常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

尾花沢 鈴木清風

2012年05月11日 | 日記


曇りのち晴れ。尾花沢へ行く。きょうの訪問目的は、植え付けてもらうヤーコンのタネ芋を届けることだ。植え付けを依頼して3年を経過した。最初は「こんなもの、どうするの」という感じだったが、収穫したヤーコンを食べてそのおいしさを実感し、納得して協力して貰っている。

このところ葬儀が続き、尾花沢の人たちと顔を合わせる機会がぐんと増えたため、以前にましてつき合いの度合いが深まっている。ただ、この地区は過疎化の様相をいっそう深めており、宮城県など近隣との交流は、芭蕉がこの地を訪れた時代に比べて、かなり細っているように見える。

俳聖・松尾芭蕉がこの地を訪れたのは、元禄2年(1689)5月19日(陽暦7月3日)のことである。この地の豪商鈴木清風の招きに応じるものであった。この日から5月26日、山寺へと立つまで9泊を清風宅と近くの寺、養泉寺に宿泊している。おくのほそ道の旅で、9泊というのは、異例の長期滞在で、芭蕉が清風をいかに重視してここを訪れたかが推量できる。

芭蕉は「尾花沢に清風と云う者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情けをも知りたれば、日此とどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る」と「おくのほそ道」に書き記している。

では鈴木清風なる人物はどのような人であったか。私がこの人物について多少の知識を得たのは、学生のころゼミ演習においてであった。担当は榎本宗次先生であった。古文書の解読の演習である。そのテキストに使ったのが、大学図書館に収蔵されていた鈴木家文書であった。その文書は鈴木家が貸し付けた金品の借用書が主なもので、その対象は近隣の武家、大名であった。紅花を商いしながら、大きな商いによる利益を元手に金融行う豪商の片鱗が、古文書の随所に記されたいた。鈴木清風はその豪商の第3代当主である。

担当の榎本先生の印象は、いまだ忘れえない。古文書は丸まって保管されているので、先生はその和紙を伸ばしながら、かなの母字を示しその省略表現を話してくれた。3時ころから始まる演習は、4時半ころまで続いた。日がかげりはじめると、先生は酒の話に主題を変えた。酒どころ秋田の銘酒に話が及び、先生の好みは新政だという。ようやく20歳になった学生に「どうだね、ドッペりの駒鳥に新政があるからちょっと試飲してみないか」

そこは煮込みの鍋を置いたカウンター式の居酒屋で、ゼミの4,5名の学生は鈴木家の文書の続きに、秋田の酒の味を教わったのである。観桜会と名付けられた花見で飲んだ合成酒のような酒に比べると、先生の薀蓄も加わって何とも味わい深い秋田の酒の味であった。先生は研究した鈴木家文書をもとに、「俳人鈴木清風の豪商的側面」という論文を発表、
「芭蕉を俳諧師風情」として見下していた側面を指摘した。

尾花沢の「鈴木清風歴史資料館」に入ると、色紙に絵入りの清風伝説が展示されている。
最上の紅花商人をおとしいれようと江戸の商人たちが不買同盟をを結ぶ。それに憤った清風は舟に積んだ紅花を舟もろとも焼き払った。何しろ最上の紅花は江戸に流通する紅花(口紅の材料)の過半を占める。この事件が紅花の価格を暴騰させた。ところが焼き払った舟に積んであったのは、鉋屑で、高騰した価格で紅花を売った清風は巨万の富を得た。

この富を私することをいさぎよしとしない清風は、その利益で苦界に身を沈めた娼婦をなぐさめようと、吉原の大門を3日3晩閉めて買いきり、娼婦たちに休養を与えた。そのお礼として木彫り人麻呂人形を花魁から貰い、その現物が展示されている。この伝説が事実かどうか、疑わしいが榎本先生は清風のそんな一面を古文書の中に読み取っている。

こよなく酒を愛した榎本先生は、酔って階段を踏み外し若くしてこの世を去った。けれども先生は、私にとって生涯の恩人である。家からの仕送りもないままに入学した私に家庭教師の紹介をして下さったのも先生であった。後輩の結婚式に東京から駆けつけてきてくださったのも、きのうのことのようである。
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