常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

最上義光

2012年05月17日 | 日記


曇り、千歳山へ。
最上義光の菩提寺、光禅寺の庭園が最も美しい季節を迎えた。白と赤の牡丹が咲き誇り、水際の白つつじも清楚だ。この庭園は江戸初期の遠州流の名園である。池には川の流れを引き入れ、小さな野鳥が遊んでいる。桜の季節には寺の表玄関への通路のメガネ橋に、かかるように垂れる枝垂桜の鮮やかなピンクが映えるが、この季節のとりどり花に魅せられる。

戦国武将、最上義光がその栄光と波乱にみちた69年の生涯を閉じるのは、慶長19年(1614)1月18日のことである。その3年前、慶長16年3月23日、義光は徳川家康から近衛少将に任ぜられた。京都にある天皇を護衛する、武将にとっては名誉ある役職である。だが、この晴れやかな叙任の後、義光は病に伏せるようになった。

死の前に、家康に面会せねばと考えた義光は、病をおして駿府城を訪ねた。感激した家康は、自らの近くに呼び寄せ、病状を尋ね、手ずから薬をとらせて義光の病をいたわった。帰りには江戸城で将軍秀忠に面会し、ここでもあたたかいねぎらいの言葉と数々の土産の品を下賜された。



光禅寺南東の墓所に、うしろの大樹に囲まれ、右には殉死した4名の家臣の墓碑を従えた義光の墓が威厳を示して建っている。法号は「光禅寺殿玉山白公大居士」

生前の義光は、家臣から「殿の住いを身にふさわしいものにされては」と山形城の改修を建議されても、「いや、城、堀の普請は民衆の草臥れになる。むしろ外を護る出城をしっかりとすべきで、この城に天守閣は必要ない」と応じなかった。

戦に明け暮れ、数々の人の命を失くさせたものとして、その霊への供養として寺社の造営、修復を命じている。
また京にあっては、里村紹巴や細川幽斎らの連歌の会に加わり、連歌を楽しみ、和歌を詠み、源氏物語の講話に感激して、これに打ち込んでいくという文人の面を合わせ持っていた。義光が羽黒山に参詣したおり、吹越で詠んだ和歌2首を紹介する。

 吹越や月だに漏れぬ柴の戸に夢路絶えたる山風の音
 
 朝見れば霞の衣切りたちて春秋わかず氷室守る山

このほど、山形郷土史研究会協議会が最上義光没後400年に向け、記念歌「残照」を義光の歌に着想を得てつくった。

詩:新関昭男 曲:高橋龍堂 

霞が城の春の宵

ぽつりと咲いた花ひとつ

散らすも惜しい人の道

さくら吹雪も夢のうち

花ゆえに馴れ初めけるも縁あれや

変わらじとのみちぎりつる仲
コメント
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