常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

みみずのたはごと

2012年05月16日 | 農作業


昨日の雨は上がり、気温も上がって最高気温は21.9℃となる。一日畑仕事。苗はアスパラ、スナックエンドウ、インゲン、ツルムラサキ。タネはゴボウ、オクラ、トウモロコシ、モロヘイヤ、ズッキーニなどなど。早朝から夕刻までかかる。

畝作りをしていると土中からミミズが出てくる。急に空気に触れると、びっくりするのか、ミミズは全身を躍らせて跳ね回り、土に戻ると跳ねながら隠れようとしているようだ。こんなミミズを見て思い出すのは、徳富蘆花の『みみずのたはごと』だ。明治の時代に、都市から農村へ生活の場を移した作家の体験的随想である。

蘆花が東京の貸家を離れて、北多摩郡千歳村粕谷(現在の芦花公園)に移り住むのは、明治40年2月27日のことである。移住の動機は、生まれ育った九州の実家のような茅葺の家に住みたいことと、耕すことのできる少しばかりの土地を持ちたいという切なる希望であった。近年、大都会でビジネスの世界での活動を終えた人々が、田舎住まいへ回帰することがひとつのブームになっていると聞くが、蘆花はその大いなる魁というべきか。

この移住で蘆花が携えた農作業の道具について、明治の文で書かれている。
「柄の長い作切鍬、手斧鍬、ホー、ハット型のワーレンホー、レーキ、シャヴル、草刈鎌などの百姓の武器。園芸書類と種子と苗を仕入れた」
明治の農業は、こんな道具の名からして、外国からもたらされていることが推測できる。

チャペックと同じように蘆花もまた雨を待っている。
「畑のものも、田のものも、虫も、牛馬も、犬猫も、人も、あらゆる生きものは皆雨を待ち焦がれた。「おしめりがなければ、街道は塵埃で歩けないようでございます」と甲州街道から毎日仕事に来るおかみが云った。「これでおしめりさえあれば、本当に好いお盆ですがね」と内の婢もこぼしていた。」

いまとなっては、蘆花の住んだあたりは東京が武蔵野を呑み込んで、ほかの区と変わりない都市化を見せているが、当時はまさに山村の姿である。

「まだ北風のの寒い頃、子を負った跣足の女の子が、小目籠と包丁を持って、芹、嫁菜、薺、野蒜、蓬、蒲公英なぞ摘みに来る。紫雲英が咲く。蛙が鳴く。膝まで泥になって、巳之吉亥之作が田螺拾いに来る。蓑笠の田植は骨でも、見るには画である。」

100年と少し時をさかのぼると、こんな風景が見える。
朝から一日、鍬や鎌を手にしながら、畑に向き合っていると、時間は100年前に立ち戻っていた。
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