どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

そんな一日

2004年11月23日 | 日記
せっかくの休日ですから、天気も良いことだし、外出!

で、大倉集古館へ行って来ました。

六本木から徒歩。泉ガーデンには思い出タップリ!残業のね~

現在、防衛庁跡地のA9のプロジェクトも進んでいるけれど、

今日の散歩であの辺りがすべて、再開発のターゲットになっていると解りました。

散歩の途中、コンビニの袋と一緒にカップそば(どうやら湯が入っている様子)を持った老女とすれ違いました。

歩道橋の上から見ていたら、案の定、そこだと思う場所にたどり着き・・・

切ないというか・・・

私は同情はしないと決めています。

人は、それぞれの運命を背負いながらも、なんとか生きていくものだと。

また、そうあるべきだし、その強さが必要だと。

でも、母親と同じくらいの年齢の女性が・・・本人は納得した人生かもしれないし。

複雑な想いが脳裏を駆け巡りました。

散歩の良さは、ここにあります。

垣間見た瞬間を、自分の中で消化する余裕があり、そこに逍遥哲学の良さがあります。

それが、想像を絶するようなオデブの黒猫であろうと、時には女性であろうと・・・

勿論、私は俗物ですから、忠太の大倉集古館を見た後、しっかりホテルオークラのバーでビールを堪能!

それから、東京駅まで散歩し、帰りにはお寿司を頂いて帰宅しました。(ビールつきで)

それでも、釈然としない想いが今なお残っています。

それだけのこと。

そんな一日でした。
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新嘗祭といえば

2004年11月23日 | 日記
勤労感謝の日。新嘗祭である。

私がこの言葉を知ったのは、小学生の時。

5,6年生の時の担任の先生が、前日に説明してくださったのだ。

全く不思議なことだが、この時の教室に差し込む柔らかな日差しを、私は明瞭に思い出すことができる。

私は、この女性教師が好きだった。

小学校時代の担任教師は3人とも女性で、1,2年の頃の先生は、私たちの進級と同時に退職された。

その春休みに先生は、教師生活最後の教え子たちを、自宅に招待してくれた。

子供の目からは、おばあちゃんのように見えたが、優しい先生だった。

この二人の先生の名を、私はフルネームで言えるし、もちろん漢字で書くこともできる。

だが、3,4年生の時の担任の名は思い出せない。

顔は覚えているのだが・・・

特に何かがあった、ということも無く、楽しい日々だったが、その教師に関しては何一つ覚えていない。

印象に残る授業も、言葉も、エピソードさえもだ。

幼稚園から大学に至る迄、それなりの数の教師(先生や講師や教授も含めて)と接してきたが

私の中でこれほど影の薄い教師もいない。

そういう意味では、逆に思い出深いとも言えるかもしれない。
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偏屈な私

2004年11月23日 | 日記
子供の頃から、日記はつけていた。

それが、数年前の、母の突然の大病という青天の霹靂の事態で途絶えた。

そして、ここで復活した。

ただし、自分の意思ではなく偶然というか、粗忽者ゆえの産物だった。(これは笑える)

ここに私の一部が存在する。

私の戯言のページには、そう書いてある。

書くことに嘘は無い。しかし、私の全てを書いているわけではない。

扉にはスクロールしなければ読めない、私の一つの真実がある。

自画像は、正直な私の姿である。

こんな私と知ってか知らぬか、付き合ってくださる人々に、感謝!

偽善が嫌いで、人と群れることが嫌いで、限りなく自由と責任を愛する、偏屈な私です。

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