常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

西瓜

2012年07月26日 | 日記


曇りのち晴れ、気温30℃、風やや強い。
尾花沢から西瓜が届いた。ニュースで熊の被害にあったことを聞いたが、親戚の西瓜は無事だったらしい。小玉西瓜だ。小家族化が進み、西瓜も小玉でないと売れないらしく、尾花沢の栽培農家でも作付けしているのは殆どが小玉である。

冷やした西瓜を食べると昔の味が偲ばれる。北海道でも戦後すぐに西瓜と南瓜の栽培が盛んになった。米が乏しい時代では、南瓜がその代用にされた。南瓜の隣に西瓜を栽培した。わが実家では、酪農家であったから、畑には牛糞の堆肥を大量に入れられたので、地味は肥えていた。父は黒い土が自慢で、作物はよく実った。それでも西瓜には、肥料を特別多く入れた。実家の西瓜を街の人が買いに来た。甘い西瓜だと評判であった。

夏休みが近づくと、丹精した西瓜が実り始める。指でぽんぽんと叩いて、実り具合を見た。友達と西瓜畑で頃合の西瓜を採って、川に持って行き、水遊びをしながら冷やした西瓜を食べたのは、遠い昔の思い出である。
家中で車座になって、大きな西瓜の切り身にかぶりつくのが醍醐味であった。真ん中の一番甘いところを先を争って手を出すのも往時の懐かしい情景であった。

両断の西瓜たほるる東西に    日野 草城

これの世や西瓜を割れば色烈し  篠田俤二郎

まだきより西瓜常陰の井にて冷ゆ 中尾 白雨

西瓜の産地は季節によって出荷時期が異なっている。6月に千葉産の西瓜が終わると、市場では尾花沢の西瓜を待つ。7月の中ごろから、尾花沢産の西瓜が出回るが、今年は少し遅れたようだ。日曜日など家にいると、マイクつきのトラックで「西瓜あ、西瓜あ、尾花沢の西瓜あ」とふれながら、売り歩くのが風物詩であったが、近年はあまり見かけなくなった。スーパーでカットされた西瓜が主流になったと聞く。道の駅などの西瓜直売所では、小玉1個800円の値がついていた。


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土用

2012年07月26日 | 日記


土用。広辞苑には「暦法で、立夏の前一八日を春の土用、立秋の前一八日を夏の土用、立冬の前一八日を秋の土用、立春の前一八日を冬の土用といい、その初めの日を土用の入りという。普通には夏の土用を指している」とある。大暑にかかる、一年で、一番暑い季節だ。

土用の丑の日には、うなぎを食べると夏痩せに効果があると言い伝えられてきた。
万葉集に

 石麿にわれ物申す夏痩せに良しという物そ鰻取り食せ

という、微笑ましい歌が詠まれている。それから800年後、江戸時代の平賀源内が、鰻屋の看板に土用丑の日と掲げるアイデアを出したところ、大繁盛して、その商売が今に受け継がれているという。それほど鰻は日本人に親しまれてきた。うなぎは、数年間の淡水生活を経て成長すると産卵のため川を下って海に入り、赤道直下の深海にあると見られる産卵場所で卵を産む。深海で卵から孵った幼魚は海流に乗って陸に近づきシラスウナギとなって川を上る。このシラスウナギを捕らえて養殖したウナギが、日本人の口に入ってきた。

だが、昨今の鰻の稚魚の減少で鰻の値段がうなぎ登りで、庶民の懐では手の届かないものになってしまった。ウナギの産卵そのものが減少しているのか、海流の変化でシラスウナギが今までの捕獲場所から離れてしまったのか、詳しいことは分からない。飽食の時代と呼ばれる今日、夏の栄養補給は鰻だけに集中すべきものではないだろう。探せば、安くて栄養いっぱいの食材がいくらでもある。

今村昌平監督の映画「うなぎ」は1997年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。役所広司扮する中年の主人公は妻の不倫を知り、逆上して妻を刺殺してしまう。刑期を終え出所してきた男は床屋を開き、人との交際も絶って、水槽でうなぎを飼育する。男の話し相手は、唯一この美しくもない鰻である。男が自殺した女を見つけて、命を救い、床屋の従業員として使うところからこの物語は展開されていく。

梅雨が明けると土用干しが始まる。7月の梅が日本人に用いられて来た歴史も鰻に劣らずに古い。本来梅干は梅酢を作った後の副産物であり、これを黒焼きにして腹痛の治癒・虫下し・解熱・腸内の消毒の効用を目的に、食用よりもむしろ漢方薬として用いた。紀元前の古墳から梅漬けに利用されたと見られる瓶が出土している。

梅酢の副産物から梅干へ、中国からもたらされた梅は、日本人の知恵が付加されてなくてはならないものになった。水上勉の「土を喰う日々」に、恩師が53年前に作った梅干を食べる話が出てくる。

「最初の舌ざわりは塩のふいた辛いものだったが、やがて、舌の上で、ぼく自身がにじみだすつばによって、丸くふくらみ、あとは甘露のような甘さとなった。ぼくは、はじめはにがく、辛くて、あとで甘くなるこんな古い梅干にめぐりあったことがうれしく、53年も生きた梅干に泣いた」と、本物の梅と塩だけで作る梅干の真髄を書いている。
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河童忌

2012年07月24日 | 日記
芥川龍之介が滝野川町田畑の自宅で、劇薬であるベロナールとジェアールを多量に服用して自ら命を絶ったのは、昭和2年7月24日の未明のことであった。以来、この日を芥川を偲ぶため河童忌といわれている。

芥川は遺書に「将来に対するぼんやりした不安」という言葉を遺して逝った。親友であった菊池寛は、芥川にはどうしても死ななければならなかった理由などない、書いている。芥川の神経が余りにか細く、世間にあるちょっとした確執を気にし、近親の不幸、自分の不眠症や胃腸病などが重なったことが理由ではないか、とも述べている。

菊池寛は、芥川と最後に文芸春秋座談会に会っているが、その別れ際の目の光を回想している。芥川には、編集や実業に携わる菊池寛を心強い存在に感じていたのではないか。死の前に2度も芥川は菊池に会いに文芸春秋を訪れている。菊池寛はそのことに気付かないまま、芥川の死の知らせを受けている。妻文子のほか、菊池寛、画家小穴隆一、叔父竹内氏に宛てた4通の遺書が残されたいた。菊池寛宛の遺書は日付が4月になっているので、この面会のころにはもうその死を決めていたのであろう。

芥川は親友である菊池寛に何を話したかったのか。いまそれを知るすべもない。
芥川の死んだ昭和2年7月24日は、未明から雨のなった。それまでは連日のように猛暑が続き、新聞は33年ぶりの暑さであると報じている。暦の上の大暑のころであるが、ここから立秋までの日々は、今年もそうだが誰もが身体がだるくなる暑さである。その暑さが、芥川の病んだ神経にダメを押したとも考えられる。
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ジャガイモ

2012年07月23日 | 日記


気温上がる。30℃を超える。
まわりの畑でジャガイモの収穫が始まったので、わが家のジャガイモも試しに掘ってみる。一株だけだが、想像以上にできがいい。品種はキタアカリ、所々に赤い部分が見えてきれいだ。小さな芋は、素揚げにして、塩をふって食べるとおいしかった。

子供のころ、北海道では多くの畑で、ジャガイモが栽培されていた。明治政府が推進した屯田兵が行う開拓の食料としてジャガイモが適していたからであろう。これによって北海道は、ジャガイモの一大生産地となり、その伝統は今に続いている。畑一面に咲くジャガイモの花が終わって2カ月もすると、ジャガイモは収穫期を迎える。馬につないだハロウという道具で芋を掘り起こすと、家族全員で芋を拾い集めた。その収穫の早さ、収量の多さは他の食品とは比較にならないものであった。

家のジャガイモ畑で手伝った芋拾いの記憶はいまも鮮明にある。学校から帰ってからの作業は、日が暮れてからも続いた。小さな子供の身体には、籠の芋は重く、身体中が痛くなった。月明かりの道を家に帰ると、新ジャガの蒸しが待っていた。熱い芋に塩をつけてふうふう言いながら食べた。この芋の味の記憶は消え去っているが、辛かった労働の身体の痛みは今もなお残っている。

いま世界で一番の生産地はアメリカだ。アメリカへジャガイモを持っていったのは、アイルランドの移民であった。ヨーロッパで、収穫量の多いジャガイモは、寒い気候にも耐え、貧困階級の所要な食料になっていた。だが、1840年代の終わりに発生したジャガイモの疫病が、ジャガイモの収穫に壊滅的な打撃を与え、飢饉を引き起こした。とくにジャガイモを主食としていたアイルランドでは100万人に及ぶ餓死者を出し、200万もの移民が行われた。その移民先はアメリカがもっとも多かった。この移民の中には、後の大統領ケネディ家の先祖もいた。



ジャガイモは北海道で男爵芋と呼ばれるが、これは函館に住んでいた四国出身の川田男爵が種芋を取り寄せて、ジャガイモ栽培を始め、その種を近隣の農家へ分けてやったのが、その由来である。畑一面に咲くジャガイモの花は美しい。

じゃがいもの花のさかりのゆうまぐれ   日野草城

じゃがいもの花の三角四角かな      波多野爽波

じゃがいもの花に朝の蚊沈みゆく     阿部みどり女

新ジャガは新しいからそう呼ぶのではなく、まだ小さく皮も食べられのを指している。

新じゃがをほかほかと食ひ今日を謝す   大野林火

新じやがや野風の先の田舎富士      凡  茶

新じゃがのゑくぼ噴井に来て磨く     三  鬼

今晩、こんな新ジャガ料理を作りたい。じゃがいもを皮付きのままゆで、竹串が通るようになったら取り出し、すぐに皮をむく。熱いうちに2~3ミリの厚さにスライスして、すぐに酢と油をあわせた中に入れていく。酢1に油5くらいの比率。ジャガイモが冷えたらごく薄くスライスしたタマネギ加えて出来上がり。冷蔵庫に入れて食べるときに、パセリを散らす。残っても冷蔵庫でしばらく保存が可能だ。

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向日葵

2012年07月22日 | 詩吟


季節外れの寒い日が2日ほど続いてたが、きょうは晴れて気温は27℃まで上がる。
異常気象とはいえ、その季節には咲くべき花が咲く。暑い季節に似合う花は向日葵である。この花が咲くと、映画「ひまわり」を思い出す。ソフィア・ローレンとマストロヤンニが主演する、戦争に引き裂かれた夫婦の非情な運命を描く悲恋の物語だ。

終戦を迎えても帰って来ない夫を探しに、妻はソ連の地を踏む。その地で妻が見たものは、見渡すかぎりに咲くひまわりの花であった。そして夫を探しあてるが、心配していた戦争で負傷した夫ではなく、その地で結婚して妻と子と暮す想像もできない夫の姿を見ることになる。美しい音楽が全編に流れ、夫婦の再会シーンは涙を誘う。

山形岳風会の吟道講座が山形ビッグウィングのホールで開催された。
講師になった河野岳景先生が選んだ課題は前田夕暮の和歌「向日葵」であった。先生はこの頃はあまり向日葵を見なくなったが、今度の講演の途中で大きな向日葵に出あった感動を話された。軸の太さは直径5センチはあったという。夢中でその向日葵にカメラに向けたと、話された。

向日葵は 金の油を 身にあびて ゆらりと高し 日のちひささよ

金の油はぎらぎらと輝る夏の日をさしているだろう。向日葵の花は大きく重い。その花をゆらりと高しと表現すると、もはや太陽は背景に去って小さくしか写らない。
向日葵をこんな風に詠まれると、この花とのかかわりが次々と浮かんでくる。子供たちがまだ小学生であったころ、夏休みに絵日記の旅で飛島を訪れていた。花が終わりもう重くなって頭を垂れている向日葵を見つけると、娘は巧みに実を採って食べた。

親は子に向日葵を食べることなど、教えたことはない。子供たちは新興住宅地の空き地を駆け回り、友達と遊んでいた。そんな遊びのなかから、いろんなこと知り、覚えていったであろう。タンポポやツメクサの花を編んで首飾りにした。蛇や蛙を見つけると、すぐに捕まえてきた。捨ててある猫を連れてきて、飼って欲しいと頼みこんだことも一度や二度ではない。

前田夕暮が斉藤茂吉らとの交流のあった歌人であることへも話が及んだ。短歌の勉強をしながら、昔の自然や子供たちの姿を思い浮かべる楽しい一日であった。
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