわらず逮捕状を執行するという意味だ。逮捕対象である尹大統領がすでに官邸を抜け出したという逃走説も持ち上がったが、この日の午後12時53分頃、オーマイニュースのカメラには尹大統領とみられる人物が3、4人の男性と共に官邸進入路に出て、あちこちを指さしながら何かを指示する場面が映っていた。

 尹大統領の逮捕が失敗に終わってから、しばらく静かだった官邸の前には、再び尹大統領の支持者たちが集まり始めた。この日午後2時頃から漢南洞のルター教会前で開かれた尹大統領弾劾反対集会では、星条旗と太極旗を持った数千人の尹大統領の支持者たちが「大統領を守ろう」、「弾劾無効」等のスローガンを叫んだ。

 「尹錫悦即時退陣・社会大改革非常行動」(非常行動)は、ソウル鍾路区(チョンノグ)の政府庁舎前で記者会見を開き、警護処の逮捕状執行妨害を幇助(ほうじょ)しているチェ・サンモク大統領権限代行副首相兼企画財政部長官に対し、「公権力に対し実弾を発砲するなどを企てた警護処に対する黙認と支援をやめ、パク・ジョンジュン警護処長と幹部を解任すべきだ」と求めた。

カン・ジェグ、ペ・ジヒョン、イム・ジェヒ、パク・コウン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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面会後、オンラインで記者会見した田中熙巳氏は、日本被団協の要望を伝え、首相の安全保障の見解に反論する時間が設けられず、収穫のある面会ではなかったので残念だと述べました。

2025-01-09 | 核兵器禁止条約は世界の流れ!

2025年1月9日(木)

日本被団協、首相と面会

石破氏は「核抑止力」論に固執

写真

(写真)ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の田中熙巳代表委員(左から4人目)らと面会する石破茂首相(右から2人目)=8日、首相官邸

 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の田中熙巳(てるみ)、田中重光、箕牧智之(みまきとしゆき)各代表委員らは8日、首相官邸で、石破茂首相と面会しました。面会後、オンラインで記者会見した田中熙巳氏は、日本被団協の要望を伝え、首相の安全保障の見解に反論する時間が設けられず、収穫のある面会ではなかったので残念だと述べました。引き続き面会を申し入れて議論したいとの考えを示しました。

 面会は約30分間。石破首相は、日本被団協のノーベル平和賞受賞について祝意を述べる一方、「非常に厳しい国際情勢で日本の現状はやむを得ないが、将来の核なき世界を目指すという思いは同じだ」などと、「核抑止力」論に固執しました。

 日本被団協が日本政府に核兵器禁止条約の署名・批准を求めてきたもとで、箕牧氏は、今年3月の核兵器禁止条約第3回締約国会議にオブザーバー参加するよう要請しました。石破首相は全く答えませんでした。

 田中重光氏は、長崎の「被爆体験者」に被爆者健康手帳が交付されるよう考えてほしいと述べました。

 他のメンバーは、自身の被爆体験や核兵器廃絶への思いを訴えるとともに、原爆犠牲者に対する国家補償を求めました。

 田中熙巳氏は会見で「被団協の要望について総理が答える時間帯が特になかった。総理の日頃の見解を一方的に聞かされる場面になってしまい残念だ」と語りました。また「総理の考え方を聞いて意見を述べる場が設けられないといけない。それが実現できるよう努力していきたい」と述べました。

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