
街のあちこちで七夕飾りが見られる。竹の枝に短冊を下げて、玄関前に出している家もある。昔は、自分が子供であったころ、短冊に願い事を書いて木の小枝に吊るしたものだ。竹飾りの前に台を据え、畑から収穫した野菜や早稲りんご備えた。七夕の風習は遠い昔から、日本の家に年中行事として根付き、現代に至っている。
7日の上弦の月が沈むころ、美しい星雲である天の川が現れ、その西に牽牛星(ひこぼし)、東に織女星(たなばたつめ)が相対して明るくまたたく。牽牛星と織女星が、年に一度のはかない逢瀬を楽しむという伝承は、中国の後漢時代(AD30年ころ)にすでに成立していた。
唐の人々は残暑の夏、夕涼みがてら空を仰ぎ二つ星のはかない契りを思いやった。若い男女は、自らの思うにまかせない恋路を二つ星に重ねて、悲しい恋の物語をわがことのように嘆いたのかも知れない。
牽牛は織女を娶るとき天帝から2万貫を借りたが、遊び呆けてその借財を返済せずにいたところ、罰を受けて七夕の日だけしか二人は会うことを許されなかった。この日、カササギが川の橋となって織女を牽牛のところへ渡した。牽牛と織女伝説である。この話が日本へ持ち込まれると、漢詩や和歌のテーマに盛んに取り入れられた。
『和漢朗詠集』をみてみよう。
憶ひ得たり少年にして長く乞巧せしことを 竹竿の頭上に願糸多し 葉s区
乞巧(きっこう)は七夕の行事。芸や学問が上達するように乞い祈る。そのため、竹の竿に5色の糸をかけ、針に糸を通し、木の葉に願いごとを書き付け、くだものを供えて願った。
露は別れの涙なるべし珠空しく落つ
雲はこれ残んの粧ひ髻いまだ成らず 菅
菅原道真の詩でる。夜、落ちる露を牽牛織女の涙に見立て、空に出る雲を織女の寝乱れた髪に見立てる。清少納言も取り上げた有名な詩である。
願い事は、いまは何でも書いて結構ということらしいが、学問に通じ、針仕事を上手になるようにと当時の子供たちは、祈った。いまは、野球選手になりたい、サッカー選手にと願う向きが多いようだが、まさに隔世の感がある。