プロ野球で戦後初の三冠王に輝いた名キャッチャーで、監督としても日本一に3回輝いた野村克也さんが11日、虚血性心不全のため亡くなりました。
84歳でした。
野村さんは京都府出身、昭和29年に峰山高校からテスト生でソフトバンクの前身、南海に入団しました。
昭和36年から8年連続でホームラン王を獲得し、昭和40年には戦後初の三冠王に輝きました。
「打ってよし守ってよし」の球史に残る名キャッチャーとなり、選手兼任監督としても8年間チームを率いて昭和48年にはリーグ優勝を果たしました。
その後、ロッテと西武でプレーし、昭和55年に45歳で現役を引退しました。
翌年の平成2年にヤクルトの監督に就任し、データを重視した「ID野球」をチームに植え付けて3回の日本一に導くなど手腕を発揮しました。
その後、阪神や楽天で監督を務め、「ぼやき」と呼ばれる独特の話しぶりで選手をしった激励し、平成21年にユニフォームを脱いだあとは解説者として活躍しました。
野村語録で有名なのは、「月見草」と「マー君神の子、不思議な子」ですね。
また一人プロ野球のレジェンドが旅立ちました。
寂しくなりますね。
ご冥福をお祈りします。
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「打ってよし守ってよし」の球史に残る名キャッチャーとなり、選手兼任監督としても8年間チームを率いて昭和48年にはリーグ優勝を果たしました。
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翌年の平成2年にヤクルトの監督に就任し、データを重視した「ID野球」をチームに植え付けて3回の日本一に導くなど手腕を発揮しました。
その後、阪神や楽天で監督を務め、「ぼやき」と呼ばれる独特の話しぶりで選手をしった激励し、平成21年にユニフォームを脱いだあとは解説者として活躍しました。
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