常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

うそつきみっちゃん

2012年05月09日 | 日記


平成4年に亡くなった作家・井上光晴の娘、井上荒野が小説「結婚」を書いた。結婚詐欺師の男とだまされる女たちの物語だ。父・光晴にも同名の小説がある。こちらは詐欺師を追う探偵が登場するサスペンス風な小説で、井上光晴の作品では異色のものだ。

井上光晴は子どものころ、遊び仲間から「うそつきみっちゃん」と呼ばれていたらしい。
中国旅順生まれと公言していたが、本当は福岡の久留米生まれ。少年時代に炭鉱で働いていたこと、朝鮮独立運動を扇動した容疑で検挙されたことを書き記しているが、どれもうそ。

荒野は朝日新聞のインタビューで、父が朝帰りが多くので、「どこに泊まるの」と聞いたら「バーに泊めてもらう」といううそを素直に受け入れていたと語っている。「本人にしかわからないコンプレックスがあって、自分が背負っているものをプラスに転じようとして、うそをついたんだと思う」と娘の思いで推測している。

光晴自身、「小説の書き方」という本のなかで「墓場まで持っていく嘘」と題して、嘘について語っている。「はっきりいうと、自分の利益にならない嘘は、いくら吐いてもかまわないと、僕は考えます。相手を騙したり、傷つけたりする嘘は生き方として最も下劣なものですが、自らを犠牲にして相手を救う嘘は、それはもう嘘ではない。人生における虚構の方法といっていいでしょう」

たとえば「皮膚を黒く焼いて、黒人の立場に立った体験記がありましたが、10年や20年で実はこうなのだというつもりなら、初めからやらない方がましです。黒人のまま葬られる、それこそが嘘のなかの嘘だし、フィクションを最も高めた形式であるかもしれない」と語っている。

1985年11月末、山形文学伝習所が開かれ、井上光晴自身が3日間に亘って講演した。
受講生に原稿5枚を書かせ、それを読み上げながら、文章の書き方を語り、小説の書き方を語った。休憩になると、持参したジョニウォーカーの黒を舐めながら、語りに熱がこもった。「本物がわからないとだめですよ。ジョニウォーカーを飲んでみてはじめて、日本のウィスキーが色つき水だいうことがわかるんです」

「山形の漬物は本物ですね。温海かぶの酢漬けが、僕は好きです。これに少し醤油をたらして食べるとうまいね。それから、そばね。てんぷらなどをつけて食べるのは論外ですよ。かけそばで食べるのが、そばのかおりが味わえていいんですよ」

夜になると、井上光晴を囲んで伝習生の酒の会になった。作家とこれほど距離がない交流というのは、この伝習所以外にはないのではないか。だが、この時期にすでに井上は癌に蝕まれつつあった。キノコなど癌を治すといわれるあらゆる種類の民間療法を試している、と話していた。

病床についた井上は、見舞いに訪れた瀬戸内寂聴に語ったという。
「全身不随になっても、俺は生き通してみせる。切り刻まれたって、体中管だらけのお化けになったってそんなことは俺は平気だ。生きて書きたい」と。瀬戸内寂聴は井上の葬儀で弔辞を読んだ。「わたしは小田仁二郎によって文学の開眼をさせられ、あなたによって文学の軌道修正をつづけさせられました。実に多くのことをあなたから教えられました。文学の真贋の見分け方、世界の情勢の解読のしかた、不幸な人への対応の心等々、数えあげればきりもありません」

井上光晴と瀬戸内寂聴、このふたりの作家はお互いをリスペクトしながら、それぞれの道を歩んだ。出家まもない寂聴が脳梗塞で倒れた。井上が寂聴を見舞い語った。
「小説家は頭が命だよ。頭をやられたらもう終わりだ。あなたは死になさい。私が見取ってあげる。だめになったあなたをさらしものにしたくない」こうもはっきりと言い切れるのは、お互いの信頼があってこそのことであろう。

この山形文学伝習所の世話人は笹沢信氏と河内愛子女史である。井上光晴は深夜叢書の斉藤慎爾氏との交流も深く、山形と深い縁で結ばれていたのである。そのころ、私はビブリアの会やかたりべの会に属して、拙い文章を書いていた。
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