大正2年5月23日、上山市金瓶の農家で親族や近隣の人々に見守られて、一人の農婦が死んだ。アララギ派の歌人、斉藤茂吉の実母いくである。山形と上山の境界のようなこの村に生まれ、妻となり5人の子を育てながら、農業にその生涯を捧げた。
茂吉の父が45kほどの小男であったのに対して、母いくは68kの女丈夫であった。いわゆる蚤の夫婦である。父は歌に踊りにたけていたが、いくは歌も踊りもせず、口数も少なく、めったに家を出ず、養蚕や畑仕事に精を出す働き者であった。
いくは時々塩断ちをした。子どもたちがなぜそんなことをするのか聞くと、「お前たちが丈夫に育ち、利巧で偉い人間になるのを願ってだ」と言葉少なく答えた。結膜炎で目が充血して痛くなるのを、この地方では「やん目」といった。茂吉がやん目に罹ると、いくは村はずれの不動尊に連れて行った。
不動尊は不動沢に祀ってあり、岩を伝ってきれいな水が滝になって落ちていた。そこで母と子は目が早く直るように不動尊に祈願礼拝した。いくは滝の水で茂吉の目を幾度も幾度も洗うのであった。
オダマキが可憐に咲き、田植が済んだ田には蛙の鳴き声がこだましていた。村が一番美しい季節に、いくは逝った。59歳であった。その時、斉藤茂吉はまだ31歳、大学を出たてのころであった。いくの死は、茂吉に大きな衝撃を与えたことであろう。
斉藤茂吉は第一歌集「赤光」に「死にたまふ母」と題する連作挽歌を発表し、その死を悼んだ。その歌には母を亡くした子の真実があふれ、読むものに感動を与える。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる
死に近き母が目に寄りをだまきの花咲きたりといひにけるかな
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
のど赤玄鳥ふたつ梁にいて垂乳根の母は死にたまふなり
「死にたまふ母」は59首に及ぶ連作挽歌であり、斉藤茂吉の母を思う心の叫びであった。